清水寺
〜世界遺産〜

本堂
本堂
こんもりと茂る木々に囲まれた本堂とそこから張り出して錦雲渓の急崖(きゅうがい)にたつ清水の舞台。春は桜、秋は紅葉によく映えます。
国宝。

紫式部が『源氏物語』「夕顔」の巻で、「清水(きよみづ)の方(かた)ぞ光多く見え、人のけはひもしげかりける。」(清水の方角には灯(あか)りがたくさん見えて、人も絶え間なく行き来している様子であった。)と書き、また清少納言が『枕草子』で「さわがしきもの」として、「十八日に、清水(きよみづ)に籠(こも)り合ひたる。」((普通の日でも混雑しているのに、ましてや)十八日(縁日)に清水寺に参籠すること。)と綴った清水寺とその界隈の賑わい。

今日でも多くの学生さんが修学旅行で訪れ、国内外を問わずたくさんの人たちで賑わう清水寺とその界隈。

昔も今も変わらないようです。

南ヲ去(さり)テ北ニ趣(おもむ)ケ

写真集1写真集1(4枚の写真が表示されます。)
写真 
左へ
ここは五条通と東大路通の交差点、東山五条交差点近くです(下記マップ内43番参照)。清水寺へのルートは様々ですが、ここからはこの道標に従って左へ行きます。この道は五条坂で、清水寺まで登りの道となっています。

奈良時代の末、宝亀(ほうき)9年(778)、大和の国の南(現奈良県高市郡高取町(たかいちぐんたかとりちょう))にある子島寺(こじまでら)で、聖(ひじり)の道を求めてひたすら苦行に勤めていた僧・賢心(後に延鎮(えんちん)と改名)の夢に一人の人が現れて「南(奈良)を去って北(京都)へゆけ」と告げたことから話が始まります。

都を見たいと思っていた賢心は、夢で見た通りに北へ行き、淀川まで来たところで一筋の金色の水が流れているのが見えました。金色の水の流れの源を見つけようとして、尋ね求めていくうちに、平安京の東にある山までやって来ました。清水山です。木々が生い茂って昼間でさえなお暗く、道ともいえない道を分け入っていくと、滝がかかっていました。音羽の滝です。賢心は、ここが金色の水の流れの源だとつきとめます。

辺りを見回すと、滝の崖の上に草庵がありました。行ってみるとそこには70歳くらいの白髪の一人の老人が住んでいました。その老人は行叡(ぎょうえい)と名のり、もう200年ここに住んでいるといい、賢心がやって来るのを待っていたと言います。

そして賢心に、「わしは今からさっそく東国へ修行にゆく。おまえはこの清水山の立木で千手観音像を刻んで安置し、わしの帰るのを待て。この草庵の地は堂を建てるところで、前の林の木々は観音を造る用材だ。もしわしが帰ってこない時はお前がこの願いを果たしてくれ。」と命じるや、姿が見えなくなりました。

賢心は一旦帰ろうとして、もと来た道を探しますが、方角もわからず、見つかりません。そうこうしているうちに日が暮れ、挙句、そのままここに寝泊まりするようになりました。

賢心は言われた通り千手観音像をつくり、行叡の庵に安置し、帰りを待ちましたが、結局行叡が戻ってくることはありませんでした。

そして2年の月日が流れて転機がやって来ることになります。

賢心と坂上田村麻呂の出会い

西門、三重塔と鐘楼
西門、三重塔と鐘楼
写真右端に見える三重塔(さんじゅうのとう)の前には、西門(さいもん)が西を向いてたっています。
左端には鐘楼(しょうろう)が見えます。
いずれも重要文化財。

宝亀11年(780)、大納言の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、妻の産後の体力回復に食べさせようと鹿を獲るために、公務の合間に京を出て東の山に出かけた時のことです。

清水山に入った坂上田村麻呂は賢心と知り合うことになります。坂上田村麻呂は、賢心からこの山にやって来た事の次第から今に至るまでの話をつぶさに聞きます。話をしているうちに、賢心の修行の決意と、観音の悲願の深さ、強さに感動し、賢心と末長い親交を約して帰宅します。

家に帰った坂上田村麻呂は賢心のことを妻に話します。

それを聞いた妻は自分の体を治すためとはいえ、鹿を殺した殺生の罪を悔いて、「せめてもの罪滅ぼしに、わたくしたちの家でもって、賢心さまの観音像を安置する堂を建て、罪を懺悔しましょう」と提案しました。坂上田村麻呂は妻の提案に喜び、さっそく光仁(こうにん)天皇にも賢心のことを話します。そして勅許を得て賢心を得度させ、賢心は名を延鎮(えんちん)と改めました。

それから延鎮と坂上田村麻呂は協力して、延鎮が過ごしていた草庵のあった地の崖を壊して谷を埋めて整備し、そこに寺院を建てたのでした。現在の清水寺というのがこの寺です。

延暦(えんりゃく)17年(798)には「清水寺」の額が掲げられます。

弘仁(こうにん)元年(810)には清水寺が鎮護国家の道場に指定され、嵯峨天皇から「北観音寺」の宸筆(しんぴつ)が下賜されています。延鎮の出身の子島寺が観音寺とも呼ばれていたことにちなみ、それに対応する寺としてこの名が与えられたのでした。

天皇の御願寺、そして鎮護国家の寺として歩み始めた清水寺は、その後、南都(奈良)の興福寺の末寺となったことで法相(ほっそう)宗に属し、興福寺一乗院門跡の支配を受けることになりましたが、現在は北法相宗大本山として独立しています。

維新前夜の悲劇〜月照と西郷隆盛〜

写真集2写真集2(7枚の写真が表示されます。)
写真 
地主神社(じしゅじんじゃ)
縁結びの神様として古くから知られている神社で、清水寺の境内にあります。特に「恋占いの石」(写真2)は恋のパワースポットとして多くの人に知られています。また桜の名所としても有名です。
清水寺の鎮守社とされてきましたが、1868年、明治政府の神仏分離令によって明治時代以降独立した神社となっています。創建年代は、日本建国以前とされ歴史は明らかではありませんが、清水寺より古い歴史を持っているとされています。
1966年6月、本殿・拝殿・総門が、1993年には地主神社境内地全域が国の重要文化財に指定されています。
1994年4月、世界文化遺産に清水寺の一部として登録されています。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に黒塗りの船体であったことから「黒船」と呼ばれたアメリカのペリー率いる軍艦4隻が来航したことから、国情は騒然となりました。そして、開国と通商の要求にたいして如何に対応するかが喫緊の課題となっていました。

当時の孝明天皇は最強の攘夷論者で、青蓮院(しょうれんいん)門跡の尊融法親王(そんゆうほっしんのう)はその先頭に立っていました。尊融法親王はかつて一乗院の住持であり、清水寺とは深い関係がありました。

かつて清水寺の塔頭(たっちゅう)成就院(じょうじゅいん)の第24世住持を務めた月照(げっしょう)は尊皇攘夷派の僧侶としても知られ、安政(あんせい)元年(1854)から五摂家の筆頭である近衛家の歌道に入門していました。近衛家の当主は忠凞(ただひろ)であり、清水寺の大切な祈檀のひとつで、夫人は薩摩藩(鹿児島)主の娘であったことから、尊融法親王・清水寺(月照)・近衛家・島津家の関係は深く、しかも攘夷論を共通点としていました。この関係から、月照は薩摩藩士・西郷隆盛とも親交を持つようになっています。

かつて西郷隆盛を見いだして側近に抜擢して仕えさせ、西郷隆盛が尊敬する薩摩藩主であった島津斉彬(なりあきら)が急死したとき、月照は、殉死しようとする西郷隆盛に対し、止めるように諭すというようなこともありました。

さて、幕府は基本政策を開国、通商に定め、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印したことから、攘夷論を堅持する孝明天皇と対決することになります。とはいえ、孝明天皇を罪人とするわけにもいかず、孝明天皇の肩代わりにされたのが近衛家、薩摩藩島津家、尊融法親王、そして月照らでした。

月照は、時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)から危険人物と見なされ、安政5年(1858)8月から始まった安政の大獄で追われる身となります。そこで親交のあった西郷隆盛の手引きで京都を脱出し薩摩藩に逃れます。しかし、西郷隆盛の良き理解者であった薩摩藩主・島津斉彬はすでにこの世になく、幕府に追われる身となっている月照は、薩摩藩にとって厄介者とされ、その保護を拒否されてしまいます。このため月照は西郷隆盛と死を覚悟し、安政5年(1858)11月16日、夜陰の錦江湾に数人で舟を出すと、二人は乗合の者が寝静まるのを待って、共に身を投げたのでした。

織田作之助(おださくのすけ)はその著「月照」(全国書房刊)で次のように描いています。

西郷は、「ふたつなき 道にこの身を捨小舟(すておぶね) 波たたばとて風ふかばとて」と、懐紙にしるして、月照に示した。

読み終ると、月照は西郷の顔を見た。微笑があった。月照も微笑し、そして、海水を掬(すく)って、両手を浄(きよ)め、東の方を伏し拝んだ。

途端に、西郷の身體がぐっと寄って来て、月照をかき抱いた。

月照はこれで亡くなりましたが、西郷隆盛は奇跡的に舟に乗り合わせていた船頭らに助けられ、一命を取り留めたのでした。

写真集3写真集3(38枚の写真が表示されます。)
写真 
仁王門
正面9.9m、高さ14m、奥行き8.4mの二階建ての堂々たる楼門である仁王門は、清水寺の正門として西面して建っています。綺麗な朱色塗りで「赤門」と呼ばれ親しまれています。
応仁元年(1467)から始まった応仁の乱の兵火で、その2年後に焼失しましたが、室町時代に再建されています。
右背後には西門と三重塔が、また仁王門の正面奥には鐘楼が、見えています。
重要文化財。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市東山区清水1−294
山号 音羽山
宗派 北法相宗
本尊 十一面千手観世音菩薩立像(りゅうぞう)(秘仏)
寺格 大本山
創建年 宝亀9年(778)
開基 行叡居士(ぎょうえいこじ)
開山 延鎮上人(えんちんしょうにん)
文化財
国宝
本堂、本堂の本尊と両脇侍を安置する厨子3基
重要文化財
仁王門、三重塔、奥の院、阿弥陀堂ほか
名勝
成就院庭園
世界遺産

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 茶わん坂
  2. 五条坂
  3. 産寧坂
  4. 清水坂(東大路通松原から松原通に沿って東へ、清水寺の前にいたる坂道の参道)
  5. 馬駐
  6. 仁王門
  7. 「虎の図」の石灯篭
  8. 念彼観音力の碑
  9. 西門
  10. 三重塔
  11. 鐘楼
  12. 水子観音堂
  13. 随求堂
  14. 光憂坂
  15. 中興堂
  16. 春日社
  17. 成就院
  18. 経堂
  19. 開山堂(田村堂)
  20. 北総門
  21. 月照・信海・西郷隆盛の碑
  22. 弁天堂
  23. 朝倉堂
  24. 轟門
  25. 本堂
  26. 舞台
  27. 地主神社
  28. 西向き地蔵堂
  29. 釈迦堂
  30. 百体地蔵堂
  31. 阿弥陀堂
  32. 濡れ手観音
  33. 奥の院
  34. 音羽の滝
  35. 子安の塔
  36. 伝・福禄寿
  37. 錦雲渓
  38. 阿弖流為と母禮の碑
  39. 南苑
  40. 放生地
  41. 十一重石塔
  42. 安祥院(※1)
  43. 清水寺道(五条)(※1)
  44. 松原通(※2)
  45. 松原橋(※2)
  46. 五條天神社(※3)
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図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
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  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
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近隣の観光スポット情報

産寧坂(三年坂)から二寧坂(二年坂)、一念坂を巡って、八坂の塔ねねの道石塀小路高台寺円山公園八坂神社などを訪ねることができます。

posted by はんなり・ジャーニー at 21:36 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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