鞍馬寺

仁王門(山門)
仁王門(山門)
叡山電鉄鞍馬駅の敷地を出てすぐの鞍馬街道に面する鞍馬寺の参道。石段を登り切った所に朱塗りの仁王門(山門)があります。
明治24年(1891)焼失により同44年(1911)に再建。また元は下寄りに建てられていましたが、昭和34年(1959)に現在地に移築されました。
階段の右側にある縦長の大きな石には「鞍馬寺」と彫ってあります。

京都御所から真北におよそ12kmほど行ったところに、巨大な老杉や檜に覆われた標高584mの鞍馬山はあります。その8合目あたりの、明るく開けた山の斜面に、本殿金堂をはじめとする鞍馬寺の伽藍が配置されています。その境内の広さは約16万坪。実に甲子園球場40個分を超えます。

そのような鞍馬山の中を通る参道を歩いていると、脇には玄武岩、凝灰岩、石灰岩、そしてグリーンストーンといったものが広く見られます。実はこれらの岩(石)は、およそ2億5〜6千万年前に赤道付近にあった海底火山が隆起し、年3〜4cmの速さのプレートに乗って運ばれてきたことが知られています。まさに鞍馬寺仁王門から北西方向の山奥に分け入った、貴船神社寄りにある奥の院魔王殿は、それらの累々たる奇岩の上に建っているのです。

鞍馬寺の本尊は、護法魔王尊、毘沙門天王、千手観音菩薩の三尊を三身一体の「尊天」として祀っています。護法魔王尊は地球の霊王とし「力の象徴」、毘沙門天王は太陽の精霊とし「光の象徴」、千手観音菩薩は月輪の精霊とし「愛の象徴」とされています。

縁起

本殿金堂本殿金堂
堂内の中央に毘沙門天、東に千手観音、西に護法魔王尊像の三尊尊天が奉安されています。

鑑禎(がんちょう/がんてい)、一庵を草創

聖武(しょうむ)天皇の御世(奈良時代)、日本から唐に渡った僧から、日本に戒律を伝えるよう懇請された鑑真(がんじん。中国・唐時代の僧。日本における律宗の開祖として知られる帰化僧。)は、天平(てんぴょう)15年(743)夏、1回目の渡航を試みます。この時鑑真の21人の弟子が随行することになりました。しかし、鑑真の安否を気遣う弟子の密告や暴風などによって渡航は毎回阻まれましたが、6回目の渡航を試みた天平勝宝(しょうほう)5年(753年)の12月に薩摩(現在の鹿児島県)に無事到着しました。渡日を企画してから実に10年の歳月が経っていました。

翌天平勝宝6年の1月、平城京に到着した鑑真は聖武上皇らの歓待を受けます。この時鑑真に随行していた8人の高弟のうち当時二十余歳で一番若かったのが鑑禎でした。

鑑禎は、目の見えなくなった鑑真の手足となって尽くしたと伝えられます。師・鑑真が遷化して7年後の宝亀(ほうき)元年(770)のある夜のこと、鑑真が創建した奈良の唐招提寺にいた鑑禎は、山城国(やましろのくに。現在の京都市南部一帯に広がっていた地域)の北方の高山に殊勝の霊地があるとの夢に誘われて早速出かけました。旅の途中に休息した際うとうとと眠り込んで見た夢の中に立派な高僧が現れて、「明朝、日の出のとき、東方に瑞祥が現れるだろう」と鑑禎に告げました。

翌日夜が明けると、神々しい朝日の中に、宝の鞍を背負った白馬が一つの山に蓋(ふた)をせんばかりに現れたため、鑑禎は急いでその山頂を目指しました。その夜、真暗な山の中腹の少し開けたところで焚き火をしていると、髪を夜叉の如く振り乱し、目には電光をかがやかせ、その口からは毒気を放つ、女のような鬼が現れ、鑑禎に襲いかかりましたが、一心に三宝を念じると、朽木が倒れて鬼を押し殺してしまいました。翌朝そこには毘沙門天の像があったといいます。

こうして、鑑禎が鞍馬山上に草庵を結んで毘沙門天像を祀ったのが、鞍馬寺の草創として伝えられています。

藤原伊勢人(ふじわらのいせんど/ふじわらのいせひと)、鞍馬寺を創建

不動堂不動堂
奥の院道の僧正が谷にある方三間の小さな仏堂。
堂内に祀ってある不動明王は最澄が刻んだものと伝わっています。
また、この辺りは牛若丸が天狗から兵法を学んだ所とも伝えられていて、すぐ近くには「義経堂」があります。

平安遷都(延暦13年(794))を果たした桓武天皇の御世(平安時代)、延暦15年に造寺長官(建築工事責任者)として平安京鎮護ならびに国家鎮護のための官立寺院である東寺・西寺の造営に携わった藤原伊勢人は、このような宣旨(天皇の命を伝える文書)による寺院造営に加え、私事を建てて観音を祀りたいとかねてより念願していました。

ある夜、寺院建立の場所を教えてくださいと祈って寝たところ、夢の中に、二つの山がそびえ、その間を谷水が流れている光景が現れました。そしてそこに、長年住み続けているという貴船明神と名乗る老翁が現れました。その老翁は、絹笠山、松尾山、賀茂川というキーワードを言い残して立ち去りました。

伊勢人は、老翁から教えてもらった場所は知らない上に、たやすく行けそうな所でもなさそうだったので、『昔、天竺(てんじく。インドの古称)から震旦(しんたん。中国)に仏法を伝来した時には白馬に乗せてきた』という話を思い出して、長年乗っている自身の白馬に鞍を置いたまま放ちました。そして、従者一人を連れて馬の後をつけていって辿り着いた先が、かつて夢に見た所でした。そしてそこの萱(かや)の中に、我が国で造ったものではないと思われる白檀(びゃくだん。仏像や扇の材料として珍重される、ビャクダン科の半寄生常緑高木)造りの毘沙門天の像がありました。

その後、伊勢人は、木工、木こりを連れて、かの奥山へ入り、そこに精舎を建て、毘沙門天像とともに、新たに造った千手観音像を一緒に祀りました。 ここに伽藍を備えた鞍馬寺が誕生したのです。

中興

中門(ちゅうもん)(勅使門)中門(ちゅうもん)(勅使門)
元は鞍馬街道に面する参道にたつ旧仁王門の脇にありましたが、現在はこの九十九(つづら)折り参道に移築されています。
本堂のある頂上はすぐそこに見えているのに、曲がりくねっているが故に遠くなりかつ険しい道のため、なかなか辿りつけないこの九十九折り参道を、清少納言が『枕草子』の「近うて遠きもの」(第166段)に、「鞍馬のつづらをりといふ道。」として挙げているのはよく知られているところです。今からおよそ一千年以上も昔の平安時代中期に、清少納言もここを歩いたのかと思いを馳せながら歩くのもいいものです。

草創からおよそ百年、寛平(かんぴょう。889〜98)の中ごろ(平安時代)。当時鞍馬寺は藤原伊勢人の孫の峰直が管理していました。そこへ東寺の峯延(ぶえん)上人という人が、東寺のはるか北方にたなびく紫雲を見つけ、その紫雲を目指してやってきたのが鞍馬寺でした。峯延上人は東寺の内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)に数えられたほどの高僧です。そして鞍馬寺の尊像を拝するや、東寺へ帰ることを止めてそのまま鞍馬寺に留まったといわれます。鞍馬寺を管理していた峰直は、峯延上人の人柄にうたれて鞍馬寺の一切を任せたのでした。

峯延上人が鞍馬寺に住むようになって護摩の秘法を修していたある日、雄と雌の2匹の大蛇が現れ、雄の大蛇が峯延上人を飲み込もうと襲ってきました。しかし、峯延上人は毘沙門の法力をもってこれをうち倒しました。一方、雌の大蛇は暴れることなく、鞍馬山の水を絶やさないことを峯延上人に約束して逃げ去りました。後日峯延上人がこのことを峰直に話すと、朝廷から人夫が遣わされ、切り刻んで龍ヶ嶽へ捨てたといいます。

今日でも毎年6月20日、鞍馬寺本殿で行われる『竹伐り会式』(たけきりえしき)は、この故事に因んで、水への感謝、破邪顕正、五穀豊穣を祈る古儀として伝えられています。

このことがあってから、鞍馬寺の名は一段と知られるようになったといいます。境内には鐘楼や経蔵、僧坊など新舎が次々と造られ、寺院としての形態が整備され、また東寺真言宗の寺院として公認されるようにもなりました。隆盛時には、寺内に十院九坊という、数多くの堂舎が山間に連なり、壮観を極めたと言われます。

鞍馬寺という寺号

木の根道木の根道
案内板には「土壌層が薄いため杉の根が地表を這い木の根道ができた」(一部抜粋)と記されています。

鞍馬寺」という寺号は一寸変わったものとして早くから知られており、その由来にはいくつかの説が出されています。

鞍馬山には、太古の老杉や檜といった樹木がうっそうと茂り、昼間でも暗いところから、暗山を縮めてくらま、暗間、暗魔といった言葉から連想されるものがある一方で、古典作品の中にもその由縁が紹介されています。

例えば平安時代末期に成立したと見られる説話集である『今昔物語集』の「藤原伊勢人始建鞍馬寺語第三十五」では次のような説明です。

『(前略)今(いま)ノ鞍馬寺(くらまでら)ト云(い)フ、是也(これなり)。馬(むま)ニ鞍(くら)ヲ置(おき)テ、遣(やり)テ其跡(そのあと)ヲ注(しる)シニテ尋得(たづねえ)タル所(ところ)ナレバ、鞍馬(くらま)トハ云(いふ)ナルベシ。』
(釈:今の鞍馬寺(くらまでら)というのはこの寺である。馬に鞍を置いて道案内に出し、その足跡を目印にして、探し出した所なので鞍馬というのであろう。)

翔雲台(しょううんだい)
翔雲台(しょううんだい)
本殿金堂の正面にあるこの翔雲台からの眺めは見晴らしが良く、天気のいい日には気持ちが晴れ晴れとします。
縄を張って祀られているのは、本殿後方から出土した大きな蓋石です。

また、仏事・事物の起源、寺社の縁起、和漢の故事・故実などを解説した室町時代の百科事典とされる『塵添壒嚢鈔』(じんてんあいのうしょう。天文元年(1532)成立)の「巻第十一の十五」には次のような説明が記載されています。

鞍馬寺(アンバジ)ト云ハ常ナラヌ寺号也何故ソ。(中略)
此名ニ付テアマタノ説アリ。或天武天皇大友ノ皇子被襲(ヲソハ)サセ給テ。山開(ヤマシロノ)國ヲ通リ給シ時。王子軍(イクサ)待請ケテ射(イ)奉ル。其ノ矢(ヤ)御背カニ立ケリ。(中略)追係(カケ)奉ル間。彼ノ山ノ奥ニ。楯籠(タテコモリ)給ニ。御馬ヲ鞍(クラ)置ナカラ。被繋(ツナガ)故ニ。鞍馬トハ云也。其所ノ寺ナル故ニ。鞍馬寺トハ云也ト云云。(中略)
又東寺ノ造寺使従四位上。藤原伊勢人心中ニ久シク勝地ヲ得テ。伽藍(カラン)ヲ建立メ。觀音ノ像ヲ安置(アンチ)セムト。延暦ノ比或夜ノ夢ニ。城北ノ山中ニ入テ。皤(ハタ)々タル老翁ニ遇(アフ)。(中略)
又茅亭ニ毘沙門ノ像有リ此一宇ヲ造テ鞍馬寺ト號ス。鞍置(ヲキ)馬ノ地ヲ示シ故也。』
(釈:鞍馬寺(くらまでら)というのは、他には見られない寺号であるが、どうしてそういう名前なのか。
この名については、いろいろな説がある。まず、天武天皇(当時は大海人皇子(おおあまのおうじ))が大友皇子(六四八〜七ニ天智天皇の第一皇子)に軍を向けられて、山開(やましろ)の国に来られた時、皇子は軍を待ち請(う)けて矢を放った。その矢は大海人皇子の背を射た。大海人皇子は敵に追われて、その山の奥に立てこもられたとき、馬に鞍をつけたまま繋がれたので、この地を鞍馬(くらま)といい、その地にある寺なので鞍馬寺というようになった。
また東寺の造寺使、従四位上の藤原伊勢人は、かねてから勝地を得て伽藍を建立し、観音の像を安置したいと思っていたが、延暦のころ、ある夜、夢の中で城北の山中に入り、白髪の老翁に遭った。
又茅(かや)の亭(あずまや)には毘沙門の像が有った。大夫はここにお堂を造って鞍馬寺と名づけた。鞍を置く馬がその地を示したからである。)

これら以外にも諸説はあるでしょうが、調べるほどに興味を引き付けるものがありそうです。

奥の院魔王殿の本殿
奥の院魔王殿の本殿
重畳たる奇岩上にたっているこの本殿には、650万年前に宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣され、地球の霊王としてこの鞍馬山に天下ったという大魔王尊が祀られているといいます。
奥の院魔王殿の拝殿
奥の院魔王殿の拝殿
この拝殿の奥に、塀に囲まれた本殿があります。
拝殿前広場にある案内版
拝殿前広場にある案内版
古生代ペルム紀中期(2億8千万年前)と記されています。
≪関連情報≫
項目 内容
名称 鞍馬寺
所在地 京都市左京区鞍馬本町1074
山号 鞍馬山
宗派 鞍馬弘教
本尊 護法魔王尊、毘沙門天王、千手観音菩薩の三尊を三身一体とする「尊天」
寺格 大本山
創建年 宝亀元年(770)
開基 鑑禎
文化財
国宝
毘沙門天立像・吉祥天立像・善膩師童子立像、鞍馬寺経塚遺物、石宝塔、金銅三尊像ほか
重要文化財
兜跋毘沙門天立像、名和長年書状、足利義政御教書、新田義貞書状、銅燈籠ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 仁王門(山門)
  2. 新参道
  3. 弥勒堂(※)
  4. 九十九折り参道
  5. 中門(勅使門)
  6. 転法輪堂
  7. 寝殿
  8. 光明心殿(※)
  9. 冬柏亭
  10. 牛若息つぎの水(※)
  11. 革堂地蔵堂(※)
  12. 義経公背比べ石(※)
  13. 大杉権現(※)
  14. 義経堂(※)
  15. 僧正が谷不動堂(※)
※…図の左上に隠れていますので、右下にドラッグして下さい。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

奥の院魔王殿の前を通って約15分程下ると、鞍馬寺の西門へと出ます。そこから貴船神社へは近い距離にあります。

posted by はんなり・ジャーニー at 05:10 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このページの先頭へ戻る