
宵山
祇園祭は正しくは祇園会(ぎおんえ。祇園御霊会(ぎおんごりょうえ))と呼ばれ、災厄を祓(はら)うための八坂神社の祭礼です。
全行事の安全祈願を行う7月1日の吉符(きっぷ)入りに始まり、17日の山25基、鉾7基の計32基から成る山鉾巡行、神幸祭(しんこうさい)の神輿巡行で祭のクライマックスを迎え、31日の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祓(なごしのはらえ)をもって1ヶ月に及んだ祭が締めくくられます。
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御霊会
都の問題
桓武天皇の治世下の延暦13年(794)、京都盆地の中央部に大市街地を擁する日本の都としての平安京が造られ始めました。しかし京都盆地の中央部というのは、周辺の山々から流れ出る大小の河川が集まる低湿地帯である上に、夏場になるととても蒸し暑いという自然環境の中にありました。このことは、都に住む人々にとって次のような問題をもたらすことになりました。
- 夏場の高温多湿という環境に加え衛生状態の悪化が、食物の腐敗による食中毒、赤痢、疫痢、腸チフスなどの伝染病の発生を誘引。
- 当時は井戸水を飲み水として共有し、糞尿、生ごみ等の処理が十分でなかった。そうした中、梅雨や台風襲来の時期になって大雨が降ると、周辺の山々から集まって流れ出てきた雨水が河川の氾濫を引き起して床下・床上浸水などが発生し、その結果居住地域は劣悪な衛生環境となり、伝染病の発生にいっそうの拍車をかけた。
- 平安京は10万人規模の人口が密集する日本随一の大都市となっていたが、一旦伝染病が発生すると、人々は流行を防ぐ術を知らないことからその蔓延が早かった。
人々はこうした食中毒や伝染病を「疫病」として恐れました。
疫病の流行
平安時代初頭の9世紀は疫病が流行しました。加えて灾疫(さいえき。地震などの自然災害)も頻発するなど、正に天地動乱の時代だったと伝えられます。下記にそのいくつかを列記します。
- 仁寿(にんじゅ)3年(853)2月、京都ならびに畿外で疱瘡が流行(このため四月の賀茂祭が中止)。
灾疫(地震)の頻発。 - 斉衡(さいこう)3年(856)、天安2年(858)、貞観(じょうがん)元年(859)、2年(860)、灾疫(地震)の頻発。
- 貞観3年(861)4月、「直方隕石」落下(現財の福岡県直方市(のうがたし))。
8月、赤痢の流行。
灾疫(地震)の頻発。 - 貞観4年(862)、灾疫(地震)の頻発。
近畿地方で疫病流行。 - 貞観5年(863)正月、咳逆病(しわぶきやみ。インフルエンザ)の大流行(このため内宴が中止され、建礼門、朱雀門で災疫を除くための大祓が行われる)。
6月、越中・越後地震(富山・新潟)。他にも灾疫(地震)の頻発。
怨霊の鎮魂に始まった御霊会
古代人は、疫病や灾疫が起きる原因を「疫神」の仕業と考えていました。その後、平安時代になってくると本来は御霊=ミタマであったのが、これが、思いがけない死を迎えた者の死霊=怨霊へと意味が変わって来ることになりました。こうして疫病や灾疫が起きる原因を「怨霊」の仕業と考えるようになりました。そこで怨霊を慰撫し、疫病や灾疫がこれ以上蔓延しないように祈願する祭礼が始まったのでした。これは「御霊会」と呼ばれました。
御霊会に関する最も古い歴史上の記録としては延喜元年(901)に成立した公式史書『日本三代実録』の貞観5年(863)5月20日の条です(下記を参照)。この時は、政争などによって非業の最期を遂げた者の怨霊が、その恨みを晴らすために、疫病などの災いをもたらしているのではないかとの考えが広まり、崇道天皇(すどうてんのう。早良親王(さわらしんのう))・伊予親王(いよしんのう)・藤原婦人・観察使・橘逸勢(たちばなのはやなり)・文室宮田麻呂(ふんやみやたまろ)の六人の名が挙げられました。これらの人々は無実の罪で死に追いやられた人たちでした。こうして平安京の内裏の南にあった禁苑の神泉苑においてこの六人の御霊(六所御霊(ろくしょごりょう)と呼ばれます。)による祟りを防ぐための鎮魂の儀式である御霊会が朝廷によって盛大に行われたのでした。
【参照】
国史大系『日本三代実録』〜前編〜貞観五年五月廿日条(吉川弘文館)
【原文】
於ニ神泉苑一修ニ御霊会一。勅遣下ニ左近衛中将従四位下藤原朝臣基経。右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等一。監中会事上。王公卿士赴集共観。霊座六前設ニ施几筵一。盛ニ陳花果一。恭敬薫修。延ニ律師慧達一為ニ講師一。演ニ説金光明経一部。般若心経六巻一。命ニ雅楽寮伶人一作レ楽。以ニ帝近侍児童及良家稚子一為ニ舞人一。大唐高麗更出而舞。雑伎散楽競尽ニ其能一。此日宣旨。開ニ苑四門一。聴ニ都邑人出入縦覧一。
所謂御霊者。崇道天皇。伊豫親王。藤原夫人。及観察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。並坐レ事被レ誅。寃魂成レ属。近代以来。疫病繁発。死亡甚衆。天下以為。此灾。御霊之所レ生也。始レ自ニ京畿一。爰及ニ外国一。毎レ至ニ夏天秋節一。修ニ御霊会一。往々不レ断。或礼レ仏説レ経。或歌且舞。令下ニ童貫之子一靚粧馳射。膂力之士袒裼相撲。騎射呈レ芸。走馬争レ勝。倡優嫚戯。遞相誇競上。聚而観者莫レ不ニ填咽一。遐邇因循。漸成ニ風俗一。今茲春初咳逆成レ疫。百姓多斃。朝廷為祈。至レ是乃修ニ此会一。以賽ニ宿禱一也。
【現代語訳(意訳)】−『祇園祭』(松籟社)−
神泉苑において、御霊会が修された。勅により、左近衛中将従四位下藤原基経、右近衛権中将従四位下藤原常行らが遣わされ、御霊会のことを監督し、多くの官人が出席した。霊前には、几筵(きえん。台と敷物)が設置され、花果が供えられ、恭(うやうや)しく祭礼が行われた。律師恵達が講師となり、金光明経、般若心経を講じた。また雅楽寮の楽人が音楽を奏し、天皇に近く仕える子供たちや、有力貴族の子弟たちが舞人となり、唐や高麗の舞を舞った。さらに散楽(猿楽)を始めとする種々の芸能がとり行われた。この日は、天皇の命により神泉苑の四門が開かれ、多くの人々が観覧した。
そもそも御霊とは、崇道天皇、伊豫親王、(藤原夫人及観察使、)橘逸勢(、文室宮田麻呂)などの冤罪者をいい、彼らの祟りのため、国中疫病に倒れる者があとを絶たない。そこで収穫時期にあたる夏から秋にかけて国民は御霊会を修し、仏を礼拝し、経を説き、歌舞に耽るありさまであった。そうしたなか、今年の春、疫病が蔓延し、多くの百姓が倒れた。そこで朝廷が乗り出し、今回のような盛大な御霊会が催されたのである。
祇園祭と祇園社
鉾先の長刀
収まらない災厄
- 貞観6年(864)に入っても疫病はさらに拡散します。
5月、7月と富士山噴火(静岡・山梨)。
12月、阿蘇山噴火(熊本)。
他にも灾疫(地震)の頻発。 - 貞観7年(865)・8年(866)にかけて、伊勢・志摩・因幡・出雲・隠岐・美作・備前・備中といった国々で疫病が流行。
灾疫(地震)の頻発。 - 貞観8年、旱(ひでり)によって飢饉が襲う。
疫病が流行。
灾疫(地震)の頻発。 - 貞観9年(867)2月、鶴見岳噴火(大分)。
8月、阿蘇山噴火(熊本)。
他にも灾疫(地震)の頻発。 - 貞観10年(868)7月、播磨・山城地震(兵庫・京都)。
他にも灾疫(地震)の頻発。 - 貞観11年(869)、疫病流行。
旱天(かんてん)により死者が続出。
5月26日夜、「貞観地震」と呼ばれる巨大地震で東北地方が大津波に襲われました。地震の大きさとそれによる津波被害の様子が、『日本三代実録』には次のように記載されています。
【原文】
陸奥國地大震動。流光如レ畫隱映。頃之。人民叫呼。伏不レ能レ起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不レ知ニ其數一。海口哮吼。聲似ニ雷霆一。驚濤涌潮。泝漲長。忽至ニ城下一。去レ海數十百里。浩々不レ弁ニ其涯涘一。原野道路。惣爲ニ滄溟一。乘レ船不レ遑。登レ山難レ及。溺死者千許。資産苗稼。殆無ニ孑遺一焉。
【訓読文】
陸奥國の地大いに震動す。流光、畫(昼)の如く隱映す。この頃、人民叫呼して、伏して起(た)つことあたわず。或いは屋(いえ)仆(たお)れて壓死(あっし)す。或いは地裂けて埋もれ殪(たおれ)る。馬牛は駭(おどろ)き奔(はし)る。或いは相昇りて踏む。城郭、倉庫、門、櫓(やぐら)、墻壁(しょうへき)、頽(くず)れ落ち顚覆(てんぷく)す。其の數を知らず。海口哮吼し、聲(こえ)雷霆(らいてい)に似たり。驚濤(きょうとう)は涌潮(ゆうちょう/ようちょう)し、泝(そかい)漲長す。忽(たちま)ち城下に至れり。海を去ること數十百里。浩々(こうこう)として其の涯涘(がいし)を弁(わきま)へず。原野道路、惣(そうじ)て滄溟(そうめい)と爲す。船に乘るに遑(いとま)あらず。山に登るも及び難し。溺れ死ぬ者千許(ばかり)。資産苗稼(たからもなえも)、殆(ほとほ)とひとつとして遺(のこる)もの無かりき。
【現代語訳(意訳)】
陸奥国(東北地方)で大地震が起きた。夜空を走る光は、まるで昼間のように照らし出している。人々は叫び声を上げて、地面に身を伏せて立つことさえもできない。ある者は倒壊した家屋の下敷きとなって圧死し、またある者は、裂けた地面に埋もれてしまった。牛馬は驚いて奔走し、互いに踏みつけあったりした。城郭、倉庫、門、櫓、墻壁は、崩れ落ちてしまった。その数は数え切れないほどである。海の方からはまるで激しい雷鳴のような、すさまじいばかりの音が聞こえる。すると驚くばかりの波が潮となって湧き上がり、長く連なって押し寄せてきて、あっという間に城下に達した。そして海の水は陸の奥深くまで流れ込んできて、その果ても分からないほどに、野原や道はすべて水浸しとなり、あおあおとした広い海となってしまった。船に乗って逃げる間もなければ、山に登って非難することもできず、溺れ死んだ人が千人ほどいた。後には、財産も稲の苗も、何一つとして残っているものはなかった。
| 地震名 | 発生日時 | マグニチュード | 津波 |
|---|---|---|---|
| 貞観地震 (三陸沿岸) |
869年 7月13日 |
8.3 |
有り |
| 元禄地震 (犬吠埼〜伊豆半島) |
1703年 12月31日 |
7.9〜8.4 | 有り |
| 明治三陸地震 (三陸地方) |
1896年 6月15日 |
8.5 | 有り |
| 東北地方太平洋沖地震 (北海道〜房総太平洋沿岸) |
2011年 3月11日 |
9.0 | 有り |
祇園御霊会、始まる
このように疫病の流行や灾疫(地震)の発生が頻繁に起こったことから、都に住む人々の間で、これらの災厄を祓うための強い要求が起こって、さまざまな祈祷などが行われるようになりました。
そうした中で、平安京の内裏の南には、御霊会や祈雨・止雨の祈祷が行われた神泉苑があったことから、都に住む人々たちは、この神泉苑へ出向いていって疫神の祟りをはらう祈祷をするようになりました。
貞観11年(869)6月、平安・災疫退散を祈願して執り行われた最初の祇園御霊会というものはその現れであり、疫病の流行する盛夏を選んで祭を行いました。そのときの様子は『祇園社本縁録』に次のように伝えられています。
「貞観十一年、天下大疫の時、宝祚隆水、人民安全、疫病消除鎮護の為に、卜部日良麻呂、勅を奉じ、六月七日、六十六本の矛を建てる。長さ二丈許。同十四日、洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、以って祭る。是を祇園御霊会と号す。爾来毎歳六月七日、十四日、恒例と成す。」
この記述の中に見られる「六十六」というのは、当時の日本にあった国の数を表しているとされ、「矛」は神の依り憑く依代(よりしろ)と考えられています。すなわち、京中を巡行して、浮遊する日本全国の悪霊(疫神)をその矛に移し宿らせ、神泉苑に送って祭ることで、諸国の穢(けが)れを祓い清めたのでした。当初は必要に応じて自然発生的に京中のどこかで行われていたものが、祇園の八坂の地から矛をたてて神輿を神泉苑に向けて送ることが祇園御霊会として定例的に執り行われるようになったと考えられます。そして、後年、祇園社(後の八坂神社)の設立をまって、疫病を支配する神として崇められる牛頭天王(ごずてんのう)、その妃の婆利采女(はりさいにょ)、八王子(はちおうじ。牛頭天王と婆利采女の七男一女の王子)を祀った3基の神輿を送るようになりました。こうして行われた祇園御霊会が、今日行われている祇園祭の起源となったのでした。
その後、都に住む人々の間に、その永久の幸福のために、恒常の社檀をつくって疫神をまつる気運が高まってきます。やがてそれに相応するかのように、貞観18年(876)、疫神としての牛頭天王を八坂郷に迎祀することによって、祇園社の草創へとつながったのでした。
御旅所祭祀
祭の主役
祇園祭には、宵山を始め、盛大に都大路を練り歩く山鉾巡行、花傘巡行など、いくつもの見所がありますが、そんな中でも祇園祭の本質に照らして主役となるのが、3基の神輿が八坂神社を出て、都大路を渡御する神幸祭(しんこうさい)と八坂神社に戻る還幸祭(かんこうさい)です。
これは神輿巡行と呼ばれ、7月17日に前祭(さきまつり)として山鉾巡行(午前9時頃〜)と神幸祭(午後6時頃〜)が行われ、1週間後の24日に後祭(あとまつり)として花傘巡行(午前10時頃〜)と還幸祭(午後5時頃〜)が行われます。
神輿の往還
17日の神幸祭では、15日の宵宮祭から八坂神社の舞殿に安置されている3基の神輿が八坂神社を出て、四条通に面した石段下で神輿を高く持ち上げて3回まわる「さし回し」を行って気勢を上げ、その後各々の神輿の順路に従って市内を神輿巡行し、四条通寺町東の南側に面した御旅所(おたびしょ)まで渡御します。そこで1週間駐蹕(ちゅうひつ)して、人々の拝礼を受けます。

神幸祭
3基の神輿は、中御座、東御座、西御座と呼ばれます。御旅所において、真ん中に中御座が安置され、向かって右側(西側)に東御座が、左側(東側)に西御座が安置されます(上記「御旅所」の写真を参照)。中御座には素戔嗚尊(すさのをのみこと)、東御座には櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと。素戔嗚尊の后)、西御座には八柱御子神(やはしらのみこがみ。素戔嗚尊と櫛稲田姫命の五男三女の王子)が祀られています。
24日の還幸祭では、中御座が先ず出発し、次に東御座、最後に西御座の順で時間間隔をあけて3基の神輿が御旅所を出て、各々の神輿の順路に従って市内を神輿巡行し、再び八坂神社へ戻ります。各々の神輿が出発する直前には、お祓いが行われ、そしてここでも気勢を上げるべく「さし回し」が行われて、威勢よく出発していきます。
ところで祇園祭では、上記のように、御旅所を設けて、本社である八坂神社との間を神輿巡行して往還する形式をとっています。
このような形式は「御旅所祭祀(京中祭礼)」と呼ばれ、北野祭(北野天満宮ずいき祭。10月1日〜5日)、松尾祭(京都嵐山松尾大社の神幸祭・還幸祭。4月20日以後の第一日曜日に出御し、それから21日目の日曜日に還御。)、稲荷祭(伏見稲荷大社の神幸祭・還幸祭。4月20日に最も近い日曜日に出御し、5月3日に還御。)などでも行われます。
平安中期の天延2年(974)6月14日、京の高辻東洞院(ひがしのとういん)の一角(下京区大政所町:烏丸通高辻上ル東側)に御旅所が初めて設けられ、そこは「大政所」(おおまんどころ)と呼ばれました。そしてこの年の祇園御霊会からは、従来と違って、神輿を本社から御旅所に移して行うようになったと考えられています。この大政所は、祇園御霊会で長年御旅所として使われてきましたが、天正19年(1591)、豊臣秀吉によって四条通寺町東の南側に面した現在の御旅所にその役割が移され今日に至っています。
祇園社から八坂神社へ
慶応4年=明治元年(1868)3月の神仏判然令(神仏分離令)によって、神社での仏式行事の禁止や祭神名・社名に仏教語の使用禁止といったこと等から、同年5月に「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」との布告が出されました。(『太政類典』第一編・慶応三年〜明治四年・第百二十三巻・教法・神社ニ[第四類・教法・神社])
上記のように、八坂神社は従来感神院祇園社(祇園社)と称されていましたが、京都東山の八坂郷にあるところから八坂神社と称されることになり、また祇園御霊会(祇園会)という名称も仏教色を薄めて祇園祭と改称されることになりました。
同時に祭神名も、従来の仏教的な牛頭天王、婆利采女、八王子から、純神道の(神速(かむはや))素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神に改称されています。
明治10年(1877)には、旧暦の6月7日、14日であった祭日が、新暦の7月17日、24日に固定されました。前者は前祭、後者は後祭と言われます。
昭和37年には、戦前からある山鉾29基が国の重要有形民俗文化財として指定され、更に昭和53年には、山鉾巡行の行事が国の重要無形民俗文化財として指定されています。
実に1100年を超えて営々として受け継がれてきた祇園祭は、途中幾多の戦禍によって中止の憂き目にも会い、また数々の困難や問題も乗り越えて、京都三大祭の一つとして、更には日本三大祭の一つとして光彩を放ち、今日に至っています。

還幸祭
【近隣観光マップ】
【マップ掲載番号の説明】
- くじ改め(前祭巡行)
- 注連縄(しめなわ)切り
- 二条城
- 京都御苑
- 平安神宮(平安神宮神苑)
- 青蓮院
- 祇園新橋
- 白川巽橋(祇園新橋)
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近隣の観光スポット情報
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