
「迷いの窓」と「悟りの窓」
紅葉の季節に訪れると、また違った風情を楽しめそうです。
稀代の芸術家、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が徳川家康(いえやす)から拝領し、理想郷とも言える芸術村を築き上げた洛北の地、鷹峯(たかがみね)。かつては山林だったという鷹峯も今では紅葉の名所として知られています。
そんな鷹峯の一画に、「迷いの窓」と「悟りの窓」の方円二つの窓で知られる源光庵(げんこうあん)はあります。
沿革
源光庵は、臨済(りんざい)宗大徳寺の開山、宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)の後を継いで第2世住持を務めた徹翁義亨(てっとうぎこう)が、南北朝時代の貞和(じょうわ)2年(1346)に隠居所として創建したものと伝わります。
しかしその後衰退し、江戸時代中期の元禄7年(1694)、卍山道白(まんざんどうはく)が源光庵の住持として迎えられるにおよんで曹洞(そうとう)宗の寺院として復興されました。
卍山道白は、それまで世界で最初に受動喫煙被害を指摘(1776年)したとされていたドイツの詩人ゲーテに40年先んじて、受動喫煙・残留受動喫煙の害について医学的報告(1736年)を行なったとして注目を浴びた人でもあります。
「迷いの窓」と「悟りの窓」
本堂北側の壁に並ぶ四角い形と丸い形をした二つの窓。
訪れた人は本堂に坐してこの二つの窓をじっとみつめます。そして知らず知らずのうちに、二つの窓が語る意味をつかもうとします。
四角い形をした窓は「迷いの窓」と呼ばれます。人間の生涯を角形にして象徴し、生老病死などの四苦八苦を表しているといいます。

「迷いの窓」
一方、丸い形をした窓は「悟りの窓」と呼ばれます。円は大宇宙を指し、智慧によって悟られた絶対の真理は、あまねくゆきわたり、その作用は自在であるという意味の「円通(えんつう)」(「周円融通」の略)の心を表すといいます。

「悟りの窓」
実はこの、窓を介して心と対話する行為そのものが、禅の真髄に通じるといいます。
鳥居元忠
源光庵の本堂の天井には、手形、足形の痕跡が見られます。これは安土桃山(あづちももやま)時代終期の慶長(けいちょう)5年(1600)、徳川家康の家臣で、当時留守居(るすい)となって伏見城をあずかっていた鳥居元忠(とりいもとただ)らが、石田三成(みつなり)方の軍勢を伏見城で迎え撃った関ヶ原の戦いの前哨戦に敗れ、自刃した時の血痕の跡と伝わるものです。
豊臣秀吉が世を去ると、次の覇権を狙って徳川家康が台頭しだします。これを阻止しようと豊臣家五奉行の一人、石田三成が動き出します。石田三成は、上杉家の家老である直江兼続(なおえかねつぐ)に接近します。これにより直江兼続は、豊臣政権で五大老のひとりとして重きをなした主君、上杉景勝(かげかつ)と慶長4年(1599)8月に所領120万石の会津に帰国します。そして、領内の山道を開き、武器や兵力の増強を進める一方、黒川城(鶴ヶ城)をはじめとして周辺の城砦を整備するという軍備増強に着手します。
この軍備増強は徳川家康の耳に入るところとなります。慶長5年(1600)正月、上杉家の老臣藤田信吉(のぶよし)が年賀のため上洛したおり、伏見で徳川家康に面謁し、上杉景勝の上洛を促されます。
会津に戻った藤田信吉がその旨を上杉景勝に報告すると、上杉景勝は藤田信吉が徳川家康に通じたのではないかと疑って謀殺しようとします。これを事前に察知した藤田信吉は会津から逃れ、江戸にいた徳川家康の三男、秀忠のところに逃げ込むという事件が起きます。
同年四月、徳川家康は、軍備増強から藤田信吉出奔に関する一連の件について、上杉景勝に上洛して弁明を求める使者を出します。
が、上杉景勝がこれを拒絶したことから、徳川家康はこれを豊臣家に対する反逆的行為と見なし、軍勢を整えて会津の上杉討伐を開始することとなります。
同年6月、伏見城に入った徳川家康は会津への出陣にあたり、誰も手を挙げて名のり出る者もなく決めかねていた伏見城の留守居役に鳥居元忠を命じます。この時鳥居元忠にあずけられた兵力はわずか1,800名ばかり。しかも、危急に際し救援に駆けつけてくれる軍勢もありません。伏見城は上方における徳川家康の唯一の拠点であり、会津に向かった徳川家康の後を追う石田三成の進路を阻む城ともなります。それ故、徳川家康の会津遠征中に石田三成が兵を挙げれば真っ先にその攻撃対象となる伏見城。しかし、これから会津の上杉討伐へと赴く徳川家康にとってその兵力を余り割くわけにもいかず、「兵が少なくてすまぬ」と徳川家康が鳥居元忠を呼んでねぎらったといいます。
鳥居元忠は、徳川家康よりも3歳年上ですが、室町時代末期の天文(てんぶん)20年(1551)、13歳の時に父に伴われて駿府(すんぷ)に赴き、今川家の人質となっていた10歳の竹千代(徳川家康の幼名)に近侍して以来50年近くにもなろうとする古いつきあいです。
かつて、鳥居元忠は豊臣秀吉から官位を授けられる沙汰を受けたことがありました。しかし、鳥居元忠は徳川家康、豊臣秀吉の二主へ「忠を尽くす道を知り申さず」と言い、あくまでも自分の主君は徳川家康であることに固持し、豊臣秀吉からの官位授与を固辞したといいます。
6月18日、徳川家康は会津に向かって伏見城を出発します。
それから一月後の7月18日、石田三成は徳川家康打倒の40,000余の軍勢を結集させ、伏見城をあずかる鳥居元忠のもとへ伏見城を明け渡すようにとの使者を送ります。鳥居元忠はこれを拒否して使者を追い返します。
こうしてその翌日の19日の夕方から宇喜多秀家(うきたひでいえ)を総大将とする石田三成方の軍勢による猛攻が始まります。
これに対して鳥居元忠は、徳川家康からあずかったわずか1,800人余の兵で防戦します。最初から形勢不利な展開の中で、鳥居元忠は、主君、徳川家康に降りかかる難を排除するのが我々の任務であるとして、自害することを許さず、命ある限り戦うよう家臣に命じます。しかし多勢に無勢、善戦空しく力尽き、大将として匹夫(ひっぷ)に討たれるよりは、と遂には自害することとなります。享年62。この時、討ち死にせずに残っていたおよそ380名の家臣が次々と自刃したといいます。
伏見城は、豊臣秀吉が築き上げた巨郭であるとはいえ、兵力差からすれば鳥居元忠の軍がはじめから圧倒的に不利な状況の中において予想外の奮戦を繰り返したことから、石田三成方は苦戦を強いられました。しかし開戦から10日以上も持ちこたえた8月1日、伏見城はついに落城します。
こういう結果になるであろうことは、戦国武将の習いとして、会津へと向かった徳川家康も、伏見城をあずかった鳥居元忠も、初めからその覚悟があったのかもしれません。鳥居元忠は、むしろ、甲冑(かっちゅう)をまとっての武士としての死に場所をここに求めたのかもしれません。
徳川家康への忠誠を貫いた鳥居元忠は、忠臣の典型としてその名を知られています。
後年、源光庵では供養のために、鳥居元忠らが自刃した時のおびただしい血痕が残っていた伏見城の床板の一部を天井として移したといいます。
血痕が残っていた伏見城の床板は、源光庵の他にも「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、宇治市の興聖寺にも伝えられています。
後日談
すでに徳川の世となり、伏見城落城から26年ほど経ったある時、山形藩22万石の領主となっていた鳥居元忠の次男、忠政(ただまさ)はその江戸藩邸で、雑賀孫市重次(さいがまごいちしげつぐ)という人から、人を介して、「御尊父(ごそんぷ)の形見の御物具(おんものぐ)をお返ししたい」という申し出を受けます。
鳥居元忠の自害を見届け、その首級を挙げたのは雑賀孫市重次の父、重朝(しげとも)という人でした。鳥居元忠がその最後に身に着けていた甲冑や刀剣などが父の重朝から子の重次に祖先の勲功として伝えられていたのです。
鳥居忠政は喜んでこの申し出を受け、物具を持参して鳥居家を訪れた雑賀孫市重次を丁重にもてなします。鳥居忠政は父、元忠がその最後に身に着けていた甲冑や刀剣などの物具を床の間に飾ると、亡き父に対面した思いで非常に喜び、泣いて拝んだといいます。
翌日、鳥居忠政は雑賀孫市重次に使者をたててこの度の礼を改めて述べ、「見苦しゅうはござるが、この物具は貴家の子孫に伝えて、祖先の手柄として引き継いでいただきたい」と厚意を謝し、すべて返却したといいます。
それから毎年冬になると鳥居忠政は水戸の雑賀家まで使者を遣わし、厚い綿入れ四、五領を贈り、生涯音信(いんしん)を通じたといいます。
この事を耳にした雑賀孫市重次の主君、徳川頼房(よりふさ)は、毎年鳥居忠政からの使者がくる時期には家臣に命じてあらかじめ道や橋を修理させ、その使者を饗応するための魚や鳥などを雑賀家に与えたといいます。
写真集(13枚の写真が表示されます。)
照りつける太陽の日射しと参道沿いの濃い緑は初夏の息吹を感じさせます。
山門をくぐると正面に本堂が見えてきます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 鷹峰山寶樹林源光庵 |
| 所在地 | 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495 |
| 山号 | 鷹峰山 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 釈迦牟尼(釈迦如来) |
| 創建年 | 貞和2年(1346) |
| 開基 | 徹翁義亨 |
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