御靈神社(上御霊神社)

秋深まりゆく境内
秋深まりゆく境内
秋が深まるに連れてイチョウの「黄葉」が黄色の絨毯を敷いたように散り積もってゆく本殿裏。
カエデの「紅葉」と美しいコントラストを醸し出しています。

相国寺(しょうこくじ)を間に挟んで、京都御所の北方、深い緑に包まれて静かに鎮座する御靈神社(ごりょうじんじゃ)。

御靈神社(上御霊神社)は、延暦(えんりゃく)13年(794)の平安遷都以前から当地の豪族、出雲氏の氏寺(うじでら)の一つであった上出雲寺(かみいずもでら)の鎮守社(ちんじゅしゃ)がその前身と見られています。長い歴史を有する古社といえます。

後年にはその境内において、10年以上という長きにわたって京の都を焦土と化し、全国的な内乱へと発展した、日本の合戦史上でも類を見ない応仁・文明の乱が勃発したことでも知られています。

創祀以来の長い歴史において度々の災禍を被る中、往時は現在のおよそ2倍の規模を誇っていたとされる境内は縮小したとはいえ、その場所は最初のころと殆ど変わらず受け継がれてきています。まさに歴史の生き証人といえます。

創祀

天応(てんおう)元年(781)の桓武(かんむ)天皇の即位に伴って同母弟の早良(さわら)親王が皇太子となります。そしてその3年後の延暦3年(784)にはそれまでの平城京から長岡京への遷都が行なわれます。ところが、桓武天皇の側近にして、長岡京遷都の指揮をとっていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されるという事件が起きます。

早良親王はこの事件に関与していたという罪をきせられて廃嫡(はいちゃく)されます。しかし、無実を訴えて絶食を続けていた早良親王は、淡路国(あわじのくに)(現兵庫県淡路島)へ配流(はいる)の途中、延暦4年(785)、遂に憤死してしまいます。

長岡京遷都から10年後の延暦13年(794)、桓武天皇は平安京を造営して遷都します。

当時は、地震や津波といった天変地異や、疫病(えきびょう)が相次いで流行していました。人々は、こうした災厄(さいやく)の原因を、政治抗争に巻き込まれて不遇な死を遂げた人の霊魂による祟(たた)りとし、その怨霊(おんりょう)を鎮魂して祟りを成さない「御霊(ごりょう)」とすることによって、災いを免れようとしました。これは「御霊信仰」と呼ばれています。

こうした背景の中で、御靈神社は、それまでの氏寺の鎮守社に、平安遷都を果たした桓武天皇がその御霊信仰にもとづいて早良親王の神霊を祀ってその魂を鎮め、平安京の守護神としたことに始まると伝えられています。

その後、不運のうちにこの世を去った橘逸勢(たちばなのはやなり)、吉備真備(きびのまきび)、火雷神(からいしん)(菅原道真(すがわらのみちざね)とも)らの八柱(はちはしら)の神霊が次々と合祀(ごうし)されることになります。こうして御靈神社は、平安京の鬼門に位置する八所御霊大明神(はっしょごりょうだいみょうじん)と称(とな)えられることとなります。現在では13柱(はしら)の神霊が祀られています。

応仁・文明の乱勃発の地となった御靈神社

乱の原因〜畠山家の家督争い〜

諸国における守護大名の領国支配の上に築かれていた室町幕府の機構の中で最も重視されたのは、将軍を助けて将軍と守護大名との間を調整する管領(かんれい)という役職でした。室町時代中期以後は足利(あしかが)氏一門の斯波(しば)・細川・畠山の三家から選ばれて交代で就任していました(三管領)。

そして他の家でもそうであったように、応仁・文明の乱の口火をきることになった三管領の一つである畠山家にも家督争いが起こっていました。

畠山家の当主、持国(もちくに)には嫡出の男子が無かったことから、弟の持富(もちとみ)を家督継承者としていました。その後、持国40歳のころ、待望の男子(後の義就(よしなり))が生まれますが、嫡子とは認められなかったこともあって、持国は持富の家督継承者としての地位を変更しませんでした。

ところが、文安(ぶんあん)5年(1448)11月、突如として持富を家督継承者から外し、庶子の義就を家督継承者としました。が、享徳(きょうとく)3年(1454)一部の有力な家臣たちはこれに猛反対し、新たに持国の甥で故持富の子の弥三郎(やさぶろう)を家督継承者に擁立しようとします。

ここに畠山家内において、弥三郎派と義就派の二派に家臣団が分かれての争いが始まることとなります。しばらくして弥三郎が亡くなるとその弟、政長(まさなが)がその後を引継いで、義就と家督を巡って争うことになります。

乱の勃発

応仁の乱勃発地の石碑
応仁の乱勃発地の石碑
御靈神社の西側に立つ石鳥居の脇で静かにその歴史を伝えています。

政長と義就、双方とも一進一退の駆け引きを繰り返す中、寛正(かんしょう)元年(1460)についに政長が家督を得ました。そのため、家督争いに敗れた義就は河内国(かわちのくに)(現大阪府東部)に没落の身となります。

そして寛正5年(1464)にはついに政長が管領に就任することとなりました。

ところが、文正(ぶんしょう)2年(1467)の年頭を迎えた正月2日、政長は突如として管領を解任され、政長と家督を争っていた義就が幕府に出仕し、室町幕府第8代将軍足利義政(よしまさ)に対面することが許されたのでした。これは、これより起こりくる応仁・文明の乱での一方(西軍)の将、山名持豊(もちとよ)(宗全(そうぜん))の画策によるものだったのです。

そして正月6日には、政長に対して、その邸宅を明け渡すようにとの接収命令が下されたのでした。 政長は邸の引渡しを拒否するとともに、戦闘の準備に入ります。正月8日には、山名持豊方の斯波義廉(よしかど)が管領に任命されます。これによって、畠山家の家督争いは義就に有利に進むこととなります。

正月15日、応仁・文明の乱で山名持豊に対抗する片方(東軍)の将で、政長を支援する細川勝元(かつもと)らが将軍義政に面会して義就を討つように申し入れようとしましたが、山名持豊方に阻止されるという事件が起きます。山名持豊、細川勝元双方の軍勢はそれぞれが支援する義就、政長の助勢をしようといよいよヒートアップし、手勢の手配をします。蛇足ながら、細川勝元は、先の宝徳2年(1450)に龍安寺を建立したことでも知られています。

このような状況を聞いた将軍義政は、翌16日、山名持豊、細川勝元らに対して、畠山家の家督争いに助勢することを禁ずる命令を下します。

「諸家如此募テ贔負互ニ於合力ハ天下安穏ナルマジ。所詮兩畠山ノ事ハ各不合力。只逢手向ノ執逢ニシテ可勝負ト被仰出ケル。」

(「諸家がこのように集まって贔屓(ひいき)し、互いに合力しようとするのでは、天下は安穏ではあるまい。あくまでも義就と政長だけによる畠山家の家督争いとして勝負をつけさせたらよい」と(将軍家(義政)が)仰せ出された。)

(『群書類従 第二十輯 合戦部 〜應仁記〜』)

これに対して細川勝元は、山名持豊方も義就に助勢しないことを条件として、これを受け入れたのでした。

正月17日夜、政長は、邸を自焼(じしょう)して、支援者である細川勝元の邸の近くにあった御靈神社の御靈の森に陣を張ります。

そして愛宕山(あたごやま)から吹き下ろす強風に混ざった雪が飛び散る翌18日早朝(午前4時〜6時頃)には、義就の軍勢が御靈神社に押し寄せ、戦闘が始まります(御靈合戦(ごりょうがっせん))。

政長の軍は小勢ながら、押し寄せてくる義就の軍を力を振り絞って押し返し、その日の夕刻まで戦いは続きます。そして夜になってくると両軍とも「夜の合戦はどうにもならない」ということで、一旦、対陣して人馬を休息させます。その時政長が、支援者である細川勝元の元へ使者を送ります。「助勢は将軍家から禁止とされているのでこの事は止むを得ません。ついては政長殿と共に最後の祝宴をあげ、一緒に腹を切ろうと思いますので、酒樽を一つ貰えないでしょうか」、と頼みます。この間のやりとりを聞いていた細川勝元は一計をめぐらします。そして、今回の戦いでは政長に分が悪いので、政長らが自害したように見せかけて一旦この場を逃れ、別の好機を伺って義就はもとより山名持豊らを討とう、との考えを伝えます。この計画が政長に伝わると政長はなるほどと合点し、闇の迫る中、早速御靈神社の拝殿に火をかけて自害を装い、御靈神社南側の相国寺の藪の中をくぐり抜けて逃走したといいます。

将軍家からの助勢禁止の命が出ていたとはいえ、細川勝元方も、また山名持豊方も軍勢を集結させていつでも助勢に入れるようにと態勢を整えてはいましたが、その助勢が入る前に政長が逃走したため、この時点では両軍に助勢が入り込んでの大乱にまで拡大することは避けられたといえます。

この後も他の有力守護大名家内の家督争い、守護大名間の対立、室町幕府と守護大名との対立、そして将軍家の家督争いといった多様な要因が絡まって、京都をはじめとして全国各地に内乱が勃発していくこととなります。室町時代末期の文正2年(1467)の正月(3月に応仁(おうにん)と改元)に御靈神社で勃発した畠山家の家督争いに端を発した戦いは、これよりますます拡大していくことになる応仁・文明の乱のさきがけとなったのでした。

乱の拡大、そして戦国時代へ

御靈神社での合戦(かっせん)は政長の敗北(逃走)により、表面上は畠山家内部の私闘ということで一応決着したかのように見えました。

しかしながら当時、武家政権は一貫して私闘を禁止していました。にもかかわらず一旦内紛が起こった場合には室町幕府が仲介して鎮め、その権勢を維持してきたのでした。

したがって、先の畠山家の家督争いの中で足利将軍家が畠山家の合戦(私闘)を認めた(抑えることができなかった)ことは、幕府権力の衰退をさらけ出したことになったのでした。

その結果、先の畠山家の私闘を契機に、戦闘は京都にとどまらず全国各地へと広がっていくことになります。

文明(ぶんめい)5年(1473)には、山名持豊、細川勝元の相次ぐ死によって一旦は和睦の気運が高まろうとしますが、その後も各地での合戦は続き、応仁・文明の乱が始まって11年目の文明9年(1477)、乱の一因ともなった義就が政長の追討を名目に河内国に下国し、つづいて西軍の有力大名大内政弘(おおうちまさひろ)らも京を去って領国へ帰ったことから、同年11月、西軍は事実上解体するところとなり、京での戦闘はやっと終息を迎えることとなったのでした。そして室町幕府によって10年以上に及んだ応仁・文明の乱の幕が降ろされたのでした。

とはいえ、義就と政長はその後も畿内(きない)で戦闘を繰り広げ、両者の戦いが終結したのは、室町幕府が応仁・文明の乱の終結宣言をしてから8年後の文明17年(1485)12月でした。

応仁・文明の乱の過程の中で、室町幕府の権力は確実に衰え、全国への影響力は弱まっていくこととなります。応仁・文明の乱後、将軍足利義政が東山(ひがしやま)山荘(後の銀閣寺(慈照寺))造営で全国への段銭賦課(たんせんふか)による費用調達が失敗に終わり、山城の寺社本所領(ほんじょりょう)に負担させるかたちでしか実現できなかったことに見られるように、もはや守護大名は足利将軍の威光など気にも留めないようになっていたのです。

こののち世の中は、戦国時代の幕開けへとつながっていくことになります。

写真集写真集(12枚の写真が表示されます。)
写真 
正面の鳥居
御靈神社の西に立つ鳥居で、その奥に見えるのは、江戸時代中期に再建されたとされる楼門(ろうもん)です。この楼門をくぐった先に、拝殿、本殿が並んでいます。
写真右下には「応仁の乱勃発地」の碑が小さく見えます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
祭神 早良親王ほか13柱
創建年 延暦13年(794)
主な祭事 御霊祭(5月18日)ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 楼門(西門)
  2. 応仁の乱勃発地の碑
  3. 芭蕉句碑
  4. 拝殿
  5. 本殿
  6. 絵馬舎
  7. 清明心の像
  8. 南門
  9. 上御霊前通
  10. 烏丸通
  11. 賀茂川(※1)
  12. 相国寺(※2)
  13. 京都御所(※3)
  14. 京都御苑(※3)
  15. 賀茂御祖神社(下鴨神社)(※3)
  16. 糺の森(※3)
  17. 河合神社(※3)
  18. 大徳寺(※3)
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図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 21:10 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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