
上醍醐入口-醍醐寺-
真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺は、今から1100年以上も前に遡る平安時代前期、理源大師聖宝(しょうぼう。832〜909)によって笠取山(京都市伏見区東部にある現在の醍醐山)の山上に創建されました。山岳寺院として始まった醍醐寺は、その後、自らの尽力と時の権力者の支援を受けながら山の麓までその伽藍が拡張され、壮大な寺域を誇る寺院へと発展しました。現在では、山上の寺域を上醍醐、山麓一帯(山下)を下醍醐として大別し、これらを総称して醍醐寺と呼びます。
理源大師聖宝
生い立ち
聖宝は、天長9年(832)2月15日、讃岐の国の本島(現在の香川県丸亀市の瀬戸内海に浮かぶ本島)で誕生したと伝えられています。俗名を恒蔭王(つねかげおう)といい、父は正六位下の位に相当する兵部大丞(ひょうぶのだいじょう)の官職に就いていた葛声王(くずなおう)という人で、母・綾子姫は讃岐の国の出身でした。名前に「王」が付いているように、天智天皇の皇子である施基皇子(しきのみこ)を始祖とする高貴な家柄の人です。
父・葛声王は、政治的問題から筑紫(九州方面)の防人として左遷されました。夫を追って綾子姫が瀬戸内海を渡っている時、産気づいた綾子姫は讃岐の国の本島に上陸し、恒蔭王を出産したのでした。それから16年、恒蔭王はこの島で暮らしました。この間恒蔭王は、島々の学僧を尋ねてはいろいろ教えを請ったと伝えられています。
承和(じょうわ)14年(847)、本島を出て京に上った16歳の恒蔭王は、現在の京都市伏見区深草の黒染辺りにあった貞観寺(じょうがんじ)の門を叩いて出家し、真雅(しんが。この時46歳)の弟子となり、名を聖宝と改めました。真雅は空海の実弟にして弟子となった人で、法光大師の諡号が贈られた人です。空海、真雅は讃岐の国の佐伯直(さえきのあたい)氏一族で、なおかつ、聖宝の母が同じ佐伯直氏の出身であったことは何かの縁があったのかもしれません。
山頂までのほぼ中間地点にある不動の滝
-醍醐寺-
伝説
それからというもの聖宝は、真言を真雅から学んだのをはじめとして、山論宗を願暁と円宗に、法相宗を平仁に、華厳宗を玄永に、そして律宗を真蔵に学ぶなど、多くの名僧に師事して学業を磨いていきました。その一方では、聖宝を取り巻く多くの伝説・説話も生まれました。
- 16歳で出家してのち、東大寺で修業を積むことになりまだ住むところがなかった聖宝が、東大寺が建立した時から鬼神の棲みかとなったため放置されたままとなっていた「荒室(あらむろ)」と呼ばれる東僧房の南第二室に寄宿することになったため、その後鬼神が様々な形をとって現れたが、聖宝には太刀打ちできす遂には退散していったという伝説
- かつて奈良の葛城、生駒等の山々を修行の場としてきた役行者(えんのぎょうじゃ)が特に霊峰と崇め厳しい修行に身を投じて開いた大峯山(おおみねさん)に大蛇が住まったため参詣する人も絶えていた時、聖宝が退治してくれたおかげで行者の往来の絶えることが無くなったという伝説
- 奈良吉野の金峯山(きんぷせん)の阿古谷に棲んで通行する行者に危害を加えていた竜を退治するという伝説
- 聖宝が金峯山から大きな岩石を脇に抱えて持ち帰ってきたという強力(ごうりき)伝説
- 聖宝がまだ若くして修行を積んでいた東大寺でのこと。物惜しみをして人に与えることをしないため、罪深く思っていた上座の僧に対して、聖宝が「どうすれば多くの僧に供養してくれるのですか」と問いかけた。これに対して上座の僧が「間もなく開催される賀茂際の日に褌姿に干鮭(からざけ。ひものの鮭)を太刀代わりにさして、牝牛(めうし)にまたがり、『私は東大寺の聖宝である』と名乗りを上げて通ったら、供養を施すことにしよう」と約束をした。上座の僧はまさかそのようなことはしないだろうと高をくくっていたが、聖宝は約束通り実行して、上座の僧にも約束を果たさせたという説話。
四国遍歴の旅
真雅は大層犬好きで飼っていました。一方聖宝は犬が大嫌いでした。ある時真雅が所用で出かけたとき、聖宝は、門の前でうろついて犬を欲しそうにしていた猟師に、真雅が飼っていた犬を与えてしまいました。戻ってきて可愛がっていた犬がいないことに気付いた真雅は、なぜ犬がいなくなったかに気付いて怒り、そのようなことをする者をここに同宿せるわけにはいかない、と言いました。
聖宝は自分がしたことを大変申し訳なく思い、世話になっていた貞観寺を出て、母が眠る四国へ行乞(ぎょうこつ。托鉢)の旅へ出ました。この時、聖宝27歳。四国へ渡ると、亡き母のために一寺を開き、菩提を弔っています。
ある日讃岐の国で、聖宝は手を洗おうとして、近くで遊んでいた子供たちに水の所在を聞いたことがきっかけで、卓越した能力を持つ1人の子どもを見出しました。聖宝はその子の両親の了解を得ると京へ連れて帰ったといいます。その子は後に醍醐寺初代座主の他、仁和寺別当、東寺長者、金剛峯寺座主を歴任し、空海に対する『弘法大師』の諡号下賜に尽力した観賢(かんげん)その人でした。
醍醐寺開創(上醍醐の伽藍建立)
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理源大師聖宝
聖宝は山岳修行を重ねる一方、行動の人らしく、仏法久住の地を求めて山々を渡り歩いていました。貞観(じょうがん)16年(874)春、貞観寺の住房・普明寺にて、7日間仏法相応の宝所を授かろうと祈念していました。すると満願の日の夜明けに、普明寺の遥か東方にある笠取山(醍醐山)の峯に五色の雲がたなびくのが見えました。聖宝はすぐさまその峯に登ろうと出発しました。途中、深々と繁茂する樹林の中を登り続けて辿り着いた聖宝は、そこに精舎(しょうじゃ。僧侶が仏道を修行する所、寺院。)を建てることにしました。
するとそこにどこからともなく一人の老翁が現れ、近くに湧き出ている泉の水を手ですくって飲み干すと「嗚呼、醍醐味なるかな」と言って称えました。この時発した言葉が醍醐寺の名の由来であるといいます。また、聖宝はこの地を醍醐山と名付けました。聖宝はこの老翁に、「ここに精舎を建て、仏法を広めようと思っているが、永く久住の地となるだろうか」と聞くと、老翁は「我はこの山の地主(じしゅ)・横尾明神である。この山は永く和尚に献じるので、仏法を広め、人々を救われよ。我もお護りしよう。」と言うと消えたといいます。
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横尾明神を祀る小社-醍醐寺-
ここに草庵を設けた聖宝は、貞観16年(874)6月1日、准胝(じゅんてい)・如意輪の両観音像を刻むための御衣木(みそぎ)を用意し、また、自ら斧を手にして礎を据え、柱を立てました。そして准胝・如意輪の両観音像の造立も終えた2年後の貞観18年(876)6月18日、それらの像を安置する准胝堂、如意輪堂も完成しました。この時を以って醍醐寺創建とされています。
その後この醍醐山には、清瀧宮(せいりゅうぐう)本殿、清瀧宮拝殿(国宝)、薬師堂(国宝)、経蔵、五大堂、白山堂、開山堂(御影堂)と山上伽藍が構築されていきました。そして創建以来一千年を超える今日においてもこんこんと湧き出ている醍醐水を覆っている閼伽井舎(あかいしゃ)があります。
醍醐水-醍醐寺-
創建以来一千年を超える今日においても霊水は湧き出ています。
背後の上の方に青く見えるのは、准胝堂(平成20年8月24日未明、落雷により焼失)があった所です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 醍醐寺−上醍醐− |
| 所在地 | 京都市伏見区醍醐東大路町22 |
| 山号 | 醍醐山、深雪山(上醍醐寺) |
| 宗派 | 真言宗醍醐派 |
| 本尊 | 薬師如来座像 |
| 寺格 | 総本山 |
| 創建年 | 貞観18年(876) |
| 開山 | 聖宝 |
| 文化財 |
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【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 清瀧宮拝殿
- 清瀧宮本殿
- 横尾大明神
- 醍醐水
- 薬師堂
- 経蔵跡
- 鐘楼(※)
- 如意輪堂(※)
- 白山堂(※)
- 地蔵堂(※)
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近隣の観光スポット情報
上醍醐の麓には金堂(国宝)、五重塔(国宝)、豊臣秀吉が聚楽第の庭から運び込ませた名石といわれる藤戸石(ふじといし)のある三宝院庭園(特別名勝・特別史跡)などがあり、世界遺産に認定されている醍醐寺−下醍醐−があります。
更に下醍醐の総門を出て前の通り(醍醐道)に沿って北(総門を出て右方向)へ行くと小野小町ゆかりの寺として知られる随心院(小野御霊町35)があります。


