厭離庵

厭離庵〜庭園の紅葉〜
厭離庵〜庭園の紅葉〜
ともすれば通り過ぎてしまいそうな、通りに面した狭い路地から入ってくると、その奥ではえも言われぬ紅葉の風情が繰り広げられています。
(2005.12.1撮影)

厭離庵(えんりあん)は、小倉山(おぐらやま)の麓、西嵯峨にあり、鎌倉時代初期の公家で著名な歌人としても知られる藤原定家(ふじわらのさだいえ。ていか。)が所有していた山荘に含まれていた旧跡で、百人一首を編纂したところとしても伝えられています。

この百人一首は、一首一首を別々の色紙(しきし)に書いて襖などに貼るための色紙形(しきしがた)とされたことから、当初「小倉(椋)山荘色紙和歌」、「嵯峨山荘色紙和歌」とか「小倉色紙」などと呼ばれたといいますが、後に、藤原定家が小倉山の麓の山荘で編纂したことから「小倉百人一首」と呼ばれるようになったといいます。今日において通常、百人一首といえばこの藤原定家編纂の小倉百人一首を指すまでになっています。

厭離庵が一般に公開されるのは紅葉の時期の限られた期間だけです。一般住宅に挟まれた狭い路地奥にあり、庭園は歌作りの風情が漂う、隠れた紅葉の名所といえます。

百人一首縁起

小倉山
小倉山
写真中央の、お椀を伏せたように丸い形をした山が小倉山です。
小倉山の手前に見えるのは、大堰川(おおいがわ)(桂川)に架かる渡月橋です。

「厭離」とは仏教の言葉で、けがれた現世を嫌い(厭(いと)い)離れること、と説明されています。今日紅葉の時期に公開される厭離庵を訪ねてみると、敷地は決して広いとは言えませんが、それはもう日頃の喧騒を一瞬のうちに吹き飛ばして忘れさせてくれるほどの美しさが庭園の紅葉景色とでもいうべき一点に凝縮されているようです。

さて、藤原定家は38歳前後に嵯峨に山荘を所有するようになったとみられ、二尊院と清涼寺(嵯峨釈迦堂)の間に位置する、現在の嵯峨二尊院門前北中院町(ちゅういんちょう)(【近隣観光マップ】参照)の辺りに、東京ドームのおよそ6割程の広さをもっていたとも言われています。その後、藤原定家の子息為家(ためいえ)の妻の父、宇都宮入道蓮生頼綱(れんしょうよりつな)が嵯峨の地に山荘を建てるといったようなことから、その敷地の東半分程を藤原定家から譲り受けるなりして山荘を建てたのではないかと考えられています。頼綱は鎌倉前期の武将で、下野国(しもつけのくに。現在の栃木県。)宇都宮の領主でした。頼綱は和歌に秀でていたことから、藤原定家と親交もある歌仲間でした。そして厭離庵は、頼綱が中院に建てた中院山荘の北西の位置に当たっていたと見られています。

嘉禎(かてい)元年(1235)、藤原定家は4月13日より5月5日まで静養のため、嵯峨の山荘に入っています。この時、藤原定家74歳。2年前の天福(てんぷく)元年(1233)の10月には出家しています。また、藤原定家は病気をいくつもかかえていたようです。静養のために入ったこの嵯峨の山荘は、元は藤原定家が所有していた山荘でしたが、今では藤原定家の家司(けいし)を務めている賢寂に譲っていて、所有者がかわっています。

この静養期間中には、子息為家を始め様々の人がここへ訪ねてきています。藤原定家が長年に亘って書き綴った漢文による日記『明月記(めいげつき)』(19歳に達した治承(じしょう)4年(1180)以降,嘉禎元年(1235)12月30日までの56年間分が伝存。子息為家の譲状(ゆずりじょう)によると、仁治(にんじ)2年(1241)の藤原定家の最晩年まで書き綴られたとされています。)によると、4月17日、19日、22日、24日、28日、30日、5月2日、3日と、人の出入りがあったようです。

ただ中には次のような記述もあります。

嘉禎元年四月十六日条

朝陽快晴、午ノ時許リニ印圓法印被ル来訪。稱シテ病重シト謁セ。

朝陽快晴。午の時許(ばか)りに印円法印来訪さる。病(やまい)重しと称して謁(えっ)せず。

4月16日の正午頃に、藤原定家が好きでなかった印圓法印が訪れて来たこともありましたが、そのような時には病重し、と称して会わないというようなこともあったようです。

そんな中の5月1日、頼綱が歌会を催すとのことでその招きにより、藤原定家は頼綱の山荘へ輿にのって訪れます。「輿にのって」といっても、隣同士ということもあってそれ程離れていたわけではないようですが、中風を患っていたようで身体の事を考えてのことかと思われます。

そして5月も末になった27日の藤原定家の日記(『明月記』)に次のような記述があります。

嘉禎元年五月二十七日条

・・・予本自不知ラ書ク文字ヲ事ヲ、嵯峨中院ノ障子ノ色紙形、故ニ予ニ可キ書ク由、彼ノ入道懇切ナリ。雖モ極メテ見苦シキ事ト、憖ニ染メテ筆ヲ送ル之ヲ、古来ノ人ノ歌各一首、自天智天皇以来及ブ家隆雅経ニ。入リ夜ニ金吾ニ示シ送ル。・・・

・・・予、本(もと)より文字を書く事を知らず。嵯峨中院の障子の色紙形(しきしがた)、故(ことさら)に予に書く可(べ)き由(よし)、彼(か)の入道懇切なり。極めて見苦しき事と雖(いへど)も、憖(なまじひ)に筆を染めて之(これ)を送る。古来の人の歌、各(おのおの)一首。天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ。夜に入り金吾(きんご)に示し送る。・・・

これは藤原定家が『百人一首』について書き記した文章とされているものです。

平安時代中期から鎌倉時代にかけて、屏風、襖などに描かれた風景画などの上方などの空いているところに、その風景にちなむ和歌を書いた色紙(しきし)を貼って、絵には描かれていない余情を添える、といったようなことが盛んに行われていました。このように用いられた色紙は、特に「色紙形(しきしがた)」と呼ばれたのでした。

頼綱もいわば流行にのるつもりで、嵯峨中院に所有した自分の山荘の一室の襖にでも和歌をしたためた色紙を是非貼りたいと思ったのでしょう。古来の歌人の歌を一首ずつしたためた色紙(しきし)を、揮毫(きごう)してもらえまいか、と藤原定家に懇願してきました。藤原定家は、撰歌はともかく、揮毫ともなると自分は書家ではないからきっと見苦しいのでは、と辞退しようとしましたが、頼綱のたっての願いということもあって承諾したのでした。

こうして飛鳥時代の天智天皇(てんじてんのう)から、先の『新古今和歌集』の撰者として共に編纂に当たった藤原家隆(ふじわらのいえたか)・飛鳥井雅経(あすかいまさつね。藤原雅経)に至るまで一人一首ずつ撰んで、頼綱の許に書き送ったのでした。これが原型となり、小倉山麓の山荘で編纂したことから後に『小倉百人一首』と呼ばれて広く知られるようになります。

この編纂の折に藤原定家が使った山荘がこの厭離庵と伝えられているのです。

なお、厭離庵という呼称は、藤原定家在世の頃からあったわけではなく、この呼び名は時代を下った江戸時代に与えられることになります。

厭離庵として

真紅の楓
真紅の楓
庭園内のどこを見ても見事な色づきを見せる紅葉景色は、人々の目と心をあっという間にとらえてはなしません。
(2005.12.1撮影)

その後この山荘は久しく荒廃していましたが、冷泉家(れいぜいけ)が修復し、江戸時代前期、霊元法皇(1654〜1732)から、「欣求浄土(ごんぐじょうど)、厭離穢土(えんりえど)」より「厭離庵」の寺号を賜ったといいます。そして安永(あんえい)元年(1772)より、江戸中期の禅僧で近世臨済禅中興の祖と称される白隠(はくいん)禅師の高弟霊源禅師を開山として迎え、臨済宗天龍寺派となりました。その後、男僧が4代続いたとされますが、明治維新後は再び荒れたといいます。

そして明治43年(1910)、貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡(くり)を建立し、剣客としても知られた幕末維新期の政治家で、徳川最後の第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)にも明治天皇にも誠実をもって応えたことで知られる山岡鉄舟(てっしゅう)の娘素心尼が住職に就くことになりました。これより以後は尼寺として今日に至っています。

写真集写真集(14枚の写真が表示されます。)
写真 
厭離庵への入口〜1〜
二尊院から清凉寺(嵯峨釈迦堂)へ向かう途中の道沿いに厭離庵への入口があります。写真では、道路沿いの左手奥に見える緑の垣根のすぐ手前に細長い石碑のようなものが見えますが、ここに入口があります。
写真の左手前に見えるのは「中院(ちゅういん)山荘跡」の案内板で、鎌倉時代の始め、この辺りに僧蓮生(頼綱)の中院山荘があったことを伝えています。元はこの道路の左側一帯に藤原定家の所有した山荘があったと考えられています。
静かな通りで、この道を写真奥の方へ歩いて行くと3分程で清凉寺(嵯峨釈迦堂)に着きます。
藤原定家は、嘉禎(かてい)元年(1235)4月13日からの静養を終えた5月5日、快晴の日、この道を輿に乗って栖霞寺(せいかじ。清凉寺の前身。)に参り、京の自宅へと帰っています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2
山号 如意山
宗派 臨済宗天竜寺派
本尊 如意輪観音
創建年 江戸時代前期
開山 霊源禅師

【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 「中院山荘跡」案内板
  2. 入口
  3. 本堂
  4. 時雨亭
  5. 藤原為家の墓
  6. 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
  7. 二尊院
  8. 小倉山(※1)
  9. 渡月橋(※2)
  10. 大堰川(桂川)(※2)
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図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
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近隣の観光スポット情報

厭離庵があるこの地域は嵯峨野として広く知られ、数多くの名所・旧跡・寺社が点在しています。

posted by はんなり・ジャーニー at 18:09 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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