落柿舎

落柿舎
落柿舎

落柿舎(らくししゃ)は、松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人とされる江戸時代前期の俳人、向井去来(1651〜1704年)の閑居跡で、藁葺き、平屋建ての小さな草庵です。

去来は長崎の生まれで、若いころの去来は武芸にも達し、天文学にも通じていたことから筑前国(ちくぜんのくに。福岡県)の黒田候から招かれています。しかしそれを断り、その後京都に出て宮中や公卿(くげ)の家に出入りしていたと伝えられています。そして延宝(えんぽう)3年(1675)二十四、五歳のころには武をすて、貞享(じょうきょう)元年(1684)上洛した其角(きかく。榎本其角)に接したのを機に、俳諧の道へと進んでいったのでした。其角は芭蕉の初期のころからの門人で、芭蕉がその才能を高く評価していた人です。

別荘を譲り受ける

蓑
柴門(さいもん)を入ると草庵の壁に笠と蓑(みの)とが掛けてあります。草庵の荒壁に掛けられた笠と蓑(みの)が、庵主在宅を伝えています。

落柿舎は元々京洛のある富豪が建てさせた広い立派な構えの別荘だったといいます。
「本座敷二間の外、女部屋、化粧間、大工の細工所、湯殿も三ケ所まであり、一間幅の縁側を通し床の間の落し掛は黒檀に雲龍の彫刻を施し、下縁は紅紫檀に沈金彫といふ贅沢な建築であった。」(『郷土資料上方』所収「落柿舎去来」より)
とも言われています。加えて、周囲の景観もよかったといいます。その後めくりめくってそれを去来の父が譲り受けることとなり、貞享年間(1684〜1688)のころ去来の所有するところとなったものです。去来が記したとされる記録によると(一部抜粋)、

落柿舎は下嵯峨川端村に有、村は昔日の大井里(おおいのさと)也。
屋敷広狭
弐拾間(にじっけん)余りに五十間ばかり。
※1間(けん)≒1.8m
舎の大小
前は棟(むね)数有、泉水、築山(つきやま)等。後は草屋(そうおく)一宇(う)有。
舎は北向。門は南。前路は農人のかよひ路也。
舎の風景
あたご山(やま)、乾(いぬい。西北。)にみゆ。北山(きたやま)、不残(のこらず)見ゆる、雪おほし。
双丘(ならびのおか)、東山にみゆ。御室(おむろ)、塔見ゆ。嵐山。大井川、前村にあり。

というようなことが書き記されています。去来がこの別荘を譲り受けた時迄は庭内に茶室があり、そこには風情を添えるために鞍馬から25〜26人の人夫を使ってわざわざ取寄せたという石(捨石)もあったといいます。ただ去来の所有となった頃には手入れはなされていなかったようで、後にここを訪れ『嵯峨日記』を著した芭蕉の4月20日の日記(下記「芭蕉の来訪」の項参照)によると、「崩れかけた様子」と表しています。

ここの元の呼び名は捨庵と云ったそうですが、元禄2年(1689)に去来が著した『落柿舎ノ記』の中で、これを落柿舎と名づけました。『落柿舎ノ記』は、落柿舎と名づけるに至った経緯について記したものとして知られています。(下記「落柿舎の名の由来」の項参照)

去来は、元禄6年(1693)の秋になってこの邸宅をバラバラにして取り壊しました。役に立つ物は近所の農夫などに分けたりして、一切の華美を取り去ってしまったのです。そしてとうとう簡素な草庵にしてしまったのでした。

芭蕉の来訪

落柿舎の全景落柿舎の全景
落柿舎の前に広がる畑に、柿を干している様子を演出してありました。

そんな落柿舎に去来の師・芭蕉も、去来が落柿舎と名付けた元禄2年(1689)の冬、元禄4年(1691)の夏、元禄7年(1694)の夏の三度訪れ滞在しています。1回目と2回目の時は去来が落柿舎を改築する前で、3回目の時は改築後ということになります。芭蕉は都の華やかな町中を離れた、ボロボロのわびしい様の草庵である落柿舎を「今のあはれなるさま」として、却ってゆかしく眺め、気に入っていたといいます。

芭蕉は二度目の訪問時の元禄4年4月18日から翌月の5月5日までの十八日間落柿舎に滞在した時に『嵯峨日記』を著し、その時の様子を詳(つまび)らかに記しています。

4月20日の日記(一部抜粋)
「落柿舎は、昔の持主が造ったままで、所々やぶれているが、立派に造り立てた昔の様より、いまの崩れかけた様子の方が却ってずっと心惹かれる。」
「今晩は、羽紅・凡兆の夫婦を泊めたので、五人が一張りの蚊帳(かや)の中に寝たため、狭くて寝苦しく、夜中過ぎにはみんな起き出して、昼の菓子や酒などを取り出し、朝方まで話しあかした。」

芭蕉は『嵯峨日記』を5月4日まで記し、その翌日の五日には落柿舎を発つ、として締めくくっています。

5月4日の日記
「宵に寝(いぬ)ざりける草臥(くたびれ)に終日臥(ふす)。昼より雨降止(ふりや)む。明日は落柿舎を出(いで)んと名残をしかりければ、奥・口の一間(ひとま)ひとまを見廻(めぐ)りて、
五月雨(さみだれや)や色帋(しきし)へぎたる壁の跡

(昨夜寝なかったので、くたびれて一日中寝て過ごす。昼ごろから雨が降りやむ。明日は、落柿舎を出ようと思うと、名残惜しかったので、家中を奥から入口まで一間ひとま見て回り、こんな句を作った。その昔は豪華な普請(ふしん)であったこの落柿舎も、今は痛みはてて、壁には色紙を剥いだ跡が残っている。外には蕭々(しょうしょう)として五月雨が降り続いている。)

またこの滞在中に芭蕉は『落柿舎の記』を書いていますが、その中に、

「京の去来とかいう人の別荘は、下嵯峨の藪の中にあって、嵐山の麓、大井川に近いところです。この地は、閑静で心が澄むようなところです。」

と書き記しています。

落柿舎はさしずめ俳諧道場で、近隣の農夫や町人も自由に出入りしていたといいます。ただいたるところ雨漏りがし、壁はボロボロで、障子も畳もカビ臭いなどと言いながら、・・・。
また芭蕉が滞在していた時は、去来をはじめ(榎本(えのもと))其角、(服部(はっとり))嵐雪、(各務(かがみ))支考、(河合(かわい))曾良ら、主だった人達も出入りしていました。

落柿舎は去来の別荘で、本邸は現在の烏丸通を挟んだ京都御苑の西で堀川通の東の中長者町通(京都市上京区仲之町)界隈にあったといいます。そして去来はその本邸から嵯峨のこの別邸までやって来ては泊まっていったり、泊まらずに夕方に帰ったりしていたといいます。

落柿舎の再興

去来の墓去来の墓 去来の二文字去来の二文字西行井戸西行井戸
落柿舎から北へ100mほど行った裏手の路傍には向井去来の墓があります。この去来の墓は、自然石を用いて「去来」とだけ刻んだ簡素なもので、去来が没した約70年後に井上重厚が落柿舎を再建した際に、真如堂(真正極楽寺)の墓所から分骨して建てられたと伝わっています。
また墓所入口の右手には、平安末期の歌人として知られる西行がこの辺りに庵を営んでいた頃使っていたとされる井戸である「西行井戸」が残っています。

現在の落柿舎は、明和(めいわ)7年(1770)に井上重厚(いのうえじゅうこう)が元の場所とは違う嵯峨・弘源寺跡に再興したものです。重厚は、去来の外戚にあたり、江戸時代中期・後期における俳人です。そして、落柿舎再興の4年後で、去来没後70年経った安永(あんえい)3年(1774)には、去来が実際に書いた筆跡などを入手し、また落柿舎関係で去来が書き残したものに歌仙を加えた記念集である『落柿舎日記』を著しています。

落柿舎は先の去来の記録や芭蕉の『落柿舎の記』にも書かれているように、下嵯峨(渡月橋の東寄りにあたり、渡月橋から下流を流れる桂川の左岸に広がる地域。下記地図参照。)にあったとされていますが、重厚が再興しようとした当時は既に元の場所は判然としなかったとされ、『落柿舎日記』に「むかし嵯峨に去来先生の別荘『落柿舎』があり、そこにはかの芭蕉翁も訪れたといい、『嵯峨日記』はここで書かれましたが、それから多くの年月が過ぎ、元々あった落柿舎の場所もすっかり分からなくなってしまいました。そこで北嵯峨小倉山の麓の山本村に弘源寺跡という所があり、ここは丁度嵐山に向かい、柿の古木が数株今もあって、去来先生の『梢はちかきあらし山』の句に詠まれた景観と同じようなので一宇をこちらの方に移しました。」といった内容が書き記されています。

落柿舎の名の由来

落柿舎(2012年3月撮影)落柿舎(2012年3月撮影)
2012年3月に訪れた時には、以前のように柴門から、壁に掛けられた笠と蓑を見ることはできませんでした。

落柿舎の名の由来については去来自ら『落柿舎ノ記』を残しています。その内容は次のようなものです。

その庵の周りに柿の木が四十本程ありました。ある年の八月の末、去来がここに来ている時、都から柿買の商人がやって来て、立木のままで柿を買い求めようとして、一貫文(およそ7,600円)で譲ってほしいと頼まれたことから去来は売りました。するとその夜、思いもかけない暴風に襲われたことから、木になっていた柿の実が落ちては屋根の上をコロコロと音を立てて転がったかと思うと、庭に落ちてびしゃびしゃっとつぶれる音がしていました。これが夜通し続いていたのでした。翌日例の柿買の商人がやって来て、実が殆ど落ちてしまった柿の木を見て言うには「私は小さい時から白髪の生えたこの年になるまで柿の実を商売に扱ってきましたが、これほど実が落ちる柿の木を見たことはありません。申し訳ないが、昨日支払ったお金を返してはくれまいか」、と詫びながらに頼むので、去来は気の毒に思って返してやったといいます。そこでこの商人が帰るのに際して、去来が友人に手紙を書くので届けて欲しいとしたその手紙に自ら「落柿舎の去来」と書き記したのでした。そしてその手紙の最後には

柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山
(柿主よ、嵐の吹くという名の嵐山が柿の梢に近いので、柿の実が落ちてしまってもしかたないのだ)

の句を書き記しました。去来の実感だったのでしょう。

落柿舎
落柿舎
柿の実がとても重そうです。

【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 下嵯峨(渡月橋の東寄りに広がる、この周りの16の町が総称して下嵯峨と呼ばれます。)
  2. 渡月橋
  3. 天龍寺
  4. 野宮神社
  5. 常寂光寺
  6. 落柿舎
  7. 去来翁墓
  8. 西行井戸
  9. 二尊院
  10. 滝口寺
  11. 祇王寺
  12. 壇林寺
  13. 国の「嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区」に指定されている町並み
  14. 愛宕神社一の鳥居
  15. 愛宕山(図の左斜め上にあるマイナス(−)ボタンを2回押せば位置を確認できます。)
  16. 御室地域(図の左斜め上にあるマイナス(−)ボタンを2回押せば位置を確認できます。)
  17. 双ケ岡(ならびがおか)(図の左斜め上にあるマイナス(−)ボタンを2回押せば位置を確認できます。)

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

落柿舎のあるこの地域一帯は「嵯峨(野)」と呼ばれ、歴史を重ねた多くの社寺が立ち並び、散策する路も竹林に囲まれた静かなところです。

posted by はんなり・ジャーニー at 11:05 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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