一乗寺下り松
〜古都・スポット風景〜

一乗寺下り松
一乗寺下り松
この界隈は、現在では周囲を民家やお店などに囲まれた静かな町ですが、下り松をじっと見ているとはるか昔のここでのでき事が偲ばれます。

叡山電車の一乗寺(いちじょうじ)駅から東へ600メートルほどなだらかな上りの坂道を進むと、四辻の右手に、石垣で囲まれた小さな広場が見えてきます。そこには1本の松の木があり、「宮本吉岡決闘之地」と「大楠公(だいなんこう)戦陣跡」としるした2つの石碑が建立されています。この松が一乗寺の下り松(さがりまつ)といわれるものです。

その名は古くから文献にもあらわれるとされ、一乗寺は比叡山(ひえいざん)の西麓に位置するところから、この地にあった下り松は平安時代の頃より比叡山や近江国(おうみのくに。京都の隣りの現滋賀県に相当。)に通じる雲母坂(きららざか)や白鳥越(しらとりご)えに至る道の目印とされ、交通の要衝とされてきたといわれていて、旅人の目印として植え継がれてきたといいます。雲母坂は修学院の修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の南脇、あるいは一乗寺の曼珠院(まんしゅいん)の北側より比叡山に至る古道で、今日では登山道として知られています(下記写真集参照)。一方、一乗寺から比叡山東坂本穴太(あのお/あのう)に至るとされた白鳥越えについては正確な経路は分かっていません。

一乗寺下り松にまつわる話を以下に掲載します。

布教への道

比叡山延暦寺の西塔(さいとう)の黒谷(くろたに)の青龍寺(せいりゅうじ)で修行していた法然(ほうねん)は、平安時代末の文治(ぶんじ)元年(1185)ころ、新しい仏教の浄土教を京の都でひろめようとして、黒谷の坊を出ると西南の方へと雲母坂を下って山を降りて京の都(みやこ)にゆき、説教を終えると山に戻っていました。法然は、下山しては教えを説きそして山に戻る・・・を繰り返していたのです。その往復の際にしばしば通っていたのがこの下り松のそばであったといいます。

合戦の陣

およそ半世紀に及んだ南北朝動乱の歴史を描いた軍記物語『太平記(たいへいき)』によると、建武(けんむ)の新政を開始した後醍醐(ごだいご)天皇に反旗を翻して、鎌倉から京への進軍を開始した足利尊氏(あしかがたかうじ)は、建武3年(1336)1月11日、入京を果たし、京都を一時支配下に置きます。

一方、後醍醐天皇は比叡山へ退きます。

こうして京都を舞台にした足利尊氏方と御醍醐天皇方との闘いが繰り広げられることになります。そうした中、京都奪還に向けて後醍醐天皇を擁する楠木正成(くすのきまさしげ)、結城宗広(ゆうきむねひろ)、名和長年(なわながとし)らは、同年1月27日、比叡山から京都の北西の地、修学院(しゅうがくいん)へと繋がる西坂(雲母坂)を下って、そこからほど近い一乗寺の下り松に陣を構えます。

それから3日後の1月30日の戦いで敗れた足利尊氏は丹波の篠村(しのむら)八幡宮(京都府亀岡市篠町)に撤退します。そして翌2月11日には、足利尊氏は豊島河原(てしまがわら)の戦い(大阪府箕面(みのお)市・池田市)で後醍醐天皇方の新田義貞(にったよしさだ)軍に大敗を喫し、ついに京都を放棄して一旦九州に逃れるところとなっていきます。

一乗寺下り松は、後醍醐天皇方の京都奪還のための足場の一つとなっています。

一乗寺の決闘

江戸時代初期の慶長(けいちょう)9年(1604)には、新進の剣豪宮本武蔵(みやもとむさし)が、京都の剣法者として伝統的な盛名を誇っていた吉岡憲法(けんぽう)の一門に単身で闘いを挑み、奇襲戦法で大勝利をおさめたところとしても広く知られています。

ただ宮本武蔵自身は、晩年に書いたとされるその兵法書『五輪書(ごりんのしょ)』においては「・・・二十一歳にして都(みやこ)へ上り、天下の兵法者に会ひ、数度(すど)の勝負を決すといへども、勝利を得ざるといふことなし。・・・」(・・・二十一歳、都に上り、諸国から集まった兵法者に出会い、数多くの勝負をしたが、勝ちを得ないことはなかった。・・・)と記すのみです。

現在の松は、その当時からは4代目といわれています。当時の下り松と伝わる枯れ株が、八大神社(はちだいじんじゃ)に安置されています。八大神社は、一乗寺下り松のところから東の方へとつながる坂道をおよそ300メートル登ったところにあり、吉川英治(よしかわえいじ)の『宮本武蔵』にも登場しています。

宮本武蔵は吉岡一門との決闘前に偶然この社(やしろ)を訪れ、「八大神社」と書かれた拝殿の額を仰いで大きな力を味方に持ったような気がした、と宮本武蔵の気持ちを言い表しています。しかし一方では、神を信ずるも「さむらいの道」には、恃(たの)む神などというものはない、と悟った場所として描かれています。

一乗寺の地名

「一乗寺」の地名は、平安時代にあった園城寺(おんじょうじ)系の天台寺院にちなむものとされています。その創建については不明とされていますが、平安時代中頃の永延(えいえん)2年(988)に円融(えんゆう)天皇が一乗寺に止宿したことが記されています(『日本紀略(にほんきりゃく)』)。また、上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)(一条天皇中宮(ちゅうぐう)で藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘)が康平(こうへい)6年(1063)、一乗寺(三井寺(みいでら)一乗院)を供養したことが伝えられています(『百錬抄(びゃくれんしょう)』)。

保安(ほうあん)2年(1121)、一乗寺は、延暦寺衆徒(しゅうと)の焼討ちに遭ったと伝えられています。その後再興されたといいますが、南北朝争乱の兵火ではついに焼亡したといい、その跡地は今日では不詳とされています。

写真集写真集(13枚の写真が表示されます。)
写真 
一乗寺下り松にある石碑1
「宮本吉岡決闘之地」の碑。

【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 一乗寺下り松
  2. 一乗寺道
  3. 曼珠院道
  4. 金福(こんぷく)寺
  5. 詩仙堂
  6. 八大神社
  7. 白川通
  8. 北大路通
  9. 高野川(※1)
  10. 曼殊院(※2)
  11. 修学院離宮(※2)
  12. 雲母坂入口〜標識1〜(※2)
  13. 雲母坂入口〜標識2〜(※2)
  14. 音羽川(※2)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【近隣観光マップ】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 17:53 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このページの先頭へ戻る