賀茂別雷神社(上賀茂神社)
〜世界遺産〜

細殿、橋殿(舞殿)、土屋、立砂
細殿、橋殿(舞殿)、土屋、立砂
一の鳥居からの長い参道を抜けたあと二の鳥居をくぐると、木々の深い緑を背景にして長い歴史を感じさせる社殿が目に飛び込んできます。
左から細殿(ほそどの)、橋殿(はしどの)(舞殿(まいどの))、土屋(つちのや)。細殿の前には円錐状の一対の白い立砂(たてすな)が見えます。

上賀茂神社は京都市内を南下する鴨川の上流にあたる賀茂川に西面し、その境内には

風そよぐならの小川のゆふぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける

(小倉百人一首)

で知られるならの小川の清水が流れています。その賀茂川は、ならの小川の源であり、また、上賀茂神社の祭神別雷神(わけいかづちのかみ)誕生に縁の深い川でもあります。

上賀茂神社は古の昔から、現在の上賀茂の地にあって、およそ3km南に位置する下鴨神社とともに京都最古の神社の一つに数えられ、多くの参詣者が訪れています。

なお、上賀茂神社と下鴨神社、この「賀茂」と「鴨」の表記については、江戸時代の中頃からこれらの字が用いられるようになったといいます(『賀茂注進雑記』)。

草創

神山神山
二の鳥居の前を西へ少し歩くと勅使殿があります。その前辺りから北の方角に目を向けると見える、お椀を伏せたような美しい山が神山(こうやま)です。
神山は上賀茂神社の北方約2.5kmの所にあって、上賀茂神社の祭神が降臨された山とされ、禁足地となっています。

賀茂の神話
〜賀茂の祭神の出現〜

上賀茂の地は、古代より賀茂一族が勢力を張り、支配していたとされています。この賀茂氏には興味を引かれる始祖伝承が残っています。それは、奈良時代半ばの8世紀中頃に編纂されたとされる山城国風土記逸文≪賀茂社≫で、『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)に引用されている賀茂社の伝説です。

内容は

賀茂健角身命(かもたけつぬみのみこと)は、神武(じんむ)天皇(『古事記』、『日本書紀』に伝えられる初代天皇)に随行して、大和より北進した。賀茂川と桂川の合流地点まで進んで来たところで、賀茂川を見て、「小さいが美しい川だ」ということで「石川の瀬見の小川」と名付けた。そして更に北上を続け、賀茂川の上流に鎮(しず)まったという。
賀茂健角身命は、丹波国神野(たにはのくにのかみの)の伊可古夜日女(いかこやひめ)をめとった。そして玉依日子(たまよりひこ)・玉依日売(ひめ)が生まれた。
時が過ぎたある時、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、川上から丹塗矢(にぬりや)が流れてきたのでそれを持ち帰って床の傍らに挿して置いていた。すると玉依日売はその精を孕(はら)んで、男子を産んだ。その男子が成長して大人になるころ、男子の父が誰なのかを知ろうとした祖父の賀茂健角身命が、大きな御殿を建てて神々の宴を開き、神々が集う前で、「お前の父にこの酒を飲ませなさい」と言ったところ、男子は酒杯を持ったまま、屋根を突き破り、天へと昇って行った。これにより男子の父は火雷神(ほのいかづちのかみ)とわかり、男子は賀茂別雷命(わけいかづちのみこと)と名付けられ、上賀茂神社の祭神に祀られた。
一方、賀茂健角身命、妻の伊可古夜日女、長女の玉依日売の三柱は、蓼倉(たでくら)の里の三井(みい)の社(現在下鴨神社本殿の西にある三井(みつい)神社)に祀って祭神とした(下鴨神社のはしり)。

というものです。

この『山城国風土記』に書かれていることについては古来種々の解釈が当然ながらあり、これからどのような史実を読み取ることができるのか定説を見るに至っていません。

今日、上賀茂神社の祭神は賀茂別雷神、一方下鴨神社の祭神は賀茂建角身命とその長女・玉依日売命(たまよりひめのみこと)とされており、この伝説に沿ってその祭神の関係を図示すると次のようになります。

系図
【系図】

このことから、上賀茂神社は正式名称を賀茂別雷神社といい、下鴨神社は、祭神である賀茂建角身命とその長女・玉依日売が、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命の御祖(みおや。親や先祖。)に当たるので、その正式名称は賀茂御祖神社とされているのです。なお、玉依日子は、賀茂地方を治めた賀茂県主の祖といわれます。

賀茂社草創

ところで、賀茂社に関する記事が初めて正史に現れるのは、文武朝の697年から桓武朝の791年までの95年間に亘り年代の順序を追って記述した勅撰の歴史書で、平安初期の延暦16年(797)に成立した『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記載されている文武(もんむ)天皇2年(698)3月辛巳(21日)条において

文武天皇2年3月辛巳(21日)条

山背国賀茂祭日會衆騎射

(山背国(山城国)の賀茂の祭の日に、多勢の者を集めて騎射をすることを禁止した。)

と記されているものです。

この文武天皇2年という年は、日本の時代区分で言うと、奈良時代の前の飛鳥時代に当たります。この文武天皇2年の前年までには既に賀茂祭が行われていて、遠方まで祭のことが知れ渡っていることから多くの人・馬が集まり、しかも流鏑馬(やぶさめ)のような、馬に乗って弓を射る「騎射」を行っては、乱闘に及ぶことも絶えなかったものと伝えられています。そのためこの年の賀茂祭の開催直前になって、賀茂祭の日には会衆することも騎射することも全面禁止とするという御触れが出されたことを示すものです。

このことは7世紀末にはすでに賀茂祭が4月(旧暦)に行われていたということになります(もちろん今日見られるような賀茂祭(葵祭)とは違っていたでしょうが。)。そして賀茂祭が行われていたのが、賀茂社(現在の上賀茂神社)です。賀茂社を祀っていたのは、大和政権(4世紀から7世紀半ば頃までの大和(奈良県)を中心とした畿内の政治連合体)下で山背(山城)地方を統治する「県主(あがたぬし)」という地方官としての役職を与えられていた、巨大な力を有する地方豪族の賀茂氏でした。賀茂氏は祭神賀茂別雷神の伯父玉依日子(たまよりひこ)の直系とされています。

さて賀茂社といっても今日の上賀茂神社のような社殿が、初めからあったわけではありません。

当時この山背(山城)地方一帯を統治していた賀茂県主は、一方で賀茂の氏神などを祀るとともに、他方では稲作などの節目ごとに五穀豊穣を願って雷神のような自然の神を祀る祭礼などを行っていたであろうと考えられています。もちろん、そのころはまだ常設の社(やしろ)を設けて行うのではなく、毎年の祭礼ごとに仮設のヤシロ(屋代)を設け、神を祀っていたと考えられています。

それから天武天皇白鳳6年(678。飛鳥時代。)になって、先ず、遠方から拝む為の建物である遙拝殿(ようはいでん)として造営され、その後平安時代になって現在のような本殿になったとされています。

なお、創建時の賀茂社については、大化の改新(645年から701年の大宝律令制定までの約半世紀に亘って行われた政治改革)に端を発する律令制の展開に伴い国との交渉が増えていく中で、賀茂県主の奉斎する県(あがた)神社がその原型となって、地方の大社へと発展したのが上賀茂神社の前身となったのではないかと考えられています。

参道
参道
一の鳥居から奥に見える二の鳥居まで白い参道が真っすぐに伸びています。その両側には芝生の広場が広がり、歩いていると晴れ晴れとした気分になってきます。
参道右手の広場には斎王桜、御所桜と名付けられた二本の枝垂桜(下記の写真集参照)があり、満開の頃になると、一の鳥居をくぐりぬけた辺りから訪れた人の目をくぎ付けにしています。

上・下二社に分立

渉渓園渉渓園
渉渓園(しょうけいえん)は平安時代末期頃の風趣に満ちた清楚な姿を伝える約500坪の庭園で、寿永元年(1182)に神主、重保(しげやす)が催したことに起源をもつとされる賀茂曲水宴(きょくすいのえん)が、園内において「ならの小川」からの分水で行われます。平安の雅を今に伝えています。
賀茂曲水宴は4月の第2日曜日に開催されています。

賀茂社は、大化の改新に端を発する律令制の展開に伴って県神社から地方大社へと発展し、諸国徒衆の信仰を得て神社として盛大となっていきます。一方、律令制の展開によって県制は解体していくことになり、賀茂県主も地方官としての地位を失っていくことになりますが、その代わりに賀茂社の神官家として発展することになります。

賀茂社は古の昔から、現在の上賀茂の地にあって、文武朝期(697〜707年。飛鳥時代。)には既に、ぬきんでて強大な地方大社として認められていました。その後、天平(てんぴょう。729〜749年。奈良前期。)の初年に至るまで、賀茂社は、国家が賀茂祭の会集をしばしば制限し、制止しなければならないほど殷盛(いんせい)をきわめていたのでした。この賀茂社とは、現在の上賀茂社に他なりません。そして賀茂社といえば奈良時代の始めまではこの社一つだけで、下鴨神社はまだ賀茂社とはいわれず三身社(みつみのやしろ。三井社(みいのやしろ。三所神社)。)とよぶ分社であったといいます。

そして、天平の末年から天平勝宝2年(750。奈良中期)にいたる間に、賀茂社の分社が行われて、もう一つの賀茂社である下鴨神社が賀茂川と高野川の合流地点に近い蓼倉(たでくら)の地に創立されたのでした。

分社の理由は不明とされていますが、賀茂社の賀茂祭には遠方からも多くの人が訪れ賑わいを見せていたようで、一歩間違えば民衆の不満の捌(は)け口として危険な行動へと飛び火しかねないといったような世情も背景にあったようです。そのために国家によりしばしば祭りの禁止令も発令されて取締りの対象となっており、盛大に行われる賀茂社の祭りに手を焼いた国家による宗教政策の結果とも考えられています。

そして、天応元年(781)4月に「賀茂神二社」と見えるのを最初に(『続日本紀』同月戊申条)、正史にも賀茂社が上・下二社と表記されるようになります。

天応元年4月戊申(20日)条

賀茂神二社祢¥j等始把笏。

(賀茂神を祀る二社の禰宜(ねぎ)や祝(はふり。禰宜に従って祭祀(さいし)をつかさどる男性神職。)などに、はじめて笏(しゃく)を持たせた。)

以後国家は上社・下社に同じ神階を与えるように、両社に対して対等の待遇で接することになります。そして、長岡京さらには平安京遷都により、両社の地位はさらに上昇していくことになります。

ならの小川
ならの小川
小倉百人一首にも詠まれているならの小川は、境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)と御物忌川(おものいがわ)が橋殿(舞殿)の辺りで合流した川で、小川のせせらぎといえるほどの浅瀬の流れですが、水は清く速い流れを呈しています。

氏神から国家神へ

末社・岩本神社末社・岩本神社
岩本神社は渉渓園と小川を隔てた所にあって、古くから歌人の守り神としての信仰が篤い社とされています。
境内にはこのような末社や摂社が数多くあります。

先に述べたように、賀茂社で行われていた賀茂祭は、しばしば当時の朝廷による取締りの対象となっており、いわば目をつけられていたような状況でした。

ところが、延暦3年(784)になると取締りの対象である賀茂祭が行われていた賀茂上・下二社に対する朝廷の対応が180度転換してきます。賀茂上・下二社はこの頃には山城国の第一の神社にまでなっていたものと考えられています。そしてこの年は、都が奈良の平城京から、現京都市の南西にある長岡京へと遷った年(同年11月)です。長岡京は、10年後に遷都される平安京とともに山城国内にあります。

朝廷の180度転換の対応を如実に見てとれるのが前掲の『続日本紀』に記載されている次の3つの条です。

≪長岡京遷都前≫

延暦3年6月壬子(13日)条

参議近衛中将正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社。奉幣。以遷都之由焉。又今年調庸。并造宮工夫用度物。仰下諸国。令於長岡宮

(参議・近衛中将・正四位上(しょうしいじょう)の紀朝臣船守を賀茂大神の社に遣して、幣(ぬさ。供物。)を奉納させた。遷都の理由を告げるためである。又、今年の調(みつき)・庸(よう)や、宮を造る工人や人夫の必要な物資は、諸国に命じて長岡宮に進上させた。)

≪長岡京遷都後≫

延暦3年11月丁巳(20日)条

近衛中将正四位上紀朝臣船守。叙賀茂上下二社従二位。又遣兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚。叙松尾乙訓二神従五位下。以遷都也。

(近衛中将・正四位上の紀朝臣船守を遣して、賀茂の上下二社に従二位(じゅにい)を叙し、また兵部大輔・従五位上(じゅごいじょう)の大中臣朝臣諸魚を遣して、松尾と乙訓(おとくに)の二神に従五位下(じゅごいげ)を叙した。長岡遷都のためである。)

当時、神社に対する叙位(じょい)は通常五位ないしは六位が多いとされていたことから、松尾社、乙訓社には従五位下が授けられ順当な授与となっています。これに対して賀茂上・下二社には従二位という高い位が与えられています。これは賀茂上・下二社を重く見ていることの表れであり、まさしく皇城の鎮護神として公認されたことを示しているということができます。

延暦3年11月乙丑(28日)条

使修理賀茂上下二社及松尾乙訓社

(使者を遣して賀茂の上下の二社と松尾社・乙訓社を修理させた。)

神社の修理を国が肩代わりして行っています。通常、神社の修理はそれを氏神とする氏族が行うものとされます。それを国家が行ったということは松尾社、乙訓社とともに賀茂社も国家の社となったことを示しています。

このようにして賀茂上・下二社は、賀茂県主の氏の神に始まり、その祭礼が国家の取締りの対象だった地方の神社から、皇城の鎮護神として国家最高の崇敬をうける神社へと飛躍を遂げたのでした。

長岡京遷都、平安京遷都を行った桓武(かんむ)天皇の長男である平城(へいぜい)天皇のときに至っては、大同2年(807)5月、賀茂上・下二社には、正一位(しょういちい)という最高の位が授与されました。これによって賀茂社は皇城鎮護の社として最高の礼遇を得たといえ、皇室の氏神としての伊勢神宮に並ぶほどの社格を獲得し、日本第一等の神社としての扱いを受けることになったのでした。

写真集写真集(17枚の写真が表示されます。)
写真 
楼門(ろうもん)(重要文化財)
創建年代不詳。現在の建築は江戸前期における寛永5年(1628)の造替(ぞうたい)。
≪関連情報≫
項目 内容
正式名 賀茂別雷神社
通称 上賀茂神社
所在地 京都市北区上賀茂本山339
祭神 賀茂別雷神
創建年 天武天皇白鳳6年(678)
主な祭事 武射神事(1月16日)
賀茂曲水宴(4月第二日曜日)
競馬会神事(くらべうまえしんじ。5月5日)
御阿礼神事(みあれしんじ。5月12日)
賀茂祭(葵祭)(5月15日)
夏越神事(なごししんじ。6月30日)
烏相撲(9月9日)
文化財
国宝
本殿、権殿
重要文化財
細殿、橋殿(舞殿)、土屋、幣殿、高倉殿、楼門ほか

【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 一の鳥居
  2. 御車舎
  3. 斎王桜(枝垂桜)
  4. 御所桜(枝垂桜)
  5. 馬出しの桜
  6. 見返りの桐
  7. むち打ちの桜
  8. 勝負の紅葉
  9. 校倉
  10. 御物忌井
  11. 庁屋(北神饌所)
  12. 渉渓園
  13. 拝殿
  14. 外幣殿
  15. 神馬舎
  16. 二の鳥居
  17. 楽屋
  18. 土屋
  19. 橋殿(舞殿)
  20. 立砂
  21. 細殿
  22. 玉橋
  23. 楼門
  24. 本殿
  25. 権殿
  26. 西の鳥居
  27. 勅使殿
  28. 御手洗川
  29. 御物忌川
  30. ならの小川
  31. 神山(こうやま)(図の左上にある−(マイナスボタン)を4回クリックして下さい。)
  32. 社家町
  33. 明神川
  34. 御薗橋(みそのばし)(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。)

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上賀茂神社の一の鳥居をでて左手(東)へ行くと明神川に沿って土塀が並ぶ上賀茂社家町(重要伝統的建造物群保存地区)があります。

posted by はんなり・ジャーニー at 18:35 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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