
永観堂禅林寺・境内の紅葉
禅林寺。「静かな林と云う名のお寺」の意味であるとの説明アナウンスがお寺に設置してあるスピーカーから聞こえてきます。なるほど、「禅」という言葉には「しずか」という意味もありました(『大字源』、『広漢和辞典』)。
禅林寺は通称永観堂と呼ばれ、「モミジの永観堂」としてその名を知られています。境内には約3,000本のかえでの木。秋がやってきて紅葉に彩られた境内は、観る人の心に美に対する感動を与えてくれます。
この「永観」、普通「えいかん」と言いますが、正しくは「ようかん」。「永観堂」の正式な呼び方は「ようかんどう」となります。とはいえ、今日において寺院の「永観堂」は「えいかんどう」と言うのが普通となっています。
ところで、通称が有名になってしまい、いつの間にか本来の名前が忘れ去られがちになる例として、東寺(教王護国寺)、金閣寺(鹿苑寺(京都五山の一とされた相国寺の山外塔頭))、銀閣寺(慈照寺(同))などがありますが、禅林寺も、その通称である「永観堂」が広く知られていて、本来の名前を言われてもピンとこない好例の一つと言えます。
真紹
志(こころざし)
禅林寺の開山は平安時代初期に活躍した真紹僧都(しんじょうそうず)。弘法大師空海の高弟の一人で、真言宗の寺として創始されました。真紹は、空海の弟子となって精進倦むことなく、学問に励み、いつしか空海門下の俊才となり、仁明(にんみょう)天皇の厚遇を受けるに至ります。そして四十七歳にして東寺の二長者(東寺長者のうちの第2位)となりました。
空海が晩年に心血を注いだ高野山金剛峯寺は、その死期が近づいた折も未完の状態でした。その為弟子の中の一人に高野山を継いでもらい後事を託そうと考えていました。その人選に当たった真然が、実慧(じちえ)、真如、真紹といった空海の高弟たちに一人ずつその存念を聞きました。真紹は「地を洛東の辺りに占めて、小道場を建立せんと欲す。云々」と答え、辞退したといいます。空海の後継者となって君臨するよりは、京の都の民衆の中にあって道場を構え、実践することを選んだのでした。
承和(じょうわ)2年(835)3月21日、空海が亡くなると、高弟たちはそれぞれに散って行きました。真紹は、河内(現在の大阪府河内長野市寺元)の観心寺に住持となって赴きました。しかし、洛東の地に道場を建てるという志は残っていました。
臥龍廊を上って行く時、その左手には急斜面の岩肌から伸びる「岩垣紅葉」を見ることができます。
藤原関雄の山荘を取得
禅林寺は東山連峰の一つ、若王子山(にゃくおうじやま)の西側の麓にあります。この地に禅林寺が建つ前には、山荘があったといいます。その山荘を所有していたのは、平安時代初期を代表する文人である藤原関雄(ふじわらのせきお)という人でした。
『国史大系 日本文徳天皇実録』(仁寿3年2月甲戌の条)には藤原関雄について次のように記載されています。
天長二年春奉二文章生試一及第。
関雄少習レ属レ文。性好二閑退一。
常在二東山舊居一。耽-二愛林泉一。
時人呼為二東山進士一。
藤原関雄は年少の頃から文章と書に秀でていたといわれ、天長2年(825)の春、21歳にして狭き門の文章生試(もんじょうしょうし)に合格し、秀才・文章博士となって進士の称号を得ましたが、藤原関雄は閑退を好む性格で、常に東山の旧居(山荘)にあって林泉(林、泉水などのある庭園)を耽愛し、すぐには出仕しませんでした。時に人は藤原関雄の事を東山進士と呼んだといいます。
そのような藤原関雄に対して、淳和(じゅんな)天皇は近臣として迎えることを再三伝えますが、辞退していました。しかし遂にはこれを受けることとなり、淳和天皇は優礼をもって近臣に迎えました。更に、藤原関雄は仁明天皇にも仕え、治部少輔兼斎院長官を務めましたが、病のため退官し、仁寿3年(853)2月に49歳で亡くなりました。
藤原関雄が住んでいた当時からすでにこの東山一帯は紅葉の名所であったらしく、和歌にも秀でていた藤原関雄がその美しさを借りて詠んだ歌が『古今和歌集』に載っています。
宮づかへひさしうつかうまつらで山ざとにこもり侍りけるによめる
奥山のいはがきもみぢちりぬべし
てる日の光みる時なくて
【超訳】
ながいあいだ宮仕えせず、山里に籠っての心境を詠みました。
美しく色づいた山奥の岩垣紅葉は太陽の光を見ることなく散ってしまうのでしょう(ながいあいだ天皇に仕えることもおろそかにしたまま、山奥の岩に囲まれひっそりと散る岩垣紅葉のように、私もひっそりとこの世を去ってしまうのでしょう)。

永観堂禅林寺・臥龍廊を覆い隠す岩垣紅葉
さて、その後ふとした偶然から、真紹は洛東に藤原関雄の山荘が空いていることを知ることとなり、是が非にでもこれを取得しようと、手を尽くしました。その結果、藤原関雄の死から8ケ月後の仁寿3年10月、その山荘を買い取り、後の禅林寺の敷地を確保することが出来たのでした。真紹57歳の時でした。正に、洛東の地に道場を建てるという悲願に大きな一歩を踏み出すことが出来たのでした。
こうして紅葉の眺めが美しく、その名所として知られる藤原関雄の山荘は禅林寺として蘇ることとなります。
建立発願
しかし当時の律令制の下では、僧侶が俗家を買うことはもちろん、勝手に仏門道場を建てることなど禁じられていました。
そこで真紹は、かつて厚遇を蒙った仁明天皇への報恩のためであるとして「その功徳をもって鎮護国家につくし、衆生(しゅじょう)の幸せを願うものである。願わくば、この寺に定額を賜い、禅林寺と名乗らしめ、永く真言法門の道場として、師資相承を許させ給え」との発願を、清和天皇に奏上したのでした。清和天皇はこれを快諾したといいます。こうして貞観5年(863)、清和天皇より定額寺と定められ、正式に「禅林寺」の寺号が下賜されたのでした。
永観
平安時代後期になると、禅林寺は真言宗の寺から念仏の寺へと方向転換を図ることになります。その原動力となったのが、延久4年(1072)禅林寺に戻ってきた第七世住持永観(ようかん。40歳)です。永観は11歳の時禅林寺に入室し、その後東大寺などで学んでいました。
ところで念仏といえば浄土宗、浄土宗と云えば法然上人という図式が頭に浮かびますが、その浄土宗が確立されるのは、永観が禅林寺で念仏の道場を始めてから百数十年後になります。
『発心集』にみる永観
永観は名誉欲・物欲などの一切を捨て去った無欲の人で、庶民のことを第一に考え衆生救済に全力を注ぎ込みました。平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人・随筆家で、『方丈記』の著者として知られる鴨長明(かものちょうめい。1155年〜1216年)は、鎌倉初期、仏道に取り組んだ様々な人の仏道発心に関する逸話を集めまた自らの仏道修行の資としても著した『発心集』(ほっしんしゅう)の中で永観について『(一四)禪林寺永觀律師事(ぜんりんじえうくわんりつしのこと)』と題して次のように書いています。(『鴨長明全集』−発心集 第二−)
「永觀律師と云ふ人ありけり。年來念佛の志深く、名利(みょうり)を思はず、世捨てたるが如くなりけれど、さすがに哀れにもつかまつり、し(知)れる人をわすれざりければ、殊更(ことさら)、深山を求むる事もなかりけり。」
【超訳】
永観律師は、念仏への信仰心が深く、地位や名誉を求めず、世を捨てたようになっていたが、知っている人の事も忘れずにいたので、ことさら人里を離れて修行することもなかった。
「東山禪林寺と云ふ處に籠居しつゝ、人に物をかしてなむ、日をおくるはかり事にしける。かる(借す)時も返す時も、唯きたる人の心にまかせて沙汰しければ、中々佛の物をとて、聊(いささ)かも不法の事はせざりけり。いたくまづしき物(者)の返さぬをば、前によびよせて、物の程に隨ひて念佛を申させてぞ、あがはせける。」
【超訳】
永観は、人に物を貸して、日々をおくるよすがにしていた。借りるのも返すのもその人に任せており、ましてや誰もが仏の物をおろそかには出来ないとして約束を破ることはしなかった。そのような中で、たいそう貧しい者が返さないようなことがあった時には、仏前に呼び寄せて、借りたものの値に応じて念仏を唱えさせて購(あがな)わせた。
「東大寺別當のあきたりけるに、白河院此の人を成し給ふ。聞く人耳を驚かして、『よもうけとらじ。』と云ふ程に、思はずにいなび申す事なかりけり。其の時、年來の弟子つかはれし人なむど、我も我もとあらそひて、東大寺の庄園を望みにけれども、一所も人のかへりみにもせずして、皆寺の修理の用途によせられたりける。」
【超訳】
東大寺の別当に欠員が出た時、白河院は永観を任じられた。永観を知る人は、当然永観が断るものと思っていたら、意外にも、引き受けた。それで、旧来からの弟子達が、我も我もと争って、東大寺の荘園からの収入を期待して永観のもとにやって来たが、永観は一箇所も彼らの望みどおりにさせずに、全て寺の修理に費やしてしまった。
「此の禪林寺に、梅の木あり。實なる比に成りぬれば、此をあだに散さず。年ごとに取つて、藥王寺と云ふ處におほかる病人に、日々と云ふばかりに施させられければ、あたりの人此の木を悲田梅とぞ名づけたりける。」
【超訳】
禅林寺に梅の木があって、実がなると丹念に採って集め、薬王院の病人に薬用または食用として与えて治療を施した。この梅の木は「悲田梅」と名付けられた。(「悲田梅」の悲田とは、貧窮者や病人のことをいいます。)
ところで『本朝高僧伝』(江戸時代中期の1702年成立)には永観について次のような記載があります。
※1 慈仁(じじん)…情け深いこと。
※2 囹圄(れいご)…牢獄。
※3 四大(しだい)…人の身体。
永観自身生来病弱だったようです。その為に、病にかかって初めて健康のありがたさを知るという「病こそ善知識」という考えが根付いていて、弱者への思いやりが、例えば、禅林寺境内の一角に薬王院を建てて施療院を設け、病に苦しむ人々を救うといった行動へと衝き動かしたのでした。
「或時、彼の堂に客人のまうで來たりけるに、算をいくらともなくおきひろげて、人には目もえかけざりければ、客人の思ふ様、律師は出擧をして命つぐばかりを事にし給へりと聞くに、あはせて其の利の程數へ給ふにこそと見居る程に、おきはてゝ取りをさめて、對面せらる。其の時、『算おき給ひつるは、何の御用ぞ。』と問ひければ、『年來申しあつめたる念佛の數の覺束なくて。』とぞ答へられける。」
【超訳】
ある時永観の所へ人が訪ねてきた時、永観は算木をたくさん並べて人目もくれず計算していた。儲けることには興味がないはずなのにと、訪問者は意外に思った。一息ついたところで永観に何を計算しているのかを尋ねてみると、これまで唱えた念仏の総数がはっきりしないので(算木で集計していた)と答えた。
永観堂という呼称
永観は自らの地位や名声に執着することはありませんでした。永観は、牢獄を訪れては囚人の苦しみを憐れんで説法する一方、貧窮者や病人の救済はもちろんのこと、ひたすら庶民のために尽くしたのでした。
こういった永観の慈愛に満ちた行動に触れた人々は、いつしか、永観のいる禅林寺のことを「永観堂」と呼ぶようになった、と伝えられています。
『本朝高僧伝』は、800年経った今日でも禅林寺は庶民から永観堂と呼ばれて親しまれている、と次のように記しています。
今八百年の間を過ぎて主者(しゅしゃ)の代更(だいかう)其の數(すう)を知らず。而して都人(とじん)禪林と謂(い)はずして獨(ひと)り永觀堂(やうくわんどう)と稱(しょう)するは豈(あ)に其の徳名(とくめい)の歳月磨(ま)するも磷(うすら)がざるものか。
本尊「みかえり阿弥陀如来像」が安置されています。
みかえり阿弥陀
身震いするほど冷え込む永保2年(1082)2月15日の払暁、薄暗がりの中、道場の凍てつくような板敷の上でひたすら念仏行道する永観の姿がありました。その時永観は、行道する自分の前に誰かがいて、自分を先導するように行道していることに気付きました。それが何かに気付くと永観は思わず息をのみ、立ちすくみました。そこにはほんの少し口を開き、穏やかな微笑を浮かべた永観堂の本尊・阿弥陀像の姿があったのでした。そして首を左に回して永観を見返し、声をかけました。
「永観、遅し」
以来この本尊・阿弥陀像は、「みかえり阿弥陀」と呼ばれ、永観堂の本尊として広く知られるようになりました。
静遍
鎌倉時代になると禅林寺は、真言宗寺院から浄土宗寺院へと大きな展開を遂げることになります。その道を開いたのが禅林寺第十二世住持静遍(じょうへん)です。
正面の広縁上には「方丈」の扁額が飾られています。

運命
『本朝高僧伝』の「京兆禪林寺沙門静遍傳」に次のような記述があります。
「大納言平ョ盛之子。」
平頼盛(たいらのよりもり)の子。この一文は次のようなことがあったことを教えてくれます。
鎌倉時代に先立つ平安時代後期の平治元年(1159)12月から永暦元年(1160)3月にかけて平安京を舞台に起こった平治の乱の後、平清盛は武家のならいによって敵将源義朝を始めとして、源家の血をひく者を徹底的に排除しました。しかしこれを見るに見かねた清盛の継母・池の禅尼は、敵将源義朝の三男で当時まだ13歳にも満たない少年であった源頼朝の助命を清盛に嘆願したのでした。池の禅尼の嘆願に清盛も遂には折れて、頼朝は伊豆へ流刑されることとなり、兎にも角にもその命は救われたのでした。
その後、頼朝が平家を滅ぼして鎌倉幕府を開くことになりますが、滅ぼした平家一門の中でも清盛に次ぐ位置にいながらも、池の禅尼の実子であった平頼盛の一族だけは助命した上に、厚遇したのでした。そしてその頼盛の子の中に、後に禅林寺第十二世住持となる静遍がいたのでした。
浄土宗への転宗
鎌倉初期の建暦(けんりゃく)2年(1212)法然入寂後、その著『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)が開版されると、ほうぼうからその書に対する非難の声があがります。法然在世の折は、法然自身が当時の仏教界にあってはその公開を恐れた程の書であったとされます。それ故、他見は厳に禁じられ、筆写に当たった弟子も特に信頼のおける者に限られていたといいます。
法然在世の折からその思想を批判している興福寺出身の僧である解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)に師事したこともある静遍も、非難の声をあげた一人でした。当時真言密教に秀でて名声を得ていた静遍は、法然一門の念仏思想を論破すべく『選択本願念仏集』を一言一句丹念に読み始めました。ところが二度、三度と幾度となく繰り返し読み込むうちに、静遍は法然の考えが正しいと確信するに至るようになったのでした。
こうして静遍は、法然上人を禅林寺一世と仰いで通算第十一世とし、自らは十二世となって心円房と号し、更に、法然上人の高弟で浄土宗西山派の祖・証空上人(西山上人とも呼ばれます)を第十三世として迎えました。こうして、禅林寺は、真言宗寺院から浄土宗寺院(浄土宗西山派)へと転換することになったのでした。

永観堂禅林寺・多宝塔

ここからは京都の町並みが一望でき、平安神宮や京都御所のある京都御苑などを眼下に眺望することができます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 聖衆来迎山無量寿院禅林寺 (しょうじゅらいごうさんむりょうじゅいんぜんりんじ) |
| 通称 | 永観堂 |
| 所在地 | 京都市左京区永観堂町48 |
| 山号 | 聖衆来迎山 |
| 宗派 | 浄土宗西山禅林寺派 |
| 本尊 | 阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀如来像)(重要文化財) |
| 寺格 | 総本山 |
| 創建年 | 仁寿3年(853) |
| 開基 | 真紹 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 総門
- 中門
- 浴室
- 庫裏(くり)(鶴寿台)
- 大玄関(諸堂入口)
- 古方丈(書院)
- 瑞紫殿
- 方丈(釈迦堂)
- 唐門(勅使門)
- 悲田梅
- 高麗燈籠
- 千佛洞
- 御影堂(祖師堂)
- 三鈷(さんこ)の松
- 水琴窟(すいきんくつ)
- 岩垣紅葉(いわがきもみじ)
- 位牌堂
- 阿弥陀堂(本堂)
- 臥龍廊(がりゅうろう)
- 開山堂
- 多宝塔
- 鐘楼
- 聖衆来迎の松
- 龍吐水(りゅうとすい)
- 放生池(ほうじょうち)
- 弁天島・弁天社
- 晶子歌碑
- 画仙堂
- 南門
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近隣の観光スポット情報
総門を出た所を南北に通っている鹿ヶ谷通(ししがたにとおり)を北へ歩き、最初の角を右へ曲がって坂を登っていくと哲学の道へと出ます。ここから哲学の道に沿って北へ歩いて行くと銀閣寺へとつながる道へでます。途中、哲学の道から東へ少しそれた所には安楽寺、法然院があります。
一方、総門を出て鹿ヶ谷通を南へ歩いて行くと、南禅寺へと辿り着きます。


