曼殊院

勅使門横の紅葉と塀
勅使門横の紅葉と塀
門跡寺院(もんぜきじいん。皇族や上級貴族の師弟の住する寺。)としての格式を伝える5本の白い筋が入った塀の前で紅くなって彩りを添えるカエデ。
紅葉の美しい光景を見ようと、連日多くの人が行き交います。

曼殊院(まんしゅいん)は、比叡山(ひえいざん)を主峰とする東山三十六峰に連なる修学院山(しゅうがくいんやま)、一乗寺山(いちじょうじやま)に抱かれて建つ、洛北屈指の名刹です。妙法院(みょうほういん)、三千院青蓮院(しょうれんいん)、毘沙門堂(びしゃもんどう)と並ぶ京都の天台五箇室門跡(ごかしつもんぜき)の一つに数えられています。「竹内(たけのうち)門跡」「竹裡(ちくり)門跡」「竹ノ内御殿」とも呼ばれます。

曼殊院一帯にはたくさんの桜や楓なども植えられており、季節に応じた山里の風情が心地よく感じられます。

比叡山の一宇から

奈良から北へおよそ40キロメートルいった長岡の地を経て京都へ都が遷された桓武(かんむ)天皇の時代、即ち平安朝の初め、伝教大師最澄と弘法大師空海という二人の高僧が出ます。その片方の一人、比叡山に天台宗を開いた最澄が、延暦(えんりゃく)年間(782〜806)、山上に国家鎮護の道場として薬師堂などとともに一宇を建立します。曼殊院の沿革は、その一宇にさかのぼることになります。

その後、平安時代中期の初めごろの天暦(てんりゃく)年間(947〜957)、是算(ぜさん)国師の代になって比叡山西塔(さいとう)の北谷に移り「東尾坊(とうびぼう)」と号して本拠をなします。

是算国師は、菅原家の出身であったことから、菅原道真(すがわらのみちざね)を主祭神とする北野天満宮創立(天暦元年(947))にあたって、北野天満宮の初代別当職(べっとうしき)(責任者)に補せられて兼務するところとなります。こうして是算国師以後、北野天満宮の別当職は、曼殊院の歴代住持によって明治元年(1868)3月の神仏分離令が出されるまで、九百数十年の長きにわたって受け継がれてゆくことになります。

比叡山を降りて北山へ

「東尾坊」は一時期、「善法院」とも呼ばれたこともあったといいますが、平安時代後期の天仁(てんにん)年間(1108〜1110)に、是算国師から八代後の住持となった忠尋(ちゅうじん)大僧正が「曼殊院」と改めます。

「曼殊」は、サンスクリット語の「マンジュ」で、「妙楽」、「愛楽」の意味。即ち、妙(たえ)なる楽しみ、愛らしい楽しみといった理想の世界の意、と言われています。

比叡山西塔にあった曼殊院と別当職を務めた洛中の北野天満宮とは遠く離れていたことから、繁忙な寺務対処の必要もあって永久(えいきゅう)年間(1113〜1118)には、比叡山西塔から西南の方角に離れた葛野(かどの)郡北山(きたやま)に別院を設けることとなります。そして次第にこの別院が実質的な本拠となってゆき、曼殊院はこの北山の別院に移ってゆくことになります。

写真集1≪紅葉≫写真集1≪紅葉≫(7枚の写真が表示されます。)
写真 
寺標
初夏の頃の緑に覆われた清々(すがすが)しい光景とは打って変わって、紅葉した色鮮やかな中にもしんみりとした風情が漂っているようです。

北山から御所の北へ

しかし、すこし時が下った南北朝時代の康暦(こうりゃく)年間(1379〜1381)には、この北山の曼殊院の近くにあった山荘(先の鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)が建てた山荘)を室町幕府第三代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が譲り受けて山荘北山殿(きたやまどの)を造営することとなります。のちの鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺)です。

このことから、北山にあった曼殊院は、移転を余儀なくされることになります。こうしてその移転先となったのが、京都御所の北側でした。「御所の北清閑寺、野宮両家のあたり」といい、現在の相国寺(しょうこくじ)の南で、京都御所を囲む京都御苑の北側を東西に走る今出川通(いまでがわどおり)を挟んで向かいにある同志社大学構内辺りとみられています。

御所の北から一乗寺の地へ

室町時代中期の文明(ぶんめい)年間(1469〜87)に、後土御門(ごつちみかど)天皇の猶子(ゆうし)であった慈運大僧正が26代として入寺して以後、曼殊院は、門跡寺院となります。

その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)らのはからいもあって寺勢が高められ、江戸時代初期の明暦(めいれき)2年(1656)には、29代門主を継いだ良尚法親王(りょうしょうほっしんのう)の奏請(そうせい)によって、御所の近くから、比叡山南西麓に位置する、現在の一乗寺へ移転が行われ、堂舎が造営されることとなりました。

竹裡門跡、院宇北山、後禁中之境内、歳久クシテ、又明暦二丙申(ひのえさる)年一乗寺也・・・

(『群書類従第5輯系譜部・伝部・官職部−諸門跡譜−』)

良尚法親王は、桂離宮(かつらりきゅう)を造営した八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王の第二子で、茶道・華道・香道・書道・歌道をたしなみ、すぐれた教養人・文化人として知られ、父智仁親王以上に多能多才の人であったとも言われています。

大(おお)書院、小(こ)書院、宸殿、仏殿、庫裡(くり)などの殿舎が建てられ、現存する建物の多くはこのときのものとされます。また江戸時代の枯山水(かれさんすい)庭園として著名な曼珠院書院庭園(国名勝)も、この時に良尚法親王の指導のもとで作庭されたと見られています。

比叡山を降りて三度目の移転先となった、曼殊院の新しい一乗寺の地は、創建の地であった比叡山のお膝元で、西塔へも雲母坂(きららざか)を辿ればほど近く、また洛中にも近いという位置にありました。加えてその景観は変幻自在な四季の移り変わりを写し出し、高い身分の名声ある人たちが山荘を営んだ静寂の里でもありました。

良尚法親王は、曼殊院の中興開山と位置づけられています。

写真集2≪初夏≫写真集2≪初夏≫(40枚の写真が表示されます。)
写真 
寺標
「曼殊院門跡」と彫られた寺標が新緑の中に清々しく見えます。
写真右側に見える道は、高野川(たかのがわ)沿いに走る川端通(かわばたどおり)から叡山(えいざん)電鉄の一乗寺駅の南を抜けて東へと延び曼殊院門前に至る曼殊院道(まんしゅいんみち)です。この辺りは急な上りがしばらく続きますが、ここまで来ればもう少しです。
≪関連情報≫
項目 内容
別称 竹内門跡、竹裡門跡、竹ノ内御殿
所在地 京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
山号 なし
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 天暦年間(947〜957)
開基 是算
文化財
国宝
絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王像(黄不動)、古今和歌集(曼殊院本)1巻
重要文化財
大書院、小書院、茶室八窓軒(はっそうけん)、上之台所(かみのだいどころ)、木造慈恵大師(じえだいし)坐像、竹虎(ちくこ)図ほか
名勝
曼殊院書院庭園

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 曼殊院道
  2. 曼殊院天満宮(仮称)
  3. 天満宮
  4. 弁天堂
  5. 弁天池
  6. 勅使門
  7. 北通用門
  8. 庫裡
  9. 大玄関
  10. 渡り廊下
  11. 護摩堂
  12. 大書院
  13. 小書院
  14. 上之台所
  15. 鶴島
  16. 亀島
  17. 梟の手水鉢
  18. 雲母坂方面へ
  19. 音羽川(※1)
  20. 雲母橋(※1)
  21. 雲母坂へ(※1)
  22. 修学院離宮(※1)
  23. 圓光寺(※2)
  24. 八大神社(※2)(「一乗寺下り松」参照)
  25. 詩仙堂(※2)
  26. 一乗寺下り松(※2)
  27. 高野川(※3)
  28. 川端通(※3)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。
※3.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 14:19 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このページの先頭へ戻る