相国寺

法堂(本堂)
法堂(本堂)
現在の法堂(はっとう)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により5回目の再建になるもので、桃山時代にできた禅宗様建築の最大最優作と評価されています。400年を超える歴史を持ち、現存の法堂では日本最古のものとされ、正面28.72m、側面22.80mにして威容を誇っています。無畏堂(むいどう)とも呼ばれます。
国指定重要文化財。

相国寺(しょうこくじ)は、永徳(えいとく)2年(1382)、室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が開基として建立を開始し、10年の歳月をかけて明徳(めいとく)3年(1392)に完成したもので、夢窓疎石(むそうそせき)を追請(ついしょう)開山としています。

正称は万年山相国承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)で、金閣寺として知られる鹿苑寺(ろくおんじ)、銀閣寺として知られる慈照寺(じしょうじ)を山外塔頭とするなど、末寺100余ヵ寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山です。

相国寺の境内は出入り自由で、時として地元の人たちが行き交う通り道にもなっています。金閣寺、銀閣寺が観光客で賑わっている一方、本山である相国寺は歴史ある有名寺院であるにも関わらず、その広い境内に人影は少なく、静寂さが漂う貴重な存在になっていると言えるかもしれません。

足利義満

放生池
放生池
総門を入ると左手にはこの放生池(ほうじょうち)が広がっていて、写真に見える天界橋が架かっています。
相国寺は京都御所に隣接する地にあり、この橋が両者の境界線の役目をはたしているところから「天界」と名付けられたといいます。

建武3年(1336)、京都に武家政権を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)を祖父にもつ義満は、幼名を春王といいました。貞治(じょうじ)5年(1366)、9歳の時、父の室町幕府第2代将軍足利義詮(よしあきら)が名字を禁裏に所望したことで、廷臣から「義満」と「尊義」の二つが提示されました。これに対して「義満」とする返答をしたことを受けて、時の後光厳(ごこうごん)天皇が宸筆でこの名字を賜ったといいます。

貞治(じょうじ)6年(1367)9月、義満は天龍寺に参詣した折、住持の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)より仏弟子として受衣しています。10歳の義満と57歳の春屋妙葩との始めての出会いでした。

義満の前に尊氏、義詮と2人の征夷大将軍が出たとはいえ、南北朝の分裂が続き、相次ぐ戦乱と守護大名たちの離反等が少年・義満を苦しめていた中での春屋妙葩との出会いで、義満の精神的支柱となってくれたことには心強いものがありました。

以後、義満の春屋妙葩に対する信頼は厚いものになっていきます。義満は熱心な求道者となり、座禅修行に励んだといいます。

同年12月に父の義詮が病により死去すると、義満は10才で家督を継ぎ、翌年の応安(おうあん)元年(1368)12月、11歳にして第3代征夷大将軍に任官しました。

相国寺建立

ひっそりとした境内
ひっそりとした境内
境内はひっそりと静まりかえり、白壁が清浄感を醸し出しています。

義満の禅的讃仰の純真な気持ちの発現が相国寺の創立へとつながっていきます。

永徳2年(1382)9月29日、嵯峨の臨川寺(りんせんじ)の塔頭(たっちゅう)三会院(さんねいん)において、足利尊氏の帰依を受けていた夢窓疎石の法要が営まれました。それに参詣した義満は、春屋妙葩とその弟(おとうと)弟子の義堂周信(ぎどうしゅうしん)の二人を招き寄せ、一小寺を建立しようと考えていることについて相談しました。春屋妙葩と義堂周信の二人は快く賛同の意を表しました。

さらに10月3日、義満は再び春屋妙葩と義堂周信を呼び、造寺のことを後小松天皇に奏請して勅許を仰ぐ必要があり、寺号を定めたいが良い名はないだろうか、と二人にもちかけます。

この年(永徳2年)の正月、義満は左大臣に昇進していました。このことから、春屋妙葩が、左大臣は中国では「相国」ということから、相国寺としてはいかかが、と提案しました。さらに義堂周信が、新しく寺を建立するにあたり天皇に奏上して天子の思し召しを承わるということから、承天相国寺としてはどうでしょうか、ということとなって、一応寺号が定まったのでした。

次いで10月21日、義満は義堂周信と新しい寺の規模、僧の人数などについて相談します。

義堂周信は鎌倉の建長寺、円覚寺、京都の南禅寺、天龍寺などいずれも1000人以上の僧を入れた大規模な例を挙げて、大叢林(そうりん)を建立されたらいかがですか、と助言したのでした。

義満はこの助言に励まされて、10月29日、10年の歳月を費やして大伽藍となる相国寺の建立に着手したのでした。義満は開山に春屋妙葩を考えていましたが、春屋妙葩のたっての願いから、この世を去って既に30年の歳月が流れるも、春屋妙葩の師であった夢窓疎石を追請して開山としています。

そして、翌永徳3年(1383)12月、春屋妙葩自らは、第2世の新住持として相国寺に入っています。

翌年の至徳(しとく)元年(1384)3月には、山号を「万年山(まんねんざん)」、寺号を「相国承天(しょうこくじょうてん)」と定められました。

五山に列位

法堂玄関廊
法堂玄関廊
法堂(写真左端)の背後(北側)には付属の玄関廊が延びて方丈へとつながっています。方丈は保存修理工事中です。

ところで、義満は、既に定まっているとはいえ五山に相国寺を是非とも列したいと思い、思案に暮れていました。そこへ義堂周信から「唐には五山の上というのがあり、天皇の建立である南禅寺を五山の上位に列すれば解決するのでは」との進言があったのでした。南禅寺が亀山天皇の離宮を禅寺に改めたものであることに着眼したものだったのです。

そこで義満は、至徳3年(1386)、五山の制の改革を行っています。

7月、相国寺が五山第二位に列せられます。

8月、京・鎌倉五山の位次を定めるなどの改革を行います。即ち、一本化されていた「五山」を「京都五山」と「鎌倉五山」に分割し、南禅寺を両五山の上に別格として置いて「五山之上」としています。そして、僧録司(そうろくし)制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行えるようにしたのでした。

なお、応永(おうえい)8年(1401)、義満の意向により相国寺を京都五山の第一位とし、天龍寺を第二位とする順位の入れ替えが行われています。義満の相国寺に対する思いは人一倍強かったことがうかがえます。しかし、応永15年(1408)の義満の死後から2年が経った、応永17年(1410)には元に戻されました。

災難と復興

林光院
林光院
林光院は、義満の第二子、義嗣(よしつぐ。林光院殿亜相考山大居士。)の菩提を弔うため、夢窓国師を追請開山として京都二条西ノ京に創建されました。
義嗣は父・義満に溺愛されていましたが、義満の死後、兄の室町幕府第4代将軍義持(よしもち)との間に不信を生じたことから捕らえられ、応永25年(1418)1月、25年の短い命を終えたのでした。
その後、豊臣秀吉の命により明・韓通行使となって貢献した雲叔(うんしゅく)和尚の功に報いるべく、秀吉は林光院を独住地とし、相国寺山内に移設しました。

新しい木の香りがまだ漂う完成2年後の応永元年(1394)9月、本坊内部に置かれていた寮舎からの出火により、義満が10年の歳月と精根を傾けた相国寺が早くもことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまいます。

相国寺第6世住持を務めた絶海中津(ぜっかいちゅうしん)は急ぎ駆けつけ、紅蓮の炎の中で焼け落ちてゆく相国寺をただ茫然と見ることだけしかできなかった義満に、昔、インドの祇園精舎や中国の径山が罹災するも再建・復興された話を聞かせ、元気づけようとしました。その話に勇気づけられた義満は、直ちに再建にのりだしたのでした。

その後も内部からの出火に加え、応仁の乱、天文の乱といった兵火によって全てを失うといったような度重なる災難にもあいました。

しかし、豊臣、徳川氏の力で復興が行われるようになります。現存する法堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により建造されたもので、すでに400年の歴史を刻むこの法堂は現存する法堂では日本最古のものとして、今日に至っています。

相国寺が生んだ水墨画の大家

鐘楼「洪音楼」
鐘楼「洪音楼」
「鐘楼」(しゅろう。しょうろう。)といえば、普通、内向きに傾いた4本の柱で鐘を吊っているものを思い浮かべますが、これは鐘楼の下の方が城の城壁の石垣のようにすそ広がりとなった形をした「袴腰(はかまごし)付鐘楼」といわれます。楼上には梵鐘が吊られ、相国寺のこの鐘楼は袴腰付のものでは大型のものです。江戸時代初期の寛永6年(1629)の造立とされます。
右下には宗旦稲荷社の鳥居が小さく見えています。
京都府指定有形文化財。

相国寺は水墨画とも深い関係があります。

水墨画の確立者といわれる画僧・如拙(じょせつ)を輩出しています。如拙は、室町幕府第4代将軍足利義持の命により、瓢箪(ひょうたん)でナマズをおさえるという禅の公案を描いた「瓢鮎図(ひょうねんず)」(妙心寺塔頭退蔵院所蔵・国宝)の作品で知られています。

その門下には、同じく相国寺画僧で、水墨画を大成した周文(しゅうぶん)が出ています。さらに周文の門下からは、相国寺で修業した雪舟(せっしゅう)や小栗宗湛(おぐりそうたん)が出ています。

写真集写真集(19枚の写真が表示されます。)
写真 
今出川御門交差点より
写真手前を左右にはしる今出川通の今出川御門交差点より北を臨むと正面奥の方に相国寺の総門が小さく見えます。
総門に向かって左側に見えるのは同志社大学の建物です。一方、右側に見えるのは同志社女子大学の建物です。
ちなみに、この今出川通の手前(南側)は京都御苑です。京都御苑の中には京都御所があります。京都御所は春と秋に一般公開されています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市上京区今出川通烏丸東入上る相国寺門前町701
山号 万年山
宗派 臨済宗相国寺派
本尊 釈迦如来
寺格 大本山
創建年 永徳2年(1382)
開基 足利義満
開山 夢窓疎石
文化財
国宝
無学祖元墨蹟、玳玻天目茶碗(たいひてんもくちゃわん)
重要文化財
法堂、紙本墨書慈円僧正願文(じえんそうじょうがんもん)、紙本墨画猿猴(えんこう)竹林図、異国通船朱印状ほか

【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 総門
  2. 勅使門
  3. 放生池
  4. 天界橋
  5. 三門址
  6. 仏殿址
  7. 法堂
  8. 開山堂
  9. 方丈
  10. 庫裏「香積院」
  11. 書院
  12. 普広院
  13. 養源院
  14. 経蔵
  15. 後水尾帝歯髪塚
  16. 鎮守
  17. 鐘楼「天響楼」
  18. 浴室
  19. 大光明寺
  20. 玉龍院
  21. 光源院
  22. 林光院
  23. 弁天社
  24. 鐘楼「洪音楼」
  25. 宗旦稲荷社
  26. 承天閣美術館
  27. 同志社大学
  28. 同志社女子大学
  29. 今出川通
  30. 今出川御門
  31. 京都御苑
  32. 京都御所(※1)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

今出川通(上記【概観図】中の番号29)を東へずっと行った、その突き当たりに銀閣寺(慈照寺)があります。銀閣寺の前から出ている哲学の道に沿って南へ行くと、法然院永観堂(禅林寺)、南禅寺などを訪ねることができます。

一方、今出川通を西へ行き、南北に通っている西大路通にでて北へ行くと金閣寺(鹿苑寺)を訪ねることができます。

【参考】
上記【概観図】中の−(マイナスボタン)を3回クリックすると、右端に銀閣寺が、左端に金閣寺が表示されます。
posted by はんなり・ジャーニー at 23:05 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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