
石水院廂(ひさし)の間〜夏〜
洛西の北端に「三尾(さんび)」と称される、高尾(雄)、槇尾(まきのお)、栂尾(とがのお)という地があります。この地は、古より山また山を分け入った、清滝川の渓流に沿った霊境とされてきたところで、紅葉の名所として広く知られているところでもあります。
高山寺(こうさんじ、こうざんじ)は、その「三尾」のなかでも一番北に位置する栂尾の地にあります。 かつては多くの堂塔が山中に建てられていたとされますが、今日においてはそれらは皆失われていて往時の盛観をしのぶよすがもありません。高山寺中興開山上人と仰がれる明恵上人(みょうえしょうにん)在世時の建物で今日まで残っているのは、後鳥羽天皇の御学問所を移築し、明恵上人が禅堂とした庵室である国宝、石水院(五(御)所堂)だけとなっています。
しかし杉におおわれた高山寺境内は、まさに山奥のひっそりと物静かな様相を呈し、幽邃(ゆうすい)高雅な雰囲気に包まれた寺として今に引き継がれています。
開創

表参道の敷石
晩秋の候、この参道が紅くなった楓(かえで)に覆われ、敷石を覆うように落葉した紅い楓に木漏れ日が差し込む光景の美しさは筆舌に尽くしがたいものがあります。
高山寺は、奈良時代後期の宝亀(ほうき)5年(774)、光仁(こうにん)天皇の勅願によって開創され、最初、神願寺都賀尾坊(とがのおぼう)と称されました。山林修行の道場として開創されたといいます。
都が平安京に遷ったのちの弘仁(こうにん)5年(814)には、都賀尾十無尽院(とがのおじゅうむじんいん)と改称されています。
この都賀尾坊が、栂尾山高山寺としての歴史を歩み出すのは鎌倉時代初期の建永元年(1206)に入ってからです。後鳥羽上皇、近衛家・九条家・鷹司(たかつかさ)家・西園寺家といった藤原一門をはじめとして上下四方からの帰依を得つつあった明恵上人が、同年11月8日、当時は高雄山神護寺の一別所であった栂尾の地を後鳥羽上皇から下賜され、「日出先照高山之寺(※)」の勅額を賜ったのでした。華厳経を象徴する言葉である「高山」を冠した「高山之寺」とは華厳の寺を意味し、以来、高山寺の名をもって呼ばれるようになります。
※…ひいでてまずこうざんをてらすのてら/ひいでてまずてらすこうざんのてら
明恵上人

明恵上人樹上坐禅像(一部)
国宝。
明恵上人は、平安時代末期の承安(じょうあん)3年(1173)正月8日、紀州(現和歌山県)有田郡石垣庄内吉原村に誕生しています。幼名は薬師丸。
薬師丸の父は武士で、母方の家とともに、平治の乱(1159年)では平清盛に加勢して源義朝(みなもとのよしとも)を倒すのに功を成した功臣でした。この時、まだ13歳だった源義朝の三男、源頼朝(みなもとのよりとも)は助命されて伊豆に流されています。
薬師丸がまだ8歳であった時の治承(じしょう)4年(1180)正月、母が病死しました。同年8月に源頼朝が伊豆で挙兵したことから、翌9月、父は上総国(かずさのくに。現在の千葉県中部(房総半島北部))で源頼朝の軍と戦って、戦死してしまいました。
孤児となった薬師丸は、母の妹の夫の家で面倒を見てもらっていましたが、翌年8月、薬師丸9歳の時、薬師丸の祖父と親交のあった文覚(もんがく)上人と叔父に当たる上覚を頼って高雄山神護寺に引き取られていきました。
これより以後、薬師丸は文覚上人、上覚をはじめとして、京都並びに奈良の東大寺その他で、華厳をはじめ各派の教義奥義を研学し、自己の道器の形成に怠ることなく努めていったのでした。

間雲亭
ところで、文覚上人は、武蔵坊弁慶のように体格はがっしりとしていて、気性はかなり激しい人だったようで、一時荒廃していた神護寺の再興を後白河天皇に強訴したことにより、流罪となって伊豆へ流されたことがあります。そこで源頼朝と出会い、頼朝に挙兵を勧めたとされています。
皮肉にも、文覚上人が勧めた頼朝の挙兵によって、薬師丸即ち明恵上人の父親はその戦いの中で戦死したということになります。文覚上人は薬師丸の身の上を知った上で、せめてもの罪滅ぼしにと引き取ったのかもしれません。
明恵上人が生きた鎌倉時代初期といえば、法然(ほうねん)、栄西(えいさい)、親鸞(しんらん)といった傑出した人々が出て宗教界に清新の気を吹き込もうと、旧仏教にかわる新仏教を起こしつつあった時期でもありました。一方明恵上人は、経典を厳密に学び、みずからきびしく仏法を修行実践することによって、旧仏教に新しい生命をもたらそうとする立場を取っていたようです。
明恵上人は先頭にたって組織をつくるといったことは好まず、質素を好んで、僧位僧官を受けることもなく、ひとり静かに座禅することを好んだといいます。
島への恋文

石水院の土塀と石垣
明恵上人は、自然を友としたことでも知られています。ただ、明恵上人の場合は、人に対して友情・愛情をもつのと同じように自然に対しても友情・愛情をもったところに明恵上人の明恵上人たるユニークさがあります。
それは、例えば、紀州(現和歌山県)の苅磨(かるま。現苅藻島(かるもじま)。)という、湯浅湾に浮かぶ小さな島に宛てて次のような概略の恋文を書いたということからもうかがえます。
-
その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶もいたさずにおります。
・・・
このように申しますだけでも涙が出て、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます。またそこにありました桜の大木が思い出されてなつかしく慕わしく、お手紙など差し上げてご機嫌如何でしょうかと、申したく思うときもありますが、口をきかない桜の大木にあてて手紙を差し出せば、狂気かなどと、いわれることを気にして、道理に合わぬ俗世間の習慣に同調しますばかりに、心には思いながら表面には出さずにおりましたが、しかしながら結局は気違い沙汰と思うような人は友達にしないことにいたしましょう。自在海師(じざいかいし)の伴(とも)をして島に渡って大海原に住みたい、海雲比丘(かいうんびく)を友人として心からのびのびと遊べますならば、何の不足がありましょうか。島へ参って思い通りに仏道を修行いたしましてより、立派な人以上に、ほんとうにおもしろい心の通い合う遊びの友とは、貴方(あなた)であると心に深くきめ申しております。ずっと永い間、世の中を見つめてこられましたから、昔の真似(まね)で土を掘って、その穴に話をして満足した者があったなあと思われるでありましょう。それらは古いことでありまして、近ごろではそのようなことは世の中で普通には行われておりませんので、もしそのような振舞(ふるまい)をすれば、心の奥に何か大きな望み事があるように思われましょう。しかし出家僧数名が仲良く戒律を守って、同一の華厳(けごん)の法界の中で生活しております。隣にいる友人の心を大切にしないようでは、一切の有性(うしょう)を仏の光の中に収めとって守ろうとする心が無いようなものでありますので、このように心の中を書状に記して差し上げることは罪とはいわれますまい。取り急ぎしたためました。またお手紙を差し上げたいと心に決めております。
以上謹んで申し上げます。
某月 日高辨しるす
島殿へ
(『明恵上人伝記』)
手紙の最後にある差出人の「高弁」は明恵上人の名前ですが、宛名の「島殿」の「島」は女性の名前ではなく、海面からその頭を出している「島」です。
使いの者が「このお手紙をいったいどなたに差し上げたらよろしいでしょうか」と尋ねると、「ただその苅磨島(かるまじま)に着いたならば、梅尾(とがのお)の明恵房の所からの手紙でございますと、大声で叫んでそこにうっちゃって置いて帰ればよい」と申されたそうです。
明恵上人は生まれ故郷でもある紀州で修行をしていた23歳の時、苅磨(かるま)という小さな島でしばらく暮らしたことがありました。この恋文は、明恵上人がそれから10年以上経って、高山寺に住するようになってのちに、この島のことを懐かしんで、島宛てに書いたとされる手紙です。
また、明恵上人は純真無垢、天真爛漫ともいうべき人柄も持ち合わせていたようで、次のようななんの技巧も飾りもない歌を詠んでいます。
-
あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかや月
(『明恵上人和歌集』)
これは月光の明るい様を直截にそのまま詠んだもので、明恵上人の人柄の一面が伝わってきます。
承久の乱〜後鳥羽上皇・明恵上人・北条泰時〜

開山堂
武家政権による鎌倉幕府を開いた源頼朝が、建久(けんきゅう)3年(1192)に征夷大将軍になってから7年後の建久10年(1199)に亡くなると、子の源頼家(みなもとのよりいえ)が2代将軍となって後を継ぎましたが、失墜して遂には北条氏の手によって亡きものにされてしまいます。その後、頼家の弟の源実朝(さねとも)が3代将軍になるに及んで頼朝の妻・政子(まさこ)の父・北条時政(ほうじょうときまさ)が執権となって権力を握ることになります。
3代将軍実朝が鶴岡八幡宮において拝賀の式を行った際に、父・頼家を亡きものにしたのは叔父・実朝だと教え込まれていた頼家の子・公暁(くぎょう)が実朝を暗殺してしまいますが、公暁みずからも、時政の後を継いで執権となっていた北条義時(よしとき)の手によって捕らえられ、葬られてしまします。その結果、頼朝の血を引く男子はいなくなってしまいました。そこで義時は、まだ幼子であった藤原(九条)頼経(よりつね)を将軍として迎えました。
こうして源氏によって始められた鎌倉幕府は、その政治の実権も北条氏が握るようになっていきます。
そんな中、源氏がいない鎌倉幕府は不安定で崩壊するだろうと考え、朝廷の復権を目指した後鳥羽上皇は、承久(じょうきゅう)3年(1221)、時の執権北条義時(よしとき)追討の命令を出し、関東へ討手を差し向けました。これに対して北条義時の子・泰時(やすとき)と義時の弟・時房(ときふさ)が大将となって京に攻め入ってきました。鎌倉幕府と朝廷との覇権争いである承久の乱です。
結果、後鳥羽上皇方は大敗し、後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま。現島根県隠岐郡海士町(おきぐんあまちょう))に流されてしまいます。

開山廟
北条軍は、敗退した後鳥羽上皇方の落人(おちうど)を追って、栂尾山中までやって来ました。遂に捕らえられた落人とともに、その落人を隠匿したとして明恵上人までも罪人として、泰時の陣営のあった六波羅(ろくはら)へ連行されてしまいます。
ところが、明恵上人の徳望を聞き及んでいた泰時は、目の前に引き立てられた明恵上人の姿を見るなりびっくり仰天して、北条方の軍兵(ぐんぴょう)がびっしりと居並ぶ中、自分の座っていた上座を離れ、明恵上人をその座に据えました。
そして明恵上人が言うには、捜索にやって来た北条軍の兵士は、高山寺に落人を多数隠していたと言われたが、確かにそうでしょう。しかしながら、栂尾の山は仏に寄進した所ですから殺生禁断の地であり、戦に敗れた落人が敵に追われて辛うじて逃げのび、木の根元や岩の間に隠れているのを、私が咎(とが)めを受けるからといってどうして無情にも追い出して敵に生命を奪われるようにすることができましょうか。隠せるものなら、袖(そで)の中にでも袈裟(けさ)の下にでも隠して生命を助けてやりたいと思っています。今後もそうするでしょう。もし、私のこうした行いがご政道の為に難儀であるというのであれば、即刻愚僧の首を刎(は)ねられるがよろしい。
泰時は明恵上人のこうした言葉に深く感じいってしきりに涙を流し、配下の者がしたこととはいえ栂尾の事情も知らないまま入り込んで乱暴した上に、明恵上人までもこのようなところに引き立ててしまったことを深く詫び、しばらく明恵上人と話をした後は大変感服した様子だったといいます。
やがて泰時は御輿(みこし)を用意させて明恵上人を乗せ、門の近くまで泰時自らやって来て、見送ったといいます。
高山寺への帰路、明恵上人は、栂尾の地を授けてくれた後鳥羽上皇、その後鳥羽上皇を配流の身にした北条氏によって手厚く送られていく今を思うと、これからは平安な世の中であって欲しいという思いでいっぱいだったのではないでしょうか。
この後、明恵上人を落人隠匿の罪で連行した部将・安達景盛(あだちかげもり)は、その折り大将・北条泰時でさえ頭を下げざるを得なかった明恵上人を師と仰いで出家し、主に高野山に在住しました。後に、明恵上人の臨終には高野山から駆けつけたと伝えられています。
その後、執権となり天下の政治を一手に握っていた泰時は、しばしば高山寺を訪れては明恵上人の法談を聞くようになったと伝えられています。

日本最古の茶園
以来、栂尾は茶の本園、その茶は本茶とされています。
高山寺は日本で初めて茶が栽培されたところとして知られています。
ある時泰時が、丹波の国(現在の京都府中部と兵庫県東部にまたがる地域)の庄園一カ所を栂尾に寄付しようとしたところ、明恵上人は、次のような内容のことを述べて、丁重に断ったといいます。
「このような寺にそのような領地でもあると、経済的に恵まれることになり、僧侶は堕落し、仏法への志のない者までもが入り込んでしまいます。また武器をもってとんでもない行動を起こす者も出てくるかもしれません。僧侶は貧乏で他人から尊敬されることだけをやっていれば、おのずと身のこなしはわきまえられるというものです。
世の中には、領地を寄付されても立派にやってゆける寺もあるでしょうから、願わくばそのような寺にご計画下さい。
この栂尾の寺に領地があることは、仏法修行のためには宜しくないと思います。
(泰時殿が)このように仏法を尊崇されることは有難いことと感謝しておりますが、この栂尾につきましては何分にも私に考えがございますので。」
無欲恬淡

仏足石の置かれている覆屋
明恵上人が鎌倉幕府第3代執権北条泰時に政治の要諦として「無欲恬淡(むよくてんたん)」を教えたことは有名です。泰時の政治方針は、この「無欲恬淡」を基礎にして構築され、その後の北条家による執政の礎になったとされています。
『明恵上人伝記』によると、それは次のような内容です。
北条泰時がいつも人にあって語るのは、自分は不出来な人間でありながら、辞退せずして執権となり、政務を執って天下を治めることができたのは、偏(ひとえ)に明恵上人のお陰である、と。
なぜかといえば、承久の変の後、泰時は、京都にいた時はいつも明恵上人にお目にかかった。ある時、仏法のお話のついでに、どのような方法で天下を治めたらよろしいでしょうか、とお尋ねしたところ、明恵上人が仰せられるには、国家が乱れて平穏でないのは何が原因かと、まず根本原因を突き止めなくてはならない。そうでなくその場その場にぶつかって賞罰を与えるのではますます人の心はねじけて、世の中は騒がしくなるだけで、恥を知るということもなく、前を治めれば後が乱れ、内を穏やかにしたかと思えば外から恨(うら)む、といった具合(ぐあい)である。
世の中の乱れの根本原因は、何から起こるかといえば、ただ欲が原因である。この欲がすべて禍(わざわ)いとなり、天下の大病となるので、これを治療したいというのであれば、まず第一にこの欲をなくするがよい。そうすれば、天下はおのずと泰平となりましょう、と言われた。泰時が申すには、このお教えは大切でありますから、私自身は全力を尽くしてこのお教えを守りましょう。しかし他の人々がこのお教えを守るのは難しいと存じますが、どのようにしたらよろしいでしょうか。
上人が答えられるには、それは容易でしょう。ただ為政者としての貴方お一人の心次第でしょう。昔の人は言っています。「身体の姿勢がまっすぐなら影は曲らない。政治が正しければ国は決して乱れない」と。
この正しいとは無欲ということである。また、為政者が自分の室で仕事に当っていても、立派な事をしている時には、千里よりも遠い地方の者までも、皆その指示に従うものだということばがあるが、このよいとは、やはり無欲ということである。ただ為政者である貴方お一人が無欲になりきられたなら、その徳に感化されて、国中の人々皆が自然に欲が薄くなるでしょう。欲が小さくなって足りたと感じられるようになれば、天下は容易に治まるでしょう。人が欲の深い訴訟を持ち込んできたら、まだ自分の欲が直っていないからだと受け取って、自分に反省し自分自身が恥ずかしいと思うことです。決してその訴訟人を咎(とが)めてはいけません。これはたとえば自分のゆがんだ影が水に映ったのを見て、自分の姿勢を正さずに、影がゆがんでいると怒って影を処罰しようとするようなものです。
写真集(34枚の写真が表示されます。)
秋の深まりとともに紅葉が進むと一段と風情が増してきます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8 |
| 山号 | 栂尾山 |
| 宗派 | 真言宗系単立 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 宝亀5年(774) |
| 開基 | 光仁天皇 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 裏参道
- 間雲亭
- 石水院
- 客殿
- 庫裏(くり)
- 日本最古の茶園
- 遺香庵
- 法皷台文庫
- 聖観世音菩薩
- 開山堂
- 開山廟
- 旧石水院跡
- 仏足石
- 金堂(本堂)
- 金堂道
- 敷石
- 表参道(※)
- 寺標(※)
- 国道162号(周山街道)
- 清滝川(※)
- バスプール、駐車場
- 西日本JRバス・栂ノ尾バス停
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
高山寺表参道から国道162号(周山街道)に出て、清滝川下流沿いに周囲の景観を楽しみながらおよそ20分歩いて、清滝川に架かる橋を渡ったところには西明寺(さいみょうじ)があります。西明寺からさらに清滝川下流沿いにおよそ15分歩いたところに神護寺があります。


