慈照寺(銀閣寺)
〜世界遺産〜

観音殿(銀閣)
観音殿(銀閣)
今日「銀閣」の名で知られるこの建物は「観音殿(かんのんでん)」として長享(ちょうきょう)3年(1489)2月に上棟され、翌年の延徳(えんとく)2年(1490)に完成しました(注・長享3年8月に改元されて延徳元年となっています。)。これが「銀閣」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからのようです。江戸時代となって半世紀以上が経った万治(まんじ)元年(1658)に刊行された『洛陽名所集』に「慈照寺(じせうじ)」と題して、
「此寺は浄土寺村の東のかた也。義政将軍御菩提所也。院の假庭(つくり)に閣有。銀箔(ぎんぱく)にて彩(さい)しければ銀閣寺とも云なり。北山(注・鹿苑寺(金閣寺))は金閣にことならふとぞ」
との記載があります。
ところで、平成19年(2007)に行われた調査によると、観音殿(銀閣)に銀箔が押された痕跡はなかったことが確かめられています。ただ、金箔を貼った鹿苑寺金閣に対し、銀閣に銀箔を押す計画があったかどうか、確かなことは分かっていません。
観音殿(銀閣)は、心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造住宅風の下層と、潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる、東向きの観音菩薩座像を祀る禅宗様(唐様(からよう))仏殿を配した上層の二層から成る構造となっています。上層の板壁には3つの花頭窓(かとうまど)(火灯窓)がしつらえてあるのが見えます。ちなみに東の方角は、上層の花頭窓の見える写真左側の方になります。
写真左下には錦鏡池(きんきょうち)が見えます。
国宝。

銀閣寺は、室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が京の都東山(ひがしやま)の一郭に山荘として造営した東山殿(ひがしやまどの)が、義政の死後遺命により禅寺とされ改名された「東山慈照寺」(とうざんじしょうじ)の通称として広く知られています。

祖父・第3代将軍足利義満(よしみつ)の造営による北山鹿苑寺(ほくざんろくおんじ)(金閣寺)とともに室町文化を伝えるものとして今日に受け継がれています。

将軍としての足利義政

銀沙灘と向月台
銀沙灘と向月台
観月を目的に、銀沙灘(ぎんしゃだん)は月の光を反射させ、向月台(こうげつだい)はこの上に坐して月が昇るのを待った、との話がありますが、これは後世に作られたものと見られています。ちなみに銀沙灘と向月台ができたのは、義政亡きあとの安土桃山時代あたりではないか、と見られています。
江戸時代初期の武将で、徳川家康に仕えた宮城丹波守豊盛(みやぎたんばのかみとよもり)が慈照寺の再建奉行として補修を行った際に、池の底さらいですくい上げた砂を盛り上げたのが始まりと伝えられています。

祖父・義満は征夷大将軍にして太政大臣という公武最高位にまでのぼりつめ、その権勢を誇って煌(きら)びやかな金閣寺を残しました。その政治的手腕もさることながら、北山文化の草創という文化面においても偉大な業績を残しました。

しかし、義満亡きあとは次第に室町将軍の権威もその陰りを帯びて行くことになります。

義政が将軍職を継いだ時は既に諸大名は将軍のいうことも聞かなくなっていました。当初は将軍家盛時の威光を取り戻そうと意欲を燃やしていた義政でしたが、次第に自分に政治的能力のなさを痛感していくことになります。

当時のある禅僧は義政を指して「温恭和順(おんきょうわじゅん)」の徳があると、義政の美点を言い表していますが、武家政権の長に必要とされる武勇の気質には欠けていた、とも見られています。

康正(こうしょう)元年(1455)8月、義政は日野富子(ひのとみこ)を正室に迎えます。しかし、後継ぎに恵まれなかったことから、当時天台宗浄土寺(現在の銀閣寺のある地)で僧籍にあった異母弟の義尋(ぎじん/よしひろ。後の足利義視(よしみ)。)を還俗(げんぞく)させ将軍職を譲ろうとしましたが、義尋は義政の申し出を再三辞退したといいます。しかし遂には義政が義尋に将軍職を譲る、との約束を受けることになります。

ところが、日野富子が懐妊したことから、彼女は生まれてくる我が子(後の足利義尚(よしひさ))に将軍職を継がせようと画策して山名持豊(宗全)(やまなもちとよ(そうぜん))と手を組みます。

一方義視を擁護する立場として、龍安寺を創建したことでも知られる細川勝元(ほそかわかつもと)がつきます。

応仁元年(1467)、ここに、他の諸要因も複雑に絡み合って将軍職を巡っての争いが起きることになります。京の都を焦土と化した応仁・文明の乱の始まりです。ちなみに、細川勝元は、山名持豊の娘婿で、互いの屋敷はほんの数分で歩いて行ける程の距離にあったといいます。(戦陣が置かれたところは別になります。)

応仁・文明の乱が始まって6年後の文明(ぶんめい)5年(1473)、4月15日に山名持豊が世を去り、また6月6日には細川勝元も世を去ったことから、義政は同年の12月19日に将軍職を息子の義尚へ譲って政治から身を引いています。が、その後4年もの間、京の都では戦乱の状況が続くことになります。

将軍職にあった時の義政は山名氏、細川氏いずれにも与(くみ)せず、紛争の解決に向けた有効な手立てを打つこともできないまま無益な時が過ぎることになります。応仁・文明の乱は、文明9年(1477)にやっと終ることになりますが、勝者も敗者もなく、都の庶民が安心して生活を送れるように護られることもないまま、ただ破壊が繰り返されただけの10年もの歳月が流れていました。

文化人としての足利義政

東求堂
東求堂
義政が観音殿(銀閣)と共に格別に思いを込めたのが、庭園とこの持仏堂の東求堂(とうぐどう)でした。義政が傾倒していた西芳寺(さいほうじ)(苔寺(こけでら))にあった西来堂(さいらいどう)を模して建てられたとされています。
「東求」の名は、『六祖壇経(ろくそだんきょう)』「浄土は目前にある」からの一節
「東方人造罪、念仏求生西方。」
(東方の人は罪を造れば、仏を念じて西方に生まれんことを求む)
から付けられたとされています。
文明18年(1486)の建立。
国宝。

時の為政者としての義政は、成果を得ることはなかったといえます。

その反面、義政には祖父義満依頼代々受け継がれてきた卓越した才能がありました。それは、文化人としての才能でした。

学問、芸術に優れていた義政の趣味は、詩文、和歌、連歌、絵画、能楽をはじめ茶の湯にまで及んでいたといいます。なかでも建築、作庭は、かつての応仁・文明の乱の中で飢饉などに苦しむ民衆をよそに、自らの格別な関心と美意識への追求を断行したほどでした。

応仁・文明の乱も終わって世情も落ち着いてくると、義政は、大乱勃発の2年前の寛正(かんしょう)6年(1465)、一度は山荘造営に向けて着手しようとしたものの大乱が起こったことから中断していた山荘計画の実施に再び着手しだします。山荘の候補地として嵯峨、岩倉などが挙げられていましたが、風光明媚な東山如意ヶ岳(ひがしやまにょいがたけ)の麓で、応仁・文明の乱で焼失し荒廃したままになっていた浄土寺の跡地を選んで、山荘の造営に取りかかります。浄土寺は、かつて義政が自分の後に将軍職を継いで欲しいと頼んだ異母弟の義視が住した寺で、現在の銀閣寺の地にあたります。

こうして文明14年(1482)、義政の晩年の隠居所としての山荘の造営がはじまります。

義政が造営したこの山荘は後土御門(ごつちみかど)天皇から「東山殿」の名を賜ります。

義政は、東山殿の建物・庭の造営に際しては西芳寺を大いに参考にしたといいます。既に義政は、東山殿に先がけること二十年前の寛正3年(1462)、母重子のために、「一木一草木立ニ至ル迄」とされるほどに西芳寺を模して「高倉殿」を造営しています。義政は西芳寺に傾倒していたようです。

西芳寺は、義政が生まれる1世紀ほど前の暦応(りゃくおう)2年(1339)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石(むそうそせき)によって禅苑として中興されました。そして「結構の極」(これ以上のものは望みようもない程の優れた庭園)、「洛陽の奇観」(京の都の中でも飛びぬけて優れた景観)などといわれ、以降全ての庭園の範とされていました。義政は、その西芳寺を特に好んでいて幾度となく訪れていたようです。

西芳寺は、夢想礎石が造営した当時の景観と今日私たちが目にする景観とでは、その様相が全く異なっているといわれていますが(今日では通称、苔寺とも呼ばれるほどに境内は美しい苔が敷き詰められた景観を呈していますが、夢想礎石が手を入れた当時の境内は苔で覆われてはいませんでした)、例えば、慈照寺の観音殿(銀閣)は、西芳寺にあった瑠璃殿(るりでん)を、また東求堂は同じく西芳寺にあった西来堂(さいらいどう)を模しているとみられています。

更に、義政は鹿苑寺(金閣寺)にも参詣し、金閣を見て観音殿(銀閣)造営の参考にしています。

義政は政治的手腕には恵まれませんでしたが、文化面では大きな貢献をすることになります。祖父・義満によって生まれた北山文化に対して、義政が山荘を建てた京都東山の地名から「東山文化」の名で知られていくことになります。

それには義政の人の技能を見る目が高かったこと、そして、技能が高ければ身分にかかわらず採用したことなどが大きく寄与したことの要因の一つとしてとして挙げられます。

例えば、狩野正信(かのうまさのぶ)の採用。狩野正信は後に日本最大の画派狩野派の祖となった人ですが、未だ無名で門閥もなかった狩野正信をとりたてて銀閣寺の襖絵を描かせています。画聖と崇められた雪舟(せっしゅう)が、義政に狩野正信を推薦した時には既に正信が御用を務めていると知って、雪舟は驚いたと伝えられています。義政の新しい才能を見出す眼の高さを窺い知ることのできる逸話です。

もう一つ。身分的には低いとされながらも将軍の側近にあって雑務にかかわる技能集団である同朋衆(どうぼうしゅう)の重用。そのなかの一人で、作庭に高い技能を有した善阿弥。善阿弥が病の床に伏した時、義政は、煎茶や人参湯を与えるなどして重用したといいます。また、「御同朋衆のうちの名人」として重用された能阿弥は絵画や連歌に長け、子の芸阿弥とともに厖大な収集品を選定し「東山御仏(ひがしやまぎょぶつ)」を制定しています。

東山殿の造営が進み、長享3年(1489)2月に観音殿が上棟されます。しかしその11ヶ月後の延徳2年(1490)1月、義政はその完成を見ることなく55歳で世を去ってしまいました。東山殿は、義政の遺命により、本山相国寺、北山鹿苑寺(金閣寺)と同じく夢窓疎石を勧請(かんじょう)開山に禅寺とされ、義政の謚(おくりな)「慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶(きざんどうけい)」から「東山慈照院(とうざんじしょういん)」と名付けられました。

その後、相国寺塔頭大徳院が慈照院と改めて義政の塔所となったことから、翌延徳3年(1491)3月14日、東山慈照院は「東山慈照寺」と改められました。

慈照寺の観音殿(銀閣)、東求堂は、その庭園とともに義政の風雅への強い思いが凝縮した稀有の建築として今日に伝えられています。

写真集写真集(28枚の写真が表示されます。)
写真 
総門
石畳の道を登って最初にくぐるのが総門です。
江戸時代末期頃の建築。
≪関連情報≫
項目 内容
正式名 東山慈照寺(とうざんじしょうじ)
別称 銀閣寺
所在地 京都市左京区銀閣寺町2
山号 東山
宗派 臨済宗相国寺派
本尊 釈迦如来
寺格 相国寺山外塔頭
創建年 延徳2年(1490)
開基 足利義政(謚・慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶)
開山 夢窓疎石(むそうそせき)
文化財
国宝
銀閣、東求堂
重要文化財
癡絶道中墨蹟 無準忌上堂語(ちぜつどうちゅうぼくせき ぶじゅんきじょうどうご)、霊石如芝墨蹟 餞別偈(りんせきにょしぼくせき せんべつげ)
特別史跡、特別名勝
庭園
世界遺産

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 総門
  2. 参道
  3. 銀閣寺垣
  4. 中門
  5. 唐門
  6. 庫裏
  7. 八幡社
  8. 観音殿(銀閣)
  9. 錦鏡池
  10. 仙人洲
  11. 向月台
  12. 銀沙灘
  13. 方丈
  14. 銀閣寺形手水鉢(袈裟形手水鉢)
  15. 弄清亭(ろうせいてい)
  16. 東求堂
  17. 大内石
  18. 千代の槙(樹齢500年の大木)
  19. 洗月泉
  20. 弁財天
  21. お茶の井
  22. 展望所
  23. 哲学の道
  24. 法然院
  25. 白沙村荘(※1)
  26. 大文字山(火床)(※2)。併せて下記「近隣の観光スポット情報」をご覧ください。
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると左側に表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると右側に表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

なお、銀閣寺前から、毎年8月16日に行われる五山送り火で「大」の字が点火される火床のある大文字山(標高466m)まで登ることができます。大文字山は如意ヶ岳の西側に位置しており、大文字山へ登るには幾つかのルートがありますが、送り火の時にも使われる銀閣寺前から登るルート(上記マップ中の番号27→28→29のルート)が最もポピュラーです。途中の登山道は整備されていて、多くの登山客が利用しています。所要時間は片道、およそ1時間前後です。

大文字火床のある所からの眺望は素晴らしく、京の街を一望に見渡すことができます。

大文字山(大文字火床)からの眺望(西の方角を臨みます)
大文字山(大文字火床)からの眺望(西の方角を臨みます)

posted by はんなり・ジャーニー at 21:16 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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