北野天満宮

三光門(中門)
三光門(中門)
梅の咲くシーズンには三光門(さんこうもん)前をはじめとして境内一円、咲き誇る梅の花で華やいだ景観が広がります。
重要文化財。

宇多(うだ)・醍醐(だいご)両天皇の信任を得て、学者という身で異例の栄達を遂げながらも、讒(ざん)にあって(無実の罪をきせられて)九州の太宰府へ太宰権帥(だざいのごんのそち/−そつ)として左遷され、いつの日か京に戻れることに望みをかけながらもついに大宰府の地で生涯を閉じた菅原道真(すがわらのみちざね)。

道真亡きあとには、道真の怨霊伝説、そして天に上って雷神となったという伝説まで生まれ、その鎮魂の為に朝廷によって、現在の北野の地に道真を祀る社(やしろ)が建立されました。これが現在の北野天満宮として受け継がれています。

今日では学問の神様となって人々に崇敬される道真を祀る北野天満宮は、日々多くの参拝者や修学旅行生らで賑わっています。

宇多天皇の知遇

仁和(にんな)2年(886)正月16日、道真は、住み慣れた京の都の地を初めて離れ、讃岐守(さぬきのかみ)となって地方(香川県)へ任官していくことになります。この時42歳。

それから4年後の寛平(かんぴょう)2年(890)春、国司の任期を終えた道真は帰京すると、一躍政治の中枢に携わっていくことになります。

関白職の初任者として知られ、当時権勢を誇った藤原基経(ふじわらのもとつね)が、寛平3年(891)正月に世を去ると、宇多天皇は摂政関白は置かず、自ら理想とする政治を行なうべく、天皇親政をすすめます。

その一環として、基経の長子藤原時平(ときひら)が21歳とまだ若いこの期をねらって宇多天皇は朝廷の人事刷新を行ないます。

その中で、学問に優れた道真は抜擢されます。

仁和4年(888)5月、道真が讃岐守在任中に、宇多天皇と基経との政治紛争として知られる阿衡(あこう)問題が起こっています。京ではこの問題の解決の糸口が見い出せないまま長引いているのを知った道真が、基経に対して長文の意見書を書き送ります。この意見書が問題の解決に重要な役割を果たし、かつ宇多天皇の窮地を救うことにつながったことから、宇多天皇の道真に対する信任が増す重要なきっかけとなったのでした。それが今回の抜擢へとつながったものと考えられます。加えて、道真の抜擢人事は、藤原氏の勢力を抑えることを視野に入れたものでもあったのでした。

寛平4年(892)には勅を奉じて清涼殿(せいりょうでん)において中国の唐代に作られた政治の参考書『群書治要(ぐんしょちよう)』を侍読(じどく)(天皇・東宮に仕えた学者で、学問を教授すること。)した道真の大器であることを確信した宇多天皇は、道真に大きな期待をかけ、ますます重く取り立てていくことになります。

一の鳥居から楼門前までの写真集1写真集1≪一の鳥居から楼門前まで≫(9枚の写真が表示されます。)
写真 
一の鳥居
交通量の多い今出川通(写真手前の左右(東西)に走る通り)沿いにあるこの一の鳥居をくぐると、静かな境内へと入っていきます。
ちなみに、今出川通に沿って真直ぐ東(写真右側)へその突きあたりまで行ったところに銀閣寺(慈照寺)があります。

宇多天皇の譲位

その後、道真の官位の昇進は急ピッチとなり、寛平9年(897)6月19日、道真は権大納言(ごんだいなごん)に任じられて、右大将(うだいしょう)を兼ね、同日には時平も大納言に任じられ、左大将(さだいしょう)を兼ねます。これより時平と道真は雁行(がんこう)して群臣の先頭に立ち政治を動かしていくことになります。

それからおよそ半月後の7月3日、宇多天皇は皇太子敦仁(あつきみ)親王に譲位します。新帝醍醐天皇の誕生です。

が、この宇多天皇の譲位に際しては、道真だけがひとりその相談を受けることになります。道真が昇進を重ねたとはいえ、この時でも道真の上には左大臣源融(みなもとのとおる)・右大臣藤原良世(ふじわらのよしよ)・大納言源能有(みなもとのよしあり)・源光(ひかる)・中納言藤原時平など、他にも多くの上級官吏がいる中で、宇多天皇は、道真だけに相談したといいます。

敦仁親王(醍醐天皇)の立太子は寛平5年(893)4月2日とされ、それから2年もたたないうちに、宇多天皇は譲位の意思を抱きました。が、道真はこれをいさめて思いとどまらせといいます。

しかし寛平9年になると、今年こそ譲位を果たしたいと、天皇が道真にうちあけたところ、道真は今度は賛意を表します。そこでこの年の7月3日、宇多天皇は譲位し、皇太子の元服と共に醍醐天皇践祚(せんそ)の儀が行なわれたのでした。

それにしても宇多天皇からの内密の相談とはいえ、天皇の譲位・践祚という国家最大の案件に、上級官吏をさしおいて道真だけが、関与させられているという一事は、道真にとっては重大な危険を負わされていることを意味し、まさにこの事が周囲の疑心暗鬼を生み、その後の道真の将来を大きく左右することとなっていくのです。

讒奏(ざんそう)

昌泰(しょうたい)4年(901)正月7日、時平と道真とはともに従二位(じゅにい)に昇叙されます。

ところが、破局は早くもこの月のうちに生じました。正月25日、道真は突如として太宰権帥に左遷せられることが決定したのでした。このことは、醍醐天皇が宇多上皇の意見を聞くこともなく、むしろ何も知らせることなく断行せられたのでした。

そのいきさつは次のように見られています。

このころ、醍醐天皇には異母弟の斉世(ときよ)親王がいました。そして斉世親王の妃は、道真の娘でした。

道真は醍醐天皇から右大臣にまでとり立ててもらったにもかかわらず、口先上手に媚へつらっては宇多上皇を欺いて、醍醐天皇を廃し、斉世親王を立てて、ひとり権勢の座に就こうと謀っていると、左大臣時平および時平に与(くみ)する人たちがありもしない事柄をつくり上げて、醍醐天皇に讒奏(ざんそう)したのでした。

その言葉を鵜呑みにした醍醐天皇は、正月25日、「道真のうわべの詞(ことば)はおだやかだが、本心は逆である。このことは天下の知る所である。道真は、大臣の位にいるべき人ではない。本来ならば法に従って処罰すべきところであるが、特に思うところがあるから、大臣の官職を取り上げ太宰権帥に地位を落とす」との宣命(せんみょう)を発した、というものです。

道真にとっては、まさに寝耳に水の激変と言わざるを得ません。

また、これを聞いた宇多上皇は子の醍醐天皇に問いただそうと内裏(だいり)に駆けつけ、草座(そうざ)を陣頭に敷いて庭先で終日対面を待ちますが、叶わなかったといいます。

道真の異例ともいえる昇進でともに従二位(じゅにい)に昇叙されたことが、もしやこのままいくと、上皇、天皇に目を掛けられている道真に追い抜かれるのではないか、との不安が時平を突き動かします。ならば、いかにして道真を排除すべきか・・・。

こうして上にあげたようなありもしない話がつくり上げられたのでした。

一方、この話を聞いた醍醐天皇にしてみれば、かつて道真が宇多上皇と密談をしていたことが脳裏に浮かび、今また上皇とどのような密議をこらして何を画策しているのかと、疑心を生じたのも無理からぬところがあったのかもしれません。

神牛像
神牛像
境内には15体の神牛(しんぎゅう)像が奉納されていますが、天満宮と牛とのかかわりについての確かな事はわかっていません。よく知られている伝承として挙げられるのが、祭神・道真の誕生日が承和(じょうわ)12年(845)乙丑(きのとうし)6月25日だからというもの。他には、道真の遺体を牛車(ぎっしゃ)に乗せて運んでいたところ、牛が動かなくなり、その場所に埋葬することになったからというもの、牛が刺客から道真を守ったからというもの、道真の神号「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」の「大自在天神」は仏法を守る神で、白牛に乗るとされるからというもの、など諸説があります。いずれにしてもこれらのことから、牛は天神(道真)の神使(しんし)となっています。
この神牛像は楼門を入ったすぐの所にあるもので、背後に見えているのは宝物殿です。

太宰権帥

こうして、道真は、太宰権帥の命を受けた正月25日からわずか一週間後の2月1日には、京を出発することになります。住み慣れた紅梅殿を去るに当たって、道真は、庭でいまを盛りと咲きにおう梅の木を見上げて、2首の歌を詠んでいます。その1首、

東風(こち)吹かば匂(にほ)ひ起こせよ梅(むめ)の花

主(あるじ)なしとて春を忘るな

(『北野天神縁起』〜承久本〜)

はよく知られているところです。

さて、「太宰帥」は、九州・二島(壱岐・対馬)を管轄し、かつ国防上、外交上の要職であった大宰府の長官で、その重要性のゆえに、歴代親王家をもって、これに任ずるのが慣例とされてきました。しかしながら、「権帥」というのは、員外(いんげ)の官(定める正官以外に仮に任じる官)で、政治にはまったくかかわることのない、左遷の官でした。

したがって、道真は、実質上は配流(はいる)の刑にあったも等しいものでした。

道真の大宰府での生活は、都での生活からは考えられないほど惨めなものでした。道真が住むことになった官舎は長らく空き家となっていたせいか、廃屋も同然の状態でした。それこそ床は朽ち、縁も落ち、屋根は漏って、蓋(おお)う板もなく、また竹垣も結(ゆ)わねばならない、井戸もさらわねばならない、等々といった状態だったといいます。

こうした環境の中で、丈夫な身体とはいえなかった道真は、健康面でも悩まされます。

はじめのうちは、いつの日にか京に帰れると、そればかりを待ち望んだ道真でしたが、時の流れと共にその望みもうすれ、次第に諦めの気持ちへと移っていきます。

そうした中で、延喜(えんぎ)3年(903)2月25日、道真は大宰府にてその生涯を閉じ(59歳)、遺言によって大宰府に葬られたのでした。

怨霊伝説から社(やしろ)の創立へ

道真がいなくなった今、時平は朝廷の只一人の実力者として、意のままに政治を行なうことができるようになりました。

しかし道真がこの世を去った5年後から不幸な出来事が起こり始めます。

延喜8年(908)10月7日には時平を助けて道真の左遷に力を貸したと言われる参議藤原菅根(すがね)が没します。その半年後の延喜9年(909)4月4日には、時平も39歳の働き盛りでこの世を去ります。

また、延喜8年、9年、10年は疫病や日照りによる田畑の損害がつづいたといいます。

そして道真没後20年が経った延喜23年(923)3月21日には、醍醐天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が21歳の若さで薨じたことから、醍醐天皇ももはやすておくことはできなくなりました。『日本紀略』には、

世をあげて云ふ。菅帥(かんそち)(太宰権帥菅原道真)の霊魂、宿忿(しゅくふん)(うらみ)のなす所なり

とあります。この年の4月20日醍醐天皇は詔して、道真に本官の右大臣を復し、併せて正二位(しょうにい)を贈り、昌泰4年(901)正月25日の詔書(道真左遷の詔)を破棄させました。

しかし、不幸はまだ止まりません。

保明親王の亡き後、直ちに皇太子に立てた、慶頼(やすより/よしより)王は延長(えんちょう)3年(925)6月18日、5歳で薨じました。

延長8年(930)6月26日には、久しく雨がないので請雨(あまごい)のことを議していた清涼殿の上に、俄かに黒雲が起こって雷鳴がとどろきわたり、大納言藤原清貫(きよつら)(64歳)は束帯の装束が焼け、胸が裂けて即死、右中弁平希世(まれよ)は、顔を焼いてしまったのでした。

これ以後、醍醐天皇も体調を崩して病に臥したことから同年9月22日に譲位し、1週間後の9月29日には崩じてしまいました。

こうして道真の怨霊に対する恐れは年と共に強まっていったのでした。

このような風潮を背景として平安時代中頃の天暦(てんりゃく)元年(947)、北野の地に、道真を祀る神社が創立されることになりました。そして、天徳(てんとく)3年(959)には、右大臣藤原師輔(もろすけ)(時平の弟・忠平(ただひら)の子)によって神殿が増建され、一条天皇の永延(えいえん)元年(987)8月5日には初めて官幣(かんぺい)に預って祭祀が行なわれました。その時の宣命に、「北野に坐(ま)します天満宮天神」と述べられていて、これによって北野天満宮天神の名が、公式のものとなったのでした。

ついで正暦(しょうりゃく)4年(993)5月20日、道真は正一位(しょういちい)・左大臣を贈られましたが、それでも神霊は安んじないというので、同年閏(うるう)10月20日、重ねて太政大臣(だいじょうだいじん/だじょう−)を贈られました。既にこの世になしとはいえ、人臣としての最高の栄位をきわめています。

梅の写真集2写真集2≪梅≫(10枚の写真が表示されます。)
写真 
北野天満宮の春
やがて満開となってほのかな香りを漂わせ、彩りを添えて、訪れる人を迎えてくれそうです。

学問の神様として

道真には怨霊伝説まで生まれてしまいましたが、江戸時代の頃になるとその性格は薄れ、学問の神様として広く信仰されるようになり、寺子屋を通じて、菅公崇拝の普及が進んでいったといいます。

菅原氏はもと土師(はじ)氏といい、桓武(かんむ)天皇即位の始めの天応(てんおう)元年(781)6月、土師古人(ふるひと)らが請願を出し、居住地の名をとって、「土師」の姓を改め、「菅原」と替えることを許されています。桓武天皇は、平安京遷都を行なったことで知られますが、土師古人は、その桓武天皇の侍読(天皇の教師)の任にあった人でもあります。

この古人は、道真の曾祖父にあたる人で、学業は優れていたとはいえ、いつにかわらぬ学者貧乏で、経済的には余り恵まれていなかったようです。

古人の第四子で道真の祖父にあたる清公(きよとも/きよきみ)も学業優秀で、延暦23年(804)には藤原葛野麻呂(かどのまろ)が大使を務めた遣唐使の一員として唐へ渡っています。しかもこの時は、最澄・空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)らの俊鋭が同行しています。そしてついには、父祖の地位からは思いもよらぬ公卿(くぎょう)の地位にまで登り詰めたといいます。これは全く学問の力によるものと言われています。

清公の第四子で道真の父にあたる是善(これよし)が学問の上で父・清公のあとを継ぎ、父・清公の任じなかった参議を長く勤めて政治の実務にも携わっています。しかし、清公の本領は、やはり学者・文人であることでした。

道真は是善の第三子で、父祖三代の輝かしい学者の伝統は道真に遺憾なく引き継がれ、宇多天皇の知遇を得ることに功を奏したといえるかもしれません。

道真が自分の詩を集めた『管家文草(かんけぶんそう)』に、14歳のときに、12月(臘月)になって自然にわき起こって来た(独興)思いを詩にしたという七言律詩の漢詩『臘月独興』(ろうげつどくきょう)の結句

可恨未知勤學業(恨むべし、未だ学業に勤むることを知らずして)

書齋窗下過年華(書斎窓下、年華を過すを)

(悔しいかな、学業に精も出さず、ただ書斎に閉じこもるのみで、ぼんやりと時を過ごしていることを。)

は、日夜勉学に励んでいても、それでもまだ足りないという気持ち(向学心)を言い表したものと言われます。

道真は生前において、藤原氏が権勢を誇っていた中で、学問の力によって従二位・右大臣にまで登り詰めましたが、これは学者としては異例の出世といわれ、学者として大臣にまで出世したのは江戸時代以前では、吉備真備(きびのまきび)と菅原道真のみ、とされています。

しかし、死して尚、正一位(しょういちい)・左大臣を贈られ、更に太政大臣にまで昇叙されたのは、菅原道真のみと言えます。

楼門から本殿周辺までの写真集3写真集3≪楼門から本殿周辺まで≫(36枚の写真が表示されます。)
写真 
楼門
一の鳥居からしばらく歩いて来て楼門が見えてきました
この参道の左手には、約1,000本の梅が植えられているという梅苑が広がっています。2月上旬から3月下旬の観梅の季節にのみ開苑されます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市上京区御前通今小路上る馬喰町
主祭神 菅原道真
創建年 天暦元年(947)
主な祭事 梅花祭(2月25日)、瑞饋(ずいき)祭(10月1日〜5日)ほか
文化財
国宝
本殿、拝殿、北野天神縁起絵巻(根本縁起/承久本)
重要文化財
三光門(中門)、東門、太刀 銘國綱(鬼切)ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 一の鳥居
  2. 影向松
  3. 茶席松向軒
  4. 伴氏社
  5. 太閤井戸
  6. 北野大茶湯之址の石碑
  7. 梅苑
  8. 梅苑入口
  9. 楼門
  10. 宝物館
  11. 神楽殿
  12. 絵馬所
  13. 大杉社御神木
  14. 絵馬掛所
  15. 織部石灯籠
  16. 三光門(中門)
  17. 東廻廊
  18. 西廻廊
  19. 渡邊綱の灯籠
  20. 拝殿
  21. 本殿
  22. 後門
  23. 和魂漢才の碑
  24. 東門
  25. 手向山楓樹
  26. 紅梅殿
  27. 御土居
  28. 今出川通
  29. 御前通
  30. 上七軒
  31. 平野神社
  32. 天神川(紙屋川)
  33. 大徳寺(※)
  34. 高桐院(※)
  35. 金閣寺(鹿苑寺)(※)
  36. 龍安寺(※)
  37. 等持院(※)
  38. 妙心寺(※)
  39. 二条城(※)
※.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 00:05 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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