高瀬川

満開となった桜の下を流れる高瀬川
満開となった桜の下を流れる高瀬川
高瀬川沿いには桜や柳が植えてあり、京情緒を醸し出す大きな要素となっています。
桜の満開の頃にもなると、高瀬川を背景にカメラのシャッターを押す人の姿があちらこちらで目に入ります。
写真では高瀬川(写真奥が上流)を中心に、右側が木屋町通(きやまちどおり)、左側が西木屋町通です。
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「高瀬川」という名の川は全国にたくさんあります。その中で、京都市中を流れる高瀬川は、嵯峨出身の豪商として知られた角倉了以(すみのくらりょうい)が、その東を流れる鴨川の水を利用して開いた運河として造ったもので、この運河を高瀬舟が通じたことから高瀬川と呼ばれるようになったといいます。

高瀬川は、二条大橋付近から鴨川の水を取り込み、伏見の三栖浜(みすはま)までの南北約10kmを流れており、その開削から実に400年経っています。伏見の三栖浜(みすはま)からは、淀川の三十石船に連繋(れんけい)していたといいます。

「高瀬」ということばに、川底の浅いところ、浅瀬、といった意味があるように、高瀬川は、造られた当時から川の深さは30cmほどで、決して深いとはいえませんが、川巾は約8mで水量は多かったといいます。また、高瀬舟は、その舟底を平たくして、浅い川でも運行できるようにつくられています。

そして、京都に高瀬川がつくられるきっかけとなったのは、大仏殿として知られる、方広寺の再建でした。

方広寺大仏殿の再建

高瀬川一之船入
高瀬川一之船入
高瀬川の水運の起点(京都市中京区木屋町通二条下る)となっていた所です。
「船入」とは船荷の積み卸しをする船溜りで、船の方向転換の場所ともなっていた所です。写真に写っている高瀬舟の背後あたりから右側に入ったところが開けています。
この一之船入と同じようなものが、ここ二条から四條まで等間隔に全部で九つ設けられていたといいます。現在では、この「一之船入」を除き、すべて埋め立てられていて見ることはできません。
この一之船入は、江戸時代における交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されています。

方広寺は、豊臣秀吉が奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、木食応其(もくじきおうご)を開山として天正(てんしょう)14年(1586)に大仏殿と大仏の造営を開始した天台宗山門派の寺院です。文禄(ぶんろく)4年(1595)、大仏殿がほぼ完成すると、高さ約19メートルとされる木製の金漆塗坐像の大仏が安置されました。 しかし、翌年、慶長(けいちょう)元年(1596)に大地震が発生したことから、開眼前の大仏は倒壊してしまったといいます。

その後、秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぎ、今度は銅製による大仏の再建を行いましたが、慶長7年(1602)11月、鋳物師(いもじ)の過失から仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上してしまいます。

そして3度目の慶長13年(1608)10月、再び大仏殿と大仏の再建が企図されました。この企画は徳川家康が豊臣家の莫大な金銀財宝を費消させて、その勢力をそぐことの意図があったと考えられているものです。大仏殿の再建は慶長15年(1610)から行われ、大仏殿と銅製の大仏は慶長17年(1612)に完成しています。

この3度目の方広寺の再建において、過去に、京都の西を流れる大堰川(おおいがわ。嵐山付近を流れる桂川の別称。)開掘や、富士川・天龍川等の開削では徳川家康に命じられて手掛けたことのある角倉了以が資材輸送を命じられたのでした。

巨木とされるような大きな材木の運搬に際しては、陸路ではとても運びきれないため、慶長15年、角倉了以は、伏見から五条と七条のほぼ中間辺りに位置する大仏殿まで、鴨川の水路を整備して運河を設け、水に浮かべて材木輸送を行うという手法をとっています。

その後、角倉了以は幕府に願い出て、大仏殿の所から更に上流の二条まで鴨川運河を延長させました。

木屋町通
木屋町通
高瀬川が舟運の担い手として利用された頃は、高瀬舟が運んでくる材木が多かったことから、その川岸には、材木屋とその倉庫が目立ったといいます。高瀬川の東側を沿うように南北に通る木屋町通(きやまちどおり)の「木屋町」の名はここに由来しているといいます。
今日、日中は人通りの多いこの木屋町通も、朝少し早い時間帯にやってくると静けさの中を流れる高瀬川の流れの音も心地よく、京情緒に浸ることができます。
この通りのすぐ東側(写真右側)には鴨川が流れ、西側には京都市内のメイン通りの一つである河原町通が並行しています。

ところで、角倉了以がこの鴨川運河に対して、改めて新しい運河をつくろうと考えたのは、ふだんは静かに流れている鴨川もひとたび大雨ともなると、暴れ川となって氾濫することから、下流に設けた運河の施設がひとたまりもなく押し流され、甚大な被害を被ることになる、と考えたことからでした。こうして角倉了以は慶長16年(1611)、幕府に申請して、洪水の影響を極力避けることができる運河の開削を願い出たのでした。

この結果出来上がったのが高瀬川で、幕府への申請から3年後の慶長19年(1614)のことでした。 これによって舟運を利用した大坂と京を結ぶ経済の大動脈が出来上がります。

高瀬川の開発には、角倉了以が7万5千両(参考:1両≒10万円〜20万円)もの私財を費やしたとされますが、運河航行には通行料を徴収していて、これによって年々得られる収入は1万両を超えたともされ、その経済的利益は莫大であったようです。

高瀬川が完成した慶長19年の7月12日、角倉了以はその完成を見届けるかのように61才の生涯を閉じています。

ところでこの年、慶長19年の4月には、方広寺の梵鐘が完成しましたが、同年7月にはその銘文に問題があるとした鐘銘(しょうめい)事件が起きました。その結果同年10月には大坂冬の陣が起こることになります。

どのようにして荷を運んだのか

復元された高瀬舟
復元された高瀬舟
高瀬舟は、浅い河川も航行できるようにつくられた底の平たい舟で、巾2m、長さ13mほどの15石積(2.25トン)です。盛時には、百数十艘が行き交い、大阪などからの物資を運び入れたといいます。写真の高瀬舟には酒樽・米俵・炭俵が積まれています。
森鴎外の小説「高瀬舟」はこの高瀬川を舞台にしたもので、ここを運行していた高瀬舟をモデルにしています。

拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)〜高瀬川〜」を見ますと荷を運んでいる当時の様子をうかがい知ることができます。「拾遺都名所図会」は、江戸時代後期の京都及び山城国を記した地誌「都名所図会」が安永(あんえい)9年(1780)に刊行されたところ、好評だったことからその続編として天明(てんめい)7年(1787)に刊行されたものです。

この絵には、伏見の三栖浜(みすはま)から京都の二条を目指して高瀬川を遡っている様子が描かれています。

先ず、大坂から淀川を遡ってきた三十石船などの積荷は、その日の夜のうちに十五石積の高瀬舟に積み替えられます。高瀬舟は15、6隻が一つの船団となって数珠(じゅず)つなぎに、その船尾と船首が互いに棕櫚縄(しゅろなわ)でつながれて一晩そのまま留め置かれます。こうした船団が何組もつくられたといいます。

夜が明けると、高瀬舟の集団は、二条を目指し上流へ向かって出発します。伏見の三栖浜(みすはま)から京都の二条までの上(のぼ)りには、舟にくくりつけられた曳き綱を曳き子が曳いて川を遡って行くのです。途中、必要に応じて曳き子を雇い入れていったようです。

高瀬川の両岸には曳き子が通る為の道が設けられています。高瀬川に架けられた橋は、舟の荷物が橋桁にあたらぬように、また舟を曳く船頭たちがくぐれるように、高くつくられています。

こうして京の町へ諸物資を毎日のように運び上げていくのです。

先の「拾遺都名所図会」にはこのような様子が描かれています。この絵の左下には、川で洗濯する様子も描かれています。

高瀬川は多量の物資を運ぶ運河として造られながらも、住民生活の中に溶け込んで貢献している様子がうかがえます。

下りの舟は、大体夕方一回と決まっていたようで、主に京の産物を積み込み、船頭と一緒に曳き子も舟に乗り、上(のぼ)りと違って互いの舟をつなぐこともなく、別々に、棹(さお)で舵(かじ)をとって滑るように下っていったといいます。

新たな景観として

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幕末の動乱期から明治初期にかけて、尊王攘夷を称える多くの志士たちがこの高瀬川界隈に潜んだことから、この辺りでは数々の事件が起こっています。そのため、木屋町通を歩いているとあちこちに立てられた潜居跡や事跡の碑が目に入って来ます。
(写真左)
「佐久間象山・大村益次郎遭難」の碑
佐久間象山(さくましょうざん)は、元治元年(げんじがんねん)(1864)、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に招かれて上洛したおり、開国論を唱えて公武合体に努めたことから、同年7月11日三条木屋町で、尊皇攘夷派の志士に襲われ惨殺されました。
一方、大村益次郎(おおむらますじろう)は、兵制を中心とした変革や帯刀禁止などを唱えていたことから、明治2年(1869)9月4日、三条木屋町にて反対派士族に襲われ重傷を負い、同年敗血症で死去しました。
(写真右)
「此附近 坂本龍馬 妻 お龍 独身時代 寓居跡」の碑

高瀬川の開通から280年に亘って二条・伏見間の水運を担ってきた高瀬川でしたが、明治27年(1894年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると、高瀬川を通る物資輸送量は次第に減少し、遂に大正9年(1920年)、高瀬川の水運は廃止されることになりました。運河が開通して306年が経っていました。

更には、明治28年(1895)、高瀬川の西側を南北に通る河原町通の二条〜五条間を日本最初のチンチン電車が通るようになったことから、それまで広かった川幅など高瀬川の川岸が整備されています。

現在では、京都市中心部の三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっていますが、環境が整備されていることから依然としてその清流は絶えることなく、近代都市の新たな景観として、人々の憩いの場所となっています。

高瀬川沿いは桜の名所ともなっていて、訪れた人の目を引き付けています。また毎年桜のライトアップも行われています。

ライトアップに備えて
ライトアップに備えて
高瀬川は浅い為、直接照明機器を川の中に配置して照らしだします。
写真右の通りは木屋町通です。

【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 高瀬川
  2. 一之船入
  3. 鴨川
  4. 河原町通
  5. 先斗町(ぽんとちょう)
  6. 先斗町歌舞練場
  7. 木屋町通
  8. 西木屋町通
  9. 祇園新橋(※1)
  10. 巽橋(たつみばし)(※1)
  11. 花見小路通(北側)(※1)
  12. 花見小路通(南側)(※1)
  13. 八坂神社(※1)
  14. 方広寺(※2)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の「近隣観光マップ」をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 16:26 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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