高桐院

表門から唐門へと続く、紅葉に映える高桐院の参道
表門から唐門へと続く、紅葉に映える高桐院の参道

高桐院建立

表門へつながる参道表門へつながる参道

高桐院(こうとういん)は大徳寺の塔頭寺院で、慶長7年(1602)に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三時代に智将として活躍した細川忠興(ただおき)(三斎公さんさいこう)が、玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)を開山(「関連情報」の「開山」の項を参照)として、父・藤孝の菩提のために建立したものです。

菩提所は、戒名をもってその寺号とされるのがほとんどですが、高桐院の名の由来は不明です。一説には、細川家の紋「桐の紋」より、塔頭ということもあって「高貴な桐の紋の院」つまり「高桐院」となったのではないかとされています。

高桐院らしさ

紅葉とのコントラストが美しい唐門紅葉とのコントラストが美しい唐門

高桐院は、大徳寺の中で西北の一角に位置しており、約4,000坪の敷地で、大きな木々と竹林に囲まれています。表門は創建当初のもので、大名の寺らしく豪壮な構えをなしています。

表門を入って少し行くと、右手へ向かう、約50mの直線の参道(一番上の大きな写真)にでます。この直線の参道の左右には楓(かえで)が植えてあり、夏には瑞々しい青葉で冷気さえ感じられ、秋には色づいたもみじの照りで一段と明るさが増します。そして、紅葉もその盛りを過ぎて、石畳の参道とその奥の突き当たりにある柿葺(こけらぶ)きの唐門(からもん)に、紅い葉が散り積もった様は、まさに声を詰まらせ、人の心に感銘を与えるほどの絶景といえます。

参道の両側には竹の手すりがあり、これは高桐院でとれた孟宗竹(もうそうだけ)を使ってあります。この参道は、高桐院の一番高桐院らしいところでもあります。

ガラシャ夫人との眠り

三斎公とガラシャ夫人の墓所三斎公とガラシャ夫人の墓所
この墓石は鎌倉時代のもので、千利休秘蔵の天下一の称のある灯籠でしたが、豊太閤(豊臣秀吉)と三斎公の2人から請われたため、利休はわざと灯籠裏面のを欠き、疵ものと称して豊太閤からの要請を退けたそうです。(実際この墓席を横から見ると欠けていることが分かります。)当院に墓石としてあるのは、のちに千利休が割腹の際に、三斎公に遺贈した為で、「欠け灯籠」ともいわれます。
墓所の入口の門には桐の紋。

細川忠興は織田信長の仲介を受け、ともに信長の重臣である明智光秀の娘・玉子を正室として迎えています。

しかし、天正10年(1582)6月、父・明智光秀が起こした本能寺の変により、玉子は「逆臣の娘」としての運命を背負うこととなり、丹後の味土野(みとの、平家一族の村)の山中(現京丹後市弥栄町)に幽閉されてしまいます。その後帰京するも忠興にも見放されてしまいます。

そんな折、カトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていき、キリシタンの洗礼を受けることになりました。洗礼名を「ガラシャ」(“神の恵み”の意)と賜り、細川ガラシャ夫人と言われるようになりました。

その後、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))が勃発する直前、夫・忠興が徳川方につき上杉討伐のため不在となった際、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の将・石田光成は人質に取ろうとしましたが、ガラシャ夫人はそれを拒絶しました。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャ夫人は家臣・小笠原少斎に命じて自らの命を絶たせ、38歳でその生涯を閉じました。

夫・忠興は、関ヶ原の戦いで軍功をあげ、九州の中津(大分県中津)、小倉(福岡県北九州市小倉)を経て熊本の八代(やつしろ)で83歳の生涯を閉じました。 忠興の遺言により、熊本からその遺歯が高桐院に持ち帰られて埋葬され、利休灯籠(春日灯籠)を以って墓標とし、38歳で亡くなったガラシャ夫人と二人の墓として今も伝えられています。

茶人として

細川忠興は武将でありながら、茶祖千利休の門下に入り、晩年には利休七哲(千利休の高弟七人を指す呼称)の一人に数えられ、細川三斎と名乗り、現在も三斎流の流祖として、その茶は受け継がれています。

松向軒松向軒 鳳来鳳来

高桐院には松向軒(しょうこうけん)、鳳来という茶室が設けられています。

松向軒は、豊臣秀吉が催した北野大茶会(きたのだいさのえ。北野天満宮における大規模な茶会。)の際につくった茶室を移築したものと言われ、茶室には珍しいといわれる黒壁となっています。

一方鳳来は、広くおおらかな雰囲気で、奥の床の間には「一鳥啼山更幽」(いっちょうないてやまさらにしずかなり。『鳥』の字の部分は掛け軸では一羽の鳥の絵が描かれています。)と書かれた掛け軸が掛けてあります。

降りつくばい

降りつくばい降りつくばい

鳳来の前庭には、武将・加藤清正公が朝鮮出兵から朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰り、三斎公に贈ったとされるつくばいがあります。この一角はくぼんでいて、あたかも地面にめり込んだように置かれていることから「降(お)りつくばい」と呼ばれています。

三斎公はこの降りつくばいと横にある灯籠が大変気に入られていたらしく、参勤交代の際にも熊本と江戸の間を持ち運ばれていたそうです。ちなみにこの降(お)りつくばいの直径は1mを超えていそうで、また高さも同じ位ありそうで、相当重そうです。

客殿から望む前庭に据えられた一基の灯籠
客殿から望む前庭にある一基の灯籠

≪関連情報≫
項目 内容
名称 高桐院
所在地 京都市北区紫野大徳寺町73-1
宗派 臨済宗大徳寺派
寺格 大徳寺塔頭
創建年 慶長7年(1602)
開基 細川忠興
開山 玉甫紹j(忠興の父藤孝(幽斎公)の弟、忠興の叔父)
文化財
国宝
絹本墨画山水図2幅(内1幅には、南宋の宮廷画院の画家であった李唐の署名)
重要文化財
絹本着色牡丹図2幅、絹本着色稲葉良籌像ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 参道
  2. 表門
  3. 唐門
  4. 庭園
  5. 客殿
  6. 茶室鳳来
  7. 降り蹲(ふりつくばい)
  8. 三斎井戸
  9. 三斎公とガラシャ夫人の墓所
  10. 細川家墓所
  11. 茶室松向軒
  12. 書院意北軒

図の操作について

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近隣の観光スポット情報

高桐院の所在地表記にあるようにこの界隈は「紫野」という地名が付いています。「紫野」といえば、かつて平安京北辺の地として知られ、「源氏物語」の作者である紫式部の名の由来と言われているところです。大徳寺塔頭の真珠庵には、紫式部が産湯を使ったと伝わる井戸が残されています。

高桐院を出て南へ少し歩くと北大路通に出ます。この道に沿って東へ行き堀川北大路交差点で堀川通を南へ100m程行くと、通りの西側に紫式部と小野篁(おののたかむら)のお墓があります。小野篁は平安時代初期の文人・貴族で、遣隋使・小野妹子(おののいもこ)の子孫にあたる人です。孫には三蹟の一人小野道風、平安初期の女流歌人で六歌仙・三十六歌仙の1人として知られる小野小町がいます。

一方、西へ行くと金閣寺(鹿苑寺)を訪れることができます。

posted by はんなり・ジャーニー at 11:01 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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