
三門
平成の修理時に、元和(げんな)7年(1621)に完成したことを示す墨書(ぼくしょ)が確認され、建築年代が確定したといいます。
国宝。
北の端の一番高い山、比叡山(ひえいざん)からその山なみが始まり、南は伏見(ふしみ)の稲荷山(いなりやま)まで、京都市街地の東に連なる東山(ひがしやま)。そしてその中にある三十六の峰。その東山三十六峰(さんじゅうろっぽう)のほぼ真ん中あたりに位置して、ひときわ濃い緑に覆われる華頂山(かちょうざん)を背にしてたつ知恩院(ちおんいん)。
800年以上もの昔、法然(ほうねん)によってこの地で創始されたその教えは今日まで脈々と受け継がれています。そして、知恩院は、京都市の繁華街からもほど近い所にあるという地理的な利便性も手伝って、日々多くの観光客の人たちが訪れています。
では、いつ訪れましょう?
今でしょう!
比叡山へ
長承(ちょうしょう)2年(1133)、美作国(みまさかのくに)久米の南条稲岡の庄(現在の岡山県久米郡久米南町里方)で生を受けた法然上人は、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸の父は漆間時国(うるまのときくに)といい、その土地の治安維持にあたる押領使(おうりょうし)(現在の警察相当の職)をしていました。
保延(ほうえん)7年(1141)、この土地に住んでいた預所(あずかりどころ。荘園制で領主に代わって年貢徴集や荘園領地の管理などにあたった職)の明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)という武士と土地争論に関連して恨みをうけることになり、夜討ちをしかけられたことから深手を負い、絶命してしまいました。勢至丸9歳の時です。父時国は臨終の際に勢至丸を枕元に呼んで、この度のことを決して恨みに思ってはいけない、恨みを報いるに恨みをもってすれば、永久に恨みは絶えない、ただひたすら父の冥福を祈ってほしい、と言って息を引き取ったといいます。
勢至丸の母の弟が比叡山延暦寺で学んで近くの寺の住職をしていたことから、母は勢至丸をあずけることにしました。もともと非凡であったという勢至丸はその英才を認められ、比叡山に登って学んだ方がいいということから、母の同意を得て出家することになります。時に久安(きゅうあん)3年(1147)、勢至丸、15歳。
時代背景
比叡山に登って3年間天台学を修めた勢至丸は、18歳の時に名を法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と改めます。
当時は、平安時代も終わりに近づきつつあった時で、かつておよそ300年もの長きにわたって権力を独占してきた貴族社会は腐敗し、貴族同士の暗闘の間に、平清盛(たいらのきよもり)といったような武士が密かに力をつけてきていました。
そうした時代の流れの中で、法然が比叡山にやって来てからこれまで見てきたものは、かつて、高潔な精神の持ち主最澄がはじめた比叡山延暦寺も、今は、世俗世界と同じように腐敗し、営利を求める僧達の群れ集う所と変わり果て、またいたずらに闘争をくりかえすのみという、名状しがたい頽廃でした。
しかしそのような延暦寺にあって、名利から離れた無位無官の隠遁の聖(ひじり)が真剣に求道生活を送っているところがありました。西塔黒谷(さいとうくろだに)の別所です。延暦寺の頽廃に耐えかねていた18歳の法然も、この西塔黒谷に移ることにします。
清閑の地、黒谷にこもった法然は、これより、すべての人々が平等に救われる道は何か、という課題に対してひたすら求道の日々を送ることになります。
下山
それから25年の長きにわたってひたすら研究に没頭します。その間一度、24歳の時に比叡山を下って、嵯峨釈迦堂として知られる清凉寺の「三国伝来生身(しょうじん)の釈迦如来」像の前に参籠し、つづいて南都(奈良)の学僧たちを訪ねています。これは、自ら探求していることに対しての裏付けや実証を得ようとしての訪問だったと見られています。
長年の研究を重ねた結果ついに法然は、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を称えればみな平等に救われるとする専修(せんじゅ)念仏に、開眼します。時に承安(じょうあん)5年(1175)、上人43歳の春。15歳で比叡山に登ってから実に28年が経っていました。
この頃、西山の広谷(現在の京都府長岡京市)というところに、法然と同じく念仏を修する聖(ひじり)がいました。その人は遊蓮房円照(ゆうれんぼうえんしょう)といいました。法然は、自ら会得した念仏が人を救うに足るものであるかどうかの確証を円照から得ようと、この聖を訪ねて早速比叡山を下ったのでした。二人の交流は二、三年の間であったといいますが、法然にとっては円照に会えたことはかなり嬉しかったようです。
やがて円照と別れた法然は東山大谷の吉水(よしみず)の地に西山広谷から移した庵室を構えます。この庵室は「吉水の中の房」と呼ばれ、今後永くここを本拠として、自分の信ずる法門に没入し、専修念仏の教えを説く生活に入っていきます。この「中の房」は現在の御影堂(みえいどう)のあたりにあったとみられています。
またこの他にも、現在の大鐘楼の東北(一説に小方丈の辺)あたりに「吉水の東の新房」、同じく三門の西南の地あたりに「吉水の西の旧房」と呼ばれる庵があったとみられています。この東西の新旧二房は門弟らの宿房にあてられていました。
法然のこの「中の房」には多くの迷える民衆が日夜絶えることなく集まってくることになります。
しかし、正統教学を守ろうとする比叡山延暦寺をはじめとした旧仏教派からみれば、その繁栄は危険な異端者の繁栄と見え、悩みの種だったのです。そのような中、たまたま、建永(けんえい)元年(1206)、後鳥羽上皇が熊野神社参詣に出かけた留守中に、上皇の侍女二人が、法然の弟子を慕って出家してしまったことから、上皇の激怒をかってしまうことになります。
流罪、そして帰洛
建永2年(1207)2月、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、事件に関連した法然の弟子ら4人が処刑されます。更に、法然は四国の土佐国(現在の高知県)へ流罪となり、また親鸞(しんらん)ら主だった7人の弟子もそれぞれ別々の国へ流罪となります(「建永の法難(承元(じょうげん)の法難)」)。この時、法然、75歳という高齢。
ここで、この5年前に出家しているものの、かつては関白の地位にあって法然の外護(げご)者としても知られた九条兼実(くじょうかねざね)の口利きがあったのか、法然の配流地が讃岐国(さぬきのくに。現在の香川県。)に変更され、流罪の期間も10ヶ月と短期で済んでいます。こうして、法然は、同年12月には赦免されて讃岐国から戻ることができるようになりましたが、京の都に入ることは許されませんでした。その為一旦、摂津国豊島郡(現大阪府箕面市)の勝尾寺の二階堂に3年10ヶ月ほど滞在していた中、建暦(けんりゃく)元年(1211)11月に京都に帰ることが許されることになりました。
しかし、4年の歳月を経て法然が京の都へ帰って来た時には、かつての吉水の禅房は大いに荒廃していました。この時、法然を暖かく迎えてくれたのが、吉水の禅房の北に隣接する青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)(慈鎮和尚(じちんおしょう))でした。慈円は法然の外護者であった九条兼実の弟。この慈円の配慮で吉水の禅房の山上にあった南禅院という房舎に入ることができたのでした。
法然はこの南禅院を拠点として活動を開始することになりますが、高齢の上に長年の旅の疲れがでたのか、わずか2ヶ月後の建暦2年(1212)正月25日、多くの弟子に看取られる中、ここで息を引き取りました。享年80歳。法然が往生したこの禅房は、弟子らから「大谷の禅房」と呼ばれ、現在の勢至堂(せいしどう)の地にありました。
没後の迫害
遺弟らは「大谷の禅房」の東崖上に法然を葬り、廟堂を建立しました。廟堂には法然の真影が安置され、ここを訪れる者が絶えなかったといいます。
ところが、嘉禄(かろく)3年(1227)6月、専修念仏の興隆に恨みをもった延暦寺衆徒によって、この廟堂が破壊されるという事件が起こっています。しかし事前にこのことを知った遺弟らは法然の遺骸を密かに洛西の嵯峨に移し、更には翌安貞(あんてい)2年(1228)の17回忌の忌日には西山粟生野(あおの)で荼毘(だび)に付しています。ちなみに、この地に建てられたのが、今日の浄土宗西山派の本山、粟生の光明寺(こうみょうじ)です。

光明寺
その後、破壊された大谷の廟堂は勢観房源智(せいかんぼうげんち)によって復興されました。源智は、平清盛の嫡男、重盛(しげもり)の孫とされ、平家没落後は源氏の探索から逃れ、13歳で法然の弟子となっています。源智は、長年にわたって法然に近侍し、法然の臨終に際しては法然最後の教訓「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を授かった人でもあります。
法然23回忌にあたる文暦(ぶんりゃく)元年(1234)、源智はかつて破壊された廟堂を再興して法然の遺骨を安置しました。そして、四条天皇(鎌倉時代中頃の第87代天皇。在位1232〜42年。)から「華頂山知恩教院大谷寺」(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら)の寺号を下賜されたとされています。これが、「知恩院」の名を使った寺院としての始まりとなります。

勅額「知恩教院」
ところで、知恩院という名称がいつ成立したのか、詳細なことはわかっていません。しかしながら、鎌倉時代末期(13世紀末)に完成したとされる『法然上人絵伝(法然上人行状絵図)』【国宝】のなかに「知恩院」という文字が見られることから、この頃には既に「知恩院」と号する寺院が存在していたことは明らかとされています。
大伽藍造営
法然の大谷廟堂に起源する知恩院は、鎌倉時代末期にその基礎を固めて初期の段階から発展期に入り、続く室町時代には再三の火災にもかかわらず民衆の力によってもそのつど復興し、また、朝廷の帰信、青蓮院の庇護なども受けるようになります。戦国時代中期には浄土宗総本寺としての地位を確立します。
いよいよ天下統一に向かって動き出した織田信長や豊臣秀吉の時には増地・加禄も受け経済的にもその基盤を固めることができましたが、続く江戸時代においては隆盛期へと飛躍することになります。
慶長(けいちょう)7年(1602)8月に徳川家康の生母「於大の方(おだいのかた)(伝通院殿(でんつういんどの))」が亡くなるとその菩提を弔うために、家康自身三河時代から浄土信仰に厚くまた徳川一門と知恩院との関係も早くからあったこともあって、翌慶長8年2月、家康は知恩院の寺域を拡張し、諸堂舎を整備・建立することを命じます。慶長8年2月は、家康が征夷大将軍に任命された月でもあります。
知恩院の地はもともと青蓮院の属領で、室町時代中期の長禄(ちょうろく)4年(1460)2月、知恩院はその敷地、山林などを青蓮院から安堵されていたといいますが、当時の知恩院の境内といえば手狭だったこともあり、北に隣接する青蓮院の寺域を知恩院に充てて壮大な伽藍を造営しようという計画がたてられました。(青蓮院には替地を充てています。)
それは、当時知恩院の境内に建てられていたものでこの度の計画に入っていないものは他所に移転させ、そして今日の知恩院に見られるように、大きく3つの寺域から成るように整地することでした。つまり、現在の知恩院の高所に位置して勢至堂などのある上段の地、同じくその下に位置して御影堂などのある中段の地、そして同じく更にその下に位置して三門などのある下段の地、の3区域です。
知恩院の境域は大幅に拡張されることとなり、造営工事も急ピッチで進められたといいます。
ただ造営工事は、家康一代では終わらず、2代将軍秀忠、3代将軍家光と引き継がれていったのでした。特に、家康、秀忠は知恩院の新造営を担い、その後火災にあったことから、家光は知恩院を旧を凌ぐ程に復旧したといえます。
こうして今日私たちが目にする知恩院が、東山三十六峰の一つ、華頂山の麓にその堂々たる姿を見せています。知恩院と名付けられたこの立派な姿を見て一番驚くのは、法然その人かもしれません。
写真集(38枚の写真が表示されます。)
八坂神社西楼門前を東大路通沿いに北へ200メートルほど行った先にこの門があります。門の奥はなだらかな登り坂となっていて、その先には三門がそびえています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 華頂山知恩教院大谷寺 |
| 所在地 | 京都市東山区林下町400 |
| 山号 | 華頂山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 本尊 |
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| 寺格 | 総本山 |
| 創建年 | 承安5年(1175) |
| 開基 | 法然 |
| 文化財 |
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- ※
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