
本堂
寂光院縁起
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本門
聖徳太子は父用明天皇の菩提を弔うためのお寺を造るために、先ず六万体の地蔵菩薩を浪速(大阪)で造りました。そして、それを馬で運んで、その馬が止まった所に菩提寺を建てようと考えていました。行きついて止まった所が大原のこの地でした。聖徳太子はこれも縁として、推古2年(594)、ここにお寺を建立しました。聖徳太子が造った六万体の地蔵菩薩を本尊として祀ったのが寂光院の始まりとされています。
そしてこのお寺を守る為につけられたのが聖徳太子の乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)でした。この方が初代住持最初の住職となったことから、寂光院の住持は代々高貴な家門の女性に引き継がれてきました。
数奇な運命
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諸行無常の鐘楼と千年姫小松(鐘楼右手前)
寂光院は、建礼門院が隠棲したところとしても知られています。
建礼門院は平清盛の次女で、高倉天皇の皇后であり、安徳天皇が生まれると天子の国母となり、天下は思いのままでした。4月、10月になると様々な色の衣に着替える衣替えをし、摂政関白以下の大臣・公卿にかしずかれ、文武百官が敬い仰がぬものはなく、清涼殿・紫宸殿の床の上、玉の簾(すだれ)の中で大切にされ、秋は雲の上の月をひとり見ることを許されず、月見の遊宴などに夜を過ごし、冬の白雪の降る寒い夜は衣を重ねて暖かにし、明けても暮れても楽しみ栄えた生活を送れたことは天上の幸福もこれ以上ではあるまいと思われるほどのものでした。
それから高倉上皇が治承5年1月14日(1181年2月6日)、平清盛が同年閏2月4日(1181年3月20日)と相次いで没し、平家の勢力に陰りが見え始めると、源氏が勢力を盛り返し、木曽義仲の攻撃により建礼門院をはじめとする平家の者は京の都を追われました。元暦(げんりゃく)2年(1185)3月、壇ノ浦の戦いでついに建礼門院の母・時子が10歳にも満たない建礼門院の子・安徳天皇を抱いて入水すると、続いて建礼門院自らも海にその身を投じました。この戦いで平家は滅亡しましたが、幸運と言うべきか、皮肉と言うべか、偶然にも建礼門院は源氏方に助けられたのでした。
その後京に送還され、ひどくみすぼらしい朽ちた僧房で日々を送っていた建礼門院は、元暦2年(1185)5月に剃髪して入寺し、それからというもの安徳天皇と平家一門の菩提を弔っていました。いつしか現在の都の近くでの、いやな事を耳にしてつらい思いをしながらの暮らしよりは、何かと寂しいながらもそういったことの耳に入らない深い山の奥へでも行き、静かに暮らしたいと思っていた建礼門院は、大原山の奥に寂光院という所があることを聞き、文治元年(1185)9月末、寂光院に移ったのでした。
灌頂巻
沙羅双樹
古典文学『平家物語』は次のような一節で始まります。
祇園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の世の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
≪意味≫
祇園精舎(インドにある釈迦が説法したとされる大寺)の鐘の音は、一切の万物は生滅流転して止まることがない、といっているように聞こえる。
沙羅林の下で釈迦が死を迎えたとき白くなって枯れたという沙羅双樹の花の色は、栄えている者は必ず落ちぶれるという道理を表している。
驕り高ぶった人も長く驕り続けることはできない。
それはただ春の夜に見る夢のように儚いものだ。
勇猛な者もゆくゆくは滅びてしまう。
それは、風が吹くと飛んでいく塵と全く同じものである。
この冒頭部分は平家が没落していく様を凝縮して書き綴ったものですが、建礼門院はその運命に翻弄されてしまいました。
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『平家物語』の終巻「灌頂巻(かんじょうのまき)」では、寂光院に隠棲する建礼門院を訪ねた後白河法皇に、建礼門院が自らの後半生を語り、『平家物語』の幕を下ろしています。後白河法皇は、建礼門院の夫であった高倉天皇の父で、建礼門院の義理の父に当たります。
建礼門院は寂光院に移ってくると、ここの一画に約3m四方の庵室をむすんで、1間を寝所にし、1間を仏像安置の場所にして、わびしい月日を過ごすことになりました。
一方、後白河法皇が建礼門院の大原の閑居の住まいを訪ねてみたいと思い、文治2年(1186)の春が過ぎて夏が来た頃、少数の従者を伴って大原へ忍びの御幸(ごこう)をされました。法皇が到着された時は建礼門院は外出していて留守でしたので、帰りを待つ間その庵室をご覧になったところ、軒には蔦や朝顔が這いかっており、庵室の付近には草がぼうぼうと生い茂っているというような情景で、屋根を葺いてある杉の皮もつまっていないため所々隙間があり、わずかに尋ねてくるものといっては、峰で木から木へ飛び移る猿の声、木こりが薪を切る斧の音だけで、訪ねてくる人も稀なところといった様子でした。
やがて戻ってきた建礼門院が法皇の訪問を知ると、いくら世を捨てた身でも、このような有様を法皇にお目にかけるのは全く恥ずかしいことで、消えてしまいたいと思いながらも、侍女の阿波内侍(あわのないし)に「出家の常です。そんな姿でもなんの差支えがございましょう。」と諭されて泣く泣くお会いしたということです。そして法皇に、京を追われてから安らぐことのなかった日々のこと、建礼門院の母が幼帝・安徳天皇を抱いて入水したことなど、その後半生を語りました。話を聞いていた法皇はじめ従者たちは皆涙したということです。そのうち寂光院の鐘の音が響き、夕日が西に傾くと、法皇は名残惜しく思いながらも、涙をこらえて御所へ帰られました。
建礼門院は月日を過ごしているうちに病気にかかり、建久2年(1191)2月中旬、ついにその生涯をここ寂光院で閉じました。
本堂の北奥に建礼門院が隠棲していたと伝えられている御庵室(ごあんじつ)跡があります。
また、建礼門院に尼となって仕えた阿波内侍は、柴売りで有名な「大原女」のモデルとされている人で、建礼門院の最後を看取ったといいます。
紫葉漬け
大原は、華やかな都からは遠く離れ、周りを山々に囲まれた洛外の山里です。1000年近くも昔であれば、さぞや草木生い茂る山里だったと思われます。
大原の里人たちは、往時は栄耀栄華を欲しいままにした悲運の建礼門院を手厚くもてなしたのではないでしょうか。それが思いやられるのが、つれづれのおなぐさめにと里人が献上した、紫蘇の葉を使った漬物でした。紫色の紫蘇の葉で茄子や胡瓜などを漬け込むと、出来上がるのは御所を思わせる高貴な「紫色」の漬物。かつて栄耀栄華を誇った皇后の誇りだけは失わせまいとする里人たちの優しさと美味しさにいたく感動した建礼門院は、この漬物を「紫葉漬け(むらさきはづけ)」と名付けました。
後にそれは「柴漬け(しばづけ)」と呼ばれるようになり、現在もなお、大原の特産品として人気を集め、あちこちの店で売られています。
朧(おぼろ)の清水
寂光院へ向かう途中の小道の右手に『朧の清水』と記された案内板が立ち、その脇にほんの小さな泉があります。この泉もまた建礼門院ゆかりのものとして伝わっています。 建礼門院が都を離れ、寂光院に向かう途中、朧の月夜に照らされて自身の姿がこの泉に映りました。そのやつれた姿を見た建礼門院は嘆き悲しまれたといわれています。
悲哀に満ちたこの情景に、心惹かれるものが多いためか、「朧の清水」は歌枕として多くの歌に詠まれ親しまれています。
四方正面の池
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 清香山玉泉寺寂光院 |
| 所在地 | 京都市左京区大原草生町676 |
| 山号 | 清香山 |
| 宗派 | 天台宗尼寺 |
| 本尊 | 六万体地蔵菩薩 |
| 創建年 | 伝・推古天皇2年(594) |
| 開基 | 伝・聖徳太子 |
| 文化財 |
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【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 本堂
- 四方正面の池
- 書院
- 雪見燈籠
- 千年姫小松
- 汀の池
- 諸行無常の鐘楼
- 建礼門院御庵室跡
- 本門
- 孤雲(茶室)
- 客殿
- 参道
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