
京都御所・建礼門前を出発
勅命によって賀茂の皇大神(すめおおかみ)に対し、朝廷の平安と天下の泰平を祈願して、勅使(近衛使(このえづかい))が天皇から託された「寿詞(よごと)」(宣命(せんみょう))を、賀茂社(下鴨・上賀茂の両神社)で読み上げ、御供えを届けるのが目的の祭です。したがって、勅使は祭の主人公と言えます。
5月15日(陰暦4月の中の酉(とり)の日)、京都御所の御車寄の前で「進展の儀」が行われた後、宜秋門(ぎしゅうもん)から出て列を整え、建礼門の前から出発します。平安朝期の装束、調度品などが忠実に再現され、総勢500名以上に牛馬計40頭、牛車(ぎっしゃ)2台、腰輿(およよ)1基などを加えた長さ約1kmに及ぶ行列が、下鴨神社を経て上賀茂神社に至る約8kmの道のりを、遡ることおよそ1200年前の平安時代の王朝絵巻さながらに、静かで、厳かに練り歩くのがとても印象的な祭です。
石清水祭(京都府八幡市の石清水八幡宮、9月)、春日祭(奈良市の春日大社、3月)とともに三勅祭の一つであり、とりわけこの三勅祭の中でも、勅使が御所からまっすぐ神社に参向するのは、この賀茂祭だけです。また祇園祭(7月)、時代祭(10月)とともに京都三大祭の一つでもあります。
古くは「賀茂祭」(かものまつり)と呼ばれていましたが、祭の当日、御所車、参列者の衣装や冠等を葵の葉や桂の小枝で飾ることから「葵祭」(あおいまつり)とも呼ばれるようになりました。 正式名称は「賀茂祭」(かものまつり)です。
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縁起
勅使を始めとして全ての役は当日限りの代役であることから、勅使代のように「代」が付けられて呼ばれます。
賀茂祭の起源は『釈日本紀 巻九』(※1)や『本朝月例所引秦氏本系帳』(※2)に引用されている『山城国風土記』(※3)の逸文に求めることができます。それによると、聖徳太子の祖父でもある欽明天皇治世下の6世紀中頃、国は暴風や豪雨にさいなまれ、五穀が実らず弱りはてていました。そこで賀茂地域一帯に勢力を持っていた賀茂県主(あがたぬし)らが、卜部(うらべ)の伊吉若日子(いきわかひこ)に占ってもらったところ、賀茂の神の祟(たた)りとされたため、四月(陰暦)の吉日を選び、若日子を勅使として、馬に鈴をかけ、人は猪(しし)の頭をかぶって馬の駆(か)け競(くら)べを行い、祭祀(さいし)をしてよく祈ったところ、五穀成就し、天下豊平になったとされ、これが賀茂祭の起源になったとされています。そして、現在も行われている「競馬(くらべうま)」、「走馬(はしりうま)」の「馬」に乗るようになったことの始まりともされています。
このように賀茂祭は当初、賀茂地域一帯に勢力を持っていた賀茂県主家を中心とした人々による、豊作祈願のための賀茂氏の祭でした。
- ※1…
- 賀茂社創建の由来などが記載。鎌倉時代末期の文永11年(1274)〜正安3年(1301)成立。
- ※2…
- 賀茂社での乗馬の由来などが記載。平安初期の元慶3年(879)成立。
- ※3…
- 8世紀中頃の奈良時代に編纂。
国祭へ
7世紀後半になって現在地に立派な社殿が造営されると、地元の人ばかりでなく、遠方からも多くの人が集まってくるようになり、祭も次第に賑わいを見せるようになってきました。そうした中で、競って馬上から弓を射る「騎射」(現在の流鏑馬(やぶさめ)に相当)が人気となりました。しかし地元の人と他国からやってきた人との間で何かともめ事に発展することが多かったのか、文武天皇2年(698)騎射は一旦全面禁止となりましたが、その4年後には当国(山城国)の人に限って許可され、更にその9年後には監視のために山城国司が祭の日に直接出向いてきて目を光らせるようになったといいます。こうして賀茂祭は、国司が直接監視する「国祭」となったのでした。更に27年後の天平10年(738)には、問題もなくなってきたのか、全面解禁となりました。
勅祭へ
牛車(ぎっしゃ)
牛車を取り巻く人達がかぶっている帽子には葵の葉がくくられているのが見られます。
延暦13年(794)平安京に都が遷(うつ)され、弘仁10年(819)になると、嵯峨天皇より「賀茂御祖並びに別雷二神の祭、宜しく中祀(ちゅうし)に准ずべし」との勅が出されました。これは賀茂祭が朝廷の重要な恒例祭祀(さいし)に准じて行う「勅祭」として位置づけられたことを意味します。しかも当時律令制下で行われる祭祀は、大祀(たいし)、中祀、小祀(しょうし)と分類され、大祀は、天皇が位を継ぐときに一度だけ行われる践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)だけで、賀茂祭が大祀に次ぐ中祀に准じられたことは、重い扱いを受けるようになったことになります。
これ以降の賀茂祭の様子は、平安期の女流作家の手になる『蜻蛉日記』(作者:藤原道綱母)や『枕草子』(作者:清少納言)、『源氏物語』(作者:紫式部)などにも記されるようになりました。そしてそれらの作品の中で単に「祭」とあれば、賀茂祭のことを指すまでになりました。
以下に『枕草子』から、祭に臨んでのあわただしくも心待ちにしている情景が描かれている一節を掲載します。
−枕冊子全注釈一(田中重太郎著 角川書店)第三段からの引用−四月 祭の頃
祭のころは、いみじうをかしき。木木の木(こ)の葉、まだいとしげうはなうて、わかやかにあをみたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、なにとなくそぞろにをかしきに、すこし曇りたる夕つ方、夜など、しのびたるほととぎすの遠う、そら耳かとおぼゆるまでたどたどしきを聞きつけたらむ、なに心地(ごこち)かはせむ。
祭近くなりて、青朽葉(あをくちば)・二藍(ふたあゐ)などの物どもをおしまきつつ、細櫃(ほそびつ)のふたに入れ、紙などにけしきばかりつつみて、行きちがひもてありくこそをかしけれ。すそ濃(ご)・むら濃(ご)・巻染(まきぞめ)など、つねよりもをかしう見ゆ。わらはべの、かしらばかりを洗ひつくろひて、なりはみなほころび絶え、みだれかかりたるが、屐子(けいし)・履(くつ)などの緒(を)すげさせてさわぎ、いつしかその日にならなむと、いそぎ走りありくもをかし。あやしくをどりてありくものどもの、装束(さうぞ)きたてつれば、いみじく、定者(ぢやうざ)といふ法師などのやうに練(ね)りさまよふ、いかに心もとなからむ。ほどにつけて、おほやうは、おんな、姉などの、供人(ともびと)して、つくろひありくもをかし。
童女のうしろからやってくるのは斎王代の乗る腰輿(およよ)。最下段の写真を参照。
[通釈]
(初夏になって)賀茂祭のころは、まことに興趣深い。木々の木の葉も、まだそうひどく茂ってはいないで、若々しく青みを帯びているが、霞も霧もへだてぬ(澄みきった初夏の)空模様がなんとなくむやみに心を楽しませてくれるおりから、少し曇っている夕方や夜などに、遠慮するかのように低い、小さな声で鳴いているほととぎすの、ほんとうの声かどうかと疑われるくらい遠くかすかな声を聞きつけたような時は、実に筆舌に尽くし難い気持がするものだ。
祭の当日が近づいてきて、(その日の装束にというので)青朽葉や二藍の(織)物をたくさん巻いては、細櫃(ほそびつ)のふたに入れ、紙などにほんの体裁だけ包んで、(忙しそうに)あちらこちらにすれちがいながら、持って歩き回っている光景も、まことに興趣深いものである。すそ濃やむら濃や巻き染めなども、平生よりはすぐれてよいように見える。童女が頭髪だけを洗い手入れをして、みなりは(まだ)すっかりほころびきれて、ぼろの下がっているのなどが、足駄(あしだ)や履(くつ)などの鼻緒をすげさせて、やかましく騒ぎ、早くお祭の日になってほしいものといった様子で、せわしそうに走り回っているのもおもしろいことである。(ふだんは)変なかっこうでおどりはねあるいている(元気な、おてんばの)少女たちが、(当日、)いったん(りっぱな)装束をつけ、着飾(りたて)るというと、ひどく(気どった)様子をして、あの(大法会(ほうえ)の時に香炉をささげてつつましく前行する)定者という坊さんのように、しゃなりくなりとゆっくりポーズをとって練り歩くのは、どんなに(自分の服装が)気がかりなことであろう。(その)身分(身分)に応じて、親や、おばの女、あるいは姉などが、その童女(わらわめ)の供人(ともびと)になって、(いろいろ)世話をしながら歩くのもおもしろい。
衰退と復興
淡紅色の狩衣(かりきぬ)姿の二人の子供は、牛車を引く牛の引き綱を持つ牛童(うしわらわ)。
それから約700年間営々として引き継がれ盛大に行われてきた賀茂祭は、室町時代も後期に入って武家を中心とする幕府の勢力が拡大するに伴って朝廷の権威に陰りが見られるようになってくると、践祚大嘗祭の実施さえ困難な状況となり、文亀2年(1502)になると賀茂祭の実施も困難となってしまいました。
しかし朝廷の祭祀が実施されなくなって約200年後の、江戸時代も中頃となる元禄7年(1694)には、霊元上皇、下鴨・上賀茂両神社の祠官(しかん)の尽力により、霊元天皇から東山天皇への譲位に際し、長年中断されていた新天皇の大嘗祭が復興されることとなりました。これに伴い、賀茂社、朝廷、幕府の協力により賀茂祭りも復興されるようになりました。行列の人々の衣装、冠、そして牛車などが葵の葉や桂の小枝で飾られたことから、これ以降に「葵祭」と呼ばれるようにもなりました。
ところが明治2年(1869)東京遷都となったその年には賀茂神社は勅祭社扱いされなくなり、翌明治3年(1870)には葵祭は再び中止となりました。
その後賀茂社による度々の建白の懸命の努力によって、明治16年(1883)1月、岩倉具視の「賀茂祭旧儀再興ノ事」の建議により、翌17年から、賀茂祭は官祭、祭日は新暦5月15日と定められ、勅使の行列も復活し、大正15年(1926)には新饌(しんせん。神社や神棚に供える供物)や祭式の古儀も復興されるにいたりました。
しかし昭和18年(1943)から大東亜戦争により中止のやむなきとなりましたが、昭和28年(1953)には行列が復興、昭和31年には鎌倉時代初期(13世紀初頭)に廃絶してしまった斎王の面影を偲んで「斎王代」以下の女人列も加えられ、今日見られる葵祭となってよみがえりました。
賀茂祭の諸行事
下鴨神社を出発して、上賀茂神社に向かって下鴨本通を進む斎王代列
賀茂祭は、5月15日に京都御所を出発して下鴨神社、上賀茂神社へと京都市内を練り歩く「路頭の儀」が注目を引きますが、それ以外に下記の表に掲載した様々な行事が行われます。
※下記表中の「上社」は上賀茂神社を、「下社」は下鴨神社を指します。
伝統行事
| 行事 | 日時 | 内容 |
|---|---|---|
| 前儀 | 5月初旬 |
|
| 神事 | 5月12日 |
|
| 本儀 | 5月15日 |
|
協賛行事
| 行事 | 日時 | 内容 |
|---|---|---|
| 協賛行事 | 5月4日 |
|
| 協賛行事 | 5月17日 |
|

京都御所・建礼門前を腰輿(およよ)に乗って出発する斎王代
腰輿(およよ)の屋根の下には葵の葉(縦長の緑色に見えるもの)が飾られているのが見えます。
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