祇王寺

祇王寺
祇王寺

祇王寺は嵐山・渡月橋から天龍寺、野宮神社、常寂光寺、落柿舎、二尊院と奥嵯峨の静かな竹林の中を歩いて行った、奥まった一画の垣根で囲われた所にあります。そしてお寺と呼ぶには似つかわしくなく、草庵がひっそりとたたずんでいます。

祇王寺は、平清盛の寵愛を受けていた祇王(ぎおう)が尼となって庵を結び、念仏三昧の余生を過ごした所として知られている尼寺です。

晩秋の候、紅葉に包まれた祇王寺の、小さいながらも草庵の前のむす庭が一面の散りモミジに紅く染まった様は、訪れる人の目と心を引きつけてやみません。

祇王寺の「祇」の字は公式には「ギの公式文字」です。オペレーティングシステムやブラウザによって表示が異なる場合があります。

祇王、清盛の寵愛を受ける

祇王寺へと続く登り道祇王寺へと続く登り道
右の階段を登った右手が祇王寺
そのまま真っすぐ行くと斉藤時頼が平清盛の娘・建礼門院に仕えていた横笛との悲恋から仏門修行に励んだことで知られる滝口寺。

祇王は現在の滋賀県野洲郡祇王村(野洲町)に生まれた女性で、父の死後、妹の祇女(ぎにょ)と母の刀自(とじ)とともに京の都に出て白拍子(しらびょうし)となりました。白拍子とは、えぼし・水干(すいかん)・鞘巻(さやまき)姿という男装で、歌舞を業としていた舞女を総称しています。

清盛は仁安3年(1168)2月、51歳になった頃病にかかり、急に出家入道しました。その後病から回復した清盛は、ある時、都で白拍子の名手として評判の高い祇王・祇女姉妹の歌舞を見て感心し、姉の祇王を寵愛するようになりました。そのため、妹の祇女は世間の人々からもてはやされ、母の刀自も家を与えられた上に月々の生活までも過分の待遇を受け、母子3人、不自由のない暮らしが続きました。

仏、現る

茅葺きの山門-祇王寺-茅葺きの山門-祇王寺-
青葉に囲まれる祇王寺の茅葺きの山門。

祇王清盛の寵愛を受けて3年程が経った頃、京の都に一人の白拍子の名手が現れました。名を仏(ほとけ)という16歳の娘で、加賀国(現在の石川県)からやって来たといいます。仏は、自分がこれほど有名な白拍子の名手であるにもかかわらず、天下人の清盛から声がかからないのは残念だと思い、それならば自分の方から押しかけて行ってやろうと考え、門を叩きました。清盛とてすぐ会う訳もなく、そっけなく門前払いを食わせようとしました。仏が仕方なく帰ろうとした所へ、祇王がそのことを聞きつけ、清盛にせめて会うだけでも会ってやって欲しいと取り成しました。

祇王がそれ程言うなら会うだけでもと、清盛は仏との面会を許しました。そしてこの際せっかくだから歌と舞を見せてくれと、仏に言いました。見事に歌い、舞を舞った仏に清盛はすっかり心変りしてしまったのでした。

祇王、去る

苔庭の土蜘蛛燈籠-祇王寺-庭の土蜘蛛燈籠-祇王寺-
祇王寺の草庵前に広がる庭にひっそりと置かれた土蜘蛛燈籠。

思いもかけず清盛の寵愛を受けるようになった仏御前は、取り成してくれた祇王に対して申し訳がたたず、早く自分を解放して下さいと、清盛に頼みました。すると清盛は、祇王を追い出してしまえば仏御前もそのようなことは言わなくなるだろうと考え、さっさと祇王を追い出してしまったのでした。加えて母・刀自への今迄の待遇も止めてしまいました。このような仕打ちに祇王はただ泣いてばかりいたといいます。

そうした中、年も明けた春、清盛から「仏御前が寂しそうにしているから、こちらに来て今様でも歌って、舞を舞って、仏御前を慰めてやってほしい」と言ってきました。祇王は返事もせずそのままにしていたのですが、母・刀自にいやだろうが我慢しておくれと説得されて泣く泣く妹の祇女を連れて出かけたのでした。しかし、清盛の屋敷での待遇は冷たく、祇王は度重なった悲しい思いに打ちひしがれて、いっそのこと身を投げてしまおうとまで思いこんだのでした。母からそんなことを考えてはいけないとなだめられ、かといってこのまま京の都にいればまた悲しい思いをしなければならないだろうからと思い、都を出ようと決心したのでした。

仏御前、尼となり訪れる

晩秋の祇王寺の庭晩秋の祇王寺の庭
祇王らの物語に思いを馳せながら晩秋の祇王寺の庭を眺めると感慨もひとしおです。

こうして、祇王・祇女・母刀自の3人は嵯峨の奥の山里にある、当時往生院の一画であった今の祇王寺の地に庵を造って仏門に入ったのでした。この時、祇王21歳、祇女19歳、母・刀自45歳。3人は念仏三昧の日々をおくり静かに暮らしていました。

その年も初秋の風が吹くようになってきました。夜も更けかかってきたある日のこと、戸を叩く音がしました。昼間でさえも誰も訪ねてくる人のいないこのような山里の庵に、ましてやこのような時刻に誰が訪ねてきたのだろうと戸を開けると、そこには仏御前が立っていたのでした。

仏御前は、清盛への面会を祇王に取り成してもらったにも関わらず、祇王を追い出すようなはめになってしまったことがつらかったこと、そのうち我が身にも同じようなことが降りかかってくるであろう事などを述べ、世の無常を知り、今朝、清盛の所を忍び出て、その上髪まで剃って尼になり出てきたのです、とかぶり物を払いのけたのでした。そして、自分も一緒にこの地で過ごさせて下さいと申し出たのでした。仏御前17歳。それからというもの、4人で一心に往生を願う日々を送ったのでした。

現在、祇王寺の一隅には、祇王・祇女・母刀自の墓と伝えられる宝篋(ほうきょう)印塔があり、その墓地の入り口には、「祇王祇女仏刀自之旧跡」と記された石碑が建っています。これは江戸時代中期の明和8年(1771)に、往生院の住職であった法専尼(ほうせんに)が、祇王没後600年忌に際して建立したとされる追悼碑で、この碑には平安時代の末期の承安(じょうあん)2年(1172)に祇王(と推される人)が寂した事が刻んであります。

祇王寺

庭を彩る落葉した楓-祇王寺-庭を彩る落葉した楓-祇王寺-
紅く染まって落葉したカエデの自然さが庭園の雅なたたずまいを盛り上げています。

祇王寺は嵯峨小倉山の山麓にあり、ここはかつての往生院の境内であったといいます。 現在は存在しないこの往生院は、法然(ほうねん。平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。)の門弟良鎮(りょうちん)によって開創されたと伝えられ、隆盛を極めていた頃は小倉山の山上山下に亘って広い地域を占めていたといいます。

清盛の死後、平家の没落に相応するかのように、往生院はその後の鎌倉時代に入って以降次第に荒廃していったと伝えられます。その境内にあって、一子院であった祇王寺も同様の運命を辿ったことでしょう。

そして江戸時代になると、清盛の寵を失った祇王、妹の祇女、そして母の刀自らが髪を剃って尼となり、奥嵯峨の小倉山の山里の地にこもり余生を送ったという哀話が人々の心を捉えるようになったといいます。そして、祇王らがこもった庵のみが再建され、祇王にちなんで「祇王寺」としてその名を継ぐこととなったのでした。

祇王寺は明治の初めに一時廃寺となりましたが、明治28年(1895)、祇王寺の物語を知った京都府知事北垣国道が嵯峨にあった自身の別荘内の茶室を寄進したのをはじめ、嵯峨の有志、文人画家の富岡鉄斎、大覚寺門跡楠玉諦(くすのきぎょくたい)らの尽力によって、祇王ゆかりの寺として再建されたのが現在の祇王寺として息づいています。

紅葉に包まれた草庵-祇王寺-
紅葉に包まれた草庵-祇王寺-

≪関連情報≫
項目 内容
正式名 高松山往生院祇王寺
所在地 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂32
山号 高松山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 大日如来
寺格 大覚寺塔頭

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 宝篋印塔(祇王祇女母刀自の墓)、平清盛供養塔
  3. 土蜘蛛燈籠
  4. 草庵(本堂)
  5. 祇王尊尼歌碑
  6. 小倉山

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
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近隣の観光スポット情報

祇王寺のある京都・嵯峨は見所いっぱいの地域です。嵐山・渡月橋付近には嵐山駅(京福電鉄嵐山本線、阪急電鉄嵐山線)、嵯峨嵐山駅(JR山陰本線)やバスなどの公共交通機関が乗り入れているので嵯峨・嵐山をゆっくり歩いてめぐるには好都合です。

posted by はんなり・ジャーニー at 21:12 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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