妙法院・三十三間堂

蓮華王院本堂(三十三間堂)
蓮華王院本堂(三十三間堂)
堂内に1030余体の尊像が整然と並ぶ、全長約120メートルの「総檜(ひのき)造り」の長大な堂宇。平安時代末期に後白河(ごしらかわ)上皇が営んだ御所、法住寺殿(ほうじゅうじどの)の西側に建立された蓮華王院(れんげおういん)の本堂で、鎌倉中期の建長(けんちょう)元年(1249)の大火で炎上したものの、同じ鎌倉中期の文永(ぶんえい)3年(1266)に再建されてから、幾度もの修理・改修が行なわれて今日に受け継がれてきています。

京都国立博物館の東、南北に走る東大路通を挟んで、青蓮院(しょうれんいん)門跡、梶井(かじい)門跡(三千院)とともに「天台三門跡」と並び称され、皇族・貴族の子弟が歴代住持となってきた別格寺院である門跡(もんぜき)寺院の妙法院(みょうほういん)門跡があります。妙法院は、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院でもあります。

一方、この妙法院から場所は離れていますが、400メートル足らずの、京都国立博物館の南、七条通を挟んだ所に長大な堂宇があることで知られる蓮華王院があります。その本堂は全長約120メートルに及び、日本一長い木造建築物として三十三間堂の名で知られています(文化庁所管の国指定文化財等には、「蓮華王院本堂(三十三間堂)」として国宝に登録されています)。

そしてこの三十三間堂は、妙法院の境外仏堂(けいがいぶつどう)として、妙法院の所有・管理のもとにあります。つまり、妙法院と蓮華王院三十三間堂は一つの寺なのです。

法住寺殿造営

後白河上皇は、平安時代も残すところあと30年ばかりとなった保元(ほうげん)3年(1158)、在位3年足らずで幼い皇子に譲位(二条天皇)すると、東山の阿弥陀ヶ峯の西麓に譲位後の居所(院御所(いんのごしょ))である・法住寺殿の造営を始めました。後白河上皇は、永暦(えいりゃく)2年(1161)からはここに住むようになって、法住寺殿で34年間に亘って院政が行われることになります。

法住寺殿は、南北約1キロメートル、東西約500メートルという広大な敷地であったようで、北殿(きたどの)や南(みなみ)殿、といった御所が設けられました。またその南には最勝光院(さいしょうこういん)などの堂塔も設けられています。(下記「法住寺殿略図」参照)

法住寺殿概略図
法住寺殿概略図
蓮華王院の本堂が、今日、三十三間堂(通称)と呼ばれているものです。
現地説明板を基に作成。

後白河上皇が法住寺殿に移られる前年の永暦(えいりゃく)元年(1160)には、法住寺殿の鎮守社(守護神)として、紀州熊野本宮と比叡山延暦寺の鎮守社・日吉山王(ひえさんのう)のご神体を勧請(かんじょう)して新日吉(いまひえ)社と新熊野(いまくまの)社が創建されています。このとき、新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが、後白河上皇がかねてより帰依していた比叡山妙法院の昌雲(しょううん)という僧でした。

妙法院、京へ

当時(12世紀半ば頃)、妙法院は比叡山西塔(さいとう)の一坊だったとみられていて、この時に初めて山を下りて京の都に里坊(町中にある寺)を開くことになったのでした。

その里坊は当初、京都・東山の綾小路小坂(現在の京都市東山区・八坂神社の南西あたりと推定される)とも、東山七条北の現在地ともみられていて、この京都妙法院がどこにあったのか、確かな事は分かっていません。

が、その里坊がのちの、つまり現在の妙法院です。妙法院が現在の地に居を定めたのは江戸時代初期とされています。

妙法院の門主系譜では最澄(さいちょう)を初代として、15代が後白河法皇(法名は行真)、16代が昌雲とされ、18代門主として尊性法親王(そんしょうほうしんのう/−ほっしんのう)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立していくことになります。

妙法院≪妙法院≫写真集1(11枚の写真が表示されます。)
写真 
表門
門の奥には庫裏(くり)(国宝)が見えています。
東大路通沿いの京都国立博物館前より。

蓮華王院建立

さて、法住寺殿の西側に建立されたのが、今日では三十三間堂として知られる蓮華王院です。

後白河上皇が、父である鳥羽上皇が建立した得長寿院(とくちょうじゅいん)の三十三間の御堂を念頭に置いて造営されたとされます。蓮華王院は、後白河上皇の勅願で長寛(ちょうかん)2年(1164)、平清盛(きよもり)の私財によって建立、寄進されました。当初は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたといいます。

長大な仏堂に1001体の千手観音像が安置されたことから、「法住寺千躰観音堂(せんたいかんのんどう)」、もしくは本堂の内陣(ないじん)正面の柱間(はしらま)が33あるところから「三十三間堂」とも呼ばれることになりました。柱間が33とされたのは、観音菩薩の三十三化身(げしん)に因むものとみられています。柱間が33あるのは本堂の内陣で、建物外部から見る柱間は35あります。

堂内にはその須弥壇(しゅみだん)上中央に、ほぼ3年の歳月をかけて造立され建長6年(1254)正月23日に完成した中尊、木造千手観音(せんじゅかんのん)坐像(国宝・鎌倉)が安置されています。この時造立にあたった大仏師湛慶(たんけい)は82歳となっていました。その左右には、木造千手観音立像(りゅうぞう)(重要文化財・平安〜鎌倉)1000体(内、124体が創建当初の像)が整然と並び、木造風神(ふうじん)・雷神(らいじん)像(国宝・鎌倉)と木造二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)立像(国宝・鎌倉)が千体観音像の前に列立する様はまさに圧巻です。

寿永(じゅえい)2年(1183)11月19日の源(木曽)義仲(よしなか)による法住寺襲撃による焼き討ち(法住寺合戦)や南北朝の争乱、京の都を10年もの間焦土と化した応仁の乱(1467〜1477)、はたまた幕末の禁門の変で京都の目抜き通りが火炎で包まれるといった、度重なる戦火のなかでも類焼をまぬがれてきた堂宇でしたが、建長元年(1249)3月23日正午頃、姉小路室町(あねこうじむろまち)から出火した炎が強風にあおられ、午後2時頃には蓮華王院にまで及んだという大火によって灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

押し寄せる炎は蓮華王院の塔から燃え移ったといい、遂には本堂(三十三間堂)も灰と化してしまったのでした。この時、寺僧の決死の努力で運び出せたのは、巨大な丈六観音(中尊)の頭と左手のみ、また千体千手観音のうち156体と二十八部衆などだったといいます(当初の像として現存しているのは124体となっています)。さらに、妙法院が管理する新日吉社も全焼してしまったといいます。

しかし、2年後の建長3年(1251)には早くも後嵯峨上皇が三十三間堂の再建を決意し、完全な復元本位のもとで復興に着手します。そして15年の歳月をかけて文永3年(1266)に完成、落慶法要が行なわれました。

現在拝観できるのが、この時の堂宇と仏像です。

妙法院・三十三間堂の復興と一体化

戦国の世も終わり天下人となった豊臣秀吉は、その権勢を天下に誇示するために天正14年(1586)、奈良東大寺の大仏を模した大仏の造立を発願し、方広寺大仏殿として三十三間堂の北隣にその造営にあたります。当時、妙法院および蓮華王院の衰微は甚大なるものがあったとされます。秀吉は、方広寺大仏殿の造営に際し、妙法院を経堂(きょうどう)として位置づけたことから妙法院の復興が始まる契機となりました。

加えて、当時裸同然にたっていた三十三間堂を護るように、秀吉は、方広寺大仏殿建立期間にその境内に取り込んで築地塀と南大門および西大門を築きました。今日、三十三間堂の南端に太閤塀(たいこうべい)と呼ばれて遺されているものがその時築造された築地塀です。南大門は慶長(けいちょう)元年(1596)に起こった大地震で一度は倒壊しましたが、秀吉の子、秀頼によって再建されて太閤塀の東に遺されています。西大門は明治28年(1895)、東寺に移築され、正門南大門としてその雄姿を現在も見せています。

豊臣家が大坂冬の陣、夏の陣を経て、慶長20年(1615)に滅亡すると、徳川家康は妙法院に千石加増して、方広寺大仏殿、三十三間堂、新日吉社を妙法院の直轄支配としました。この時をもって、妙法院と三十三間堂の一体化が始まったとされています。

しかしながら、それよりもずっと以前の、平氏政権の成立をみた平安時代末期(1160年代)以降、三十三間堂が妙法院にお伺いをたてる文書が残っているとされ、三十三間堂の管理は早いうちから妙法院が行なっていたのではないかともみられています。

三十三間堂≪三十三間堂≫写真集2(18枚の写真が表示されます。)
写真 
蓮華王院本堂(三十三間堂)
北側からの景観。
≪関連情報≫
項目 内容
名称 妙法院
所在地 京都市東山区東大路通渋谷下る妙法院前側町
山号 南叡山
宗派 天台宗
本尊 普賢菩薩
創建年 平安時代初期
開基 最澄
文化財
国宝
庫裏、ポルトガル国印度副王信書
重要文化財
玄関、大書院、木造普賢菩薩騎象像ほか
≪関連情報≫
項目 内容
正式名 蓮華王院
通称 三十三間堂
所在地 京都市東山区三十三間堂廻町657
山号 なし(本坊妙法院の仏堂につき)
宗派 天台宗
本尊 千手観音1001体
創建年 長寛2年(1164)
開基 後白河天皇
文化財
国宝
蓮華王院本堂(三十三間堂)、木造千手観音坐像ほか
重要文化財
太閤塀、南大門、木造千手観音立像

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 妙法院
  2. 表門
  3. 庫裏
  4. 玄関
  5. 唐門
  6. 七卿落碑
  7. 普賢堂
  8. 宸殿
  9. 瑞龍殿
  10. 大書院
  11. 白書院
  12. 御座之間
  13. 玉座
  14. 聖天堂
  15. 大黒堂・護摩堂・阿弥陀堂
  16. 龍華蔵
  17. 三十三間堂
  18. 蓮華王院本堂(三十三間堂)
  19. 東門
  20. 北門
  21. 回廊
  22. 手水舎
  23. 東大門
  24. 鐘楼
  25. 南大門
  26. 太閤塀(築地塀)
  27. 久勢稲荷大明神
  28. 西門
  29. 方広寺
  30. 豊国神社
  31. 京都国立博物館
  32. 養源院
  33. 法住寺
  34. 後白河天皇法住寺陵
  35. 智積院
  36. 東大路通
  37. 七条通
  38. 大和大路通
  39. 塩小路通
  40. 新日吉神宮
  41. 新熊野神社(※1)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記【境内概観図】をご参照ください。

三十三間堂は、JR京都駅から烏丸通に出て北上し、七条通に出たら東へ真っすぐに進み、やがて見えてくる鴨川を渡ると、あと一息といった所にあります。JR京都駅からはおよそ1.5キロメートルほどの道のりです。また、私鉄の京阪電車ですと、七条駅からおよそ400メートルほどの近さです。

上記記事中の「法住寺殿略図」にも記載されていますが、三十三間堂からすると清水寺八坂の塔(「略図」中には八坂寺(法観寺)と記載)へも比較的近いといえます。

posted by はんなり・ジャーニー at 23:36 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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