
三門
禅宗(臨済宗)寺院の寺格、官寺(かんじ)制度である五山の制で、「五山之上(ござんのじょう)」として京都・鎌倉両五山の上位にただ一つ置かれた南禅寺(なんぜんじ)。最高の寺格を与えられた南禅寺の住持には、五山の住持の中から任ぜられたことから一流の名僧が歴代の住持となり、繁栄の時代を築いてきました。
ただ、鎌倉後期創建以来の南禅寺の歴史の中で、室町時代の明徳(めいとく)4年(1393)と文安(ぶんあん)4年(1447)に大火に見舞われたことから伽藍のほとんどを焼失します。が、この時は二度ともほどなく再建されることとなります。しかし、その後起こった応仁・文明の乱(1467年〜1477年)では南禅寺境内が戦場と化し、伽藍をことごとく焼失してからは100年以上もの長きにわたって、再建も思うにまかせない状態となります。こうしたことから、中世にさかのぼる建造物は遺されておらず、現存のものは桃山時代以降のものとなっています。
その後、戦国の乱世も落ち着きを取り戻すと、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)らからの寄進に加え、特に南禅寺復興が、京都御所の旧殿を取り壊しての建て替えを行なった徳川家康による慶長(けいちょう)期の内裏(だいり)造営(1613年)と重なったことも幸いして伽藍の再建が推し進められたのでした。
こうして南禅寺は、今日へと受け継がれてきています。
亀山上皇、落飾して法皇へ
南禅寺は、鎌倉時代の半ば過ぎ、第90代亀山天皇が即位五年目の文永(ぶんえい)元年(1264)に生母大宮院(おおみやいん)の離宮として建てた禅林寺殿(ぜんりんじどの)を、正応(しょうおう)4年(1291)に禅寺・禅林禅寺と改めたことに始まります。因みに、この禅林禅寺は南禅寺の最初の寺名ということになります。
亀山天皇は後嵯峨天皇の皇子であり、大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれる皇統の祖でもあります。そして兄は第89代後深草天皇で、持明院統(じみょういんとう)と呼ばれる皇統の祖でもあります。
そしてこの両党をめぐる皇位継承に、時の鎌倉幕府第8代執権、北条時宗(ほうじょうときむね)が干渉したことから問題が生じます。
すなわち、後深草天皇、亀山天皇が順次退位後、亀山天皇の皇子である後宇多天皇が践祚(せんそ)されるとその皇太子を巡って時宗が持明院統を後押しするかのように、後深草天皇の皇子(後の伏見天皇)を皇太子としたのでした。ここに大覚寺統と持明院統との対立が始まることになります。
更に、時宗の子で第9代執権貞時(さだとき)の時にも皇位継承に干渉して、持明院統から立太子されたことで、亀山天皇の系統である大覚寺統は政権から全く外された形となってしまいました。
そのため、それまで院政に携わってきた亀山上皇は政治とは無縁の立場に立たされることになったのでした。
こうした状況に対する憤懣の高まりの中、亀山上皇は正応2年(1289)、側近の諫言(かんげん)にも耳を傾けることなく、突如落飾し、法皇となったのでした。
写真集1(38枚の写真が表示されます。)
仁王門通と白川通が合流する南禅寺前交差点(下記マップ中の番号1.南禅寺橋)から東の方を望むと、東山(ひがしやま)の山々が京都の市街地のすぐそばに感じられます。
写真正面に見える赤信号で車が止まっている道を300メートル足らず奥へと行った所に南禅寺があります。
物の怪騒動が生んだ開創縁起
亀山天皇が離宮・禅林寺殿を建てる前にはこの地に、三井寺(みいでら)の道智(どうち)という僧が別院として建てた最勝院(最勝光院)があったといいます。道智は、東福寺を建てた九条道家(くじょうみちいえ)の子とされる鎌倉時代初期の僧で、禅林寺(永観堂)の住持もつとめ、また亀山天皇の父である後嵯峨天皇の護持僧も務めたことのある人です。
その後最勝院は荒廃しますが、禅林寺殿はその荒廃の跡地に建てられたものでした。
亀山上皇が法皇となって政界から身を引いた年の翌正応3年(1290)から正応4年の間に禅林寺殿でしばしば妖怪な事件が発生します。勝手に戸障子が開くかと思えば、得体の知れない何かの気配が感じられたりするので、物の怪(もののけ)が現れたのではないかと、禅林寺殿で働いていた人たちがそれに悩まされるという日々が続いていたのでした。
陰陽師(おんみょうじ)に占わせたところ、この地にかつて住んでいた僧の霊が残り、それが災いしていると言われます。
僧の霊とは、かつてこの地を愛して最勝院を建てて住んだ道智の霊で、それが昼夜を問わず現れ、禅林寺殿にいる人々を悩ましているとみられたのでした。
亀山法皇は怪異を退治する法力(ほうりき)のあることで知られている奈良・西大寺(さいだいじ)(真言律宗)の叡尊(えいそん)を招いて祈祷(きとう)させます。しかし、効き目はありませんでした。
そこで亀山法皇は、中国より帰朝して名声の高かった東福寺第三世住持無関普門(むかんふもん。大明国師(だいみんこくし)。)を招いて、物の怪を退散させるように依頼します。
この時、無関普門は80歳と高齢ながらも、直ちに東福寺より弟子二十名を率いて禅林寺殿に参じます。この二十名の弟子の首座(しゅそ。住持の次席で、修行僧の中で第一の位の者。)を務めたのが、後に南禅寺第二世住持となる31歳の規菴祖圓(きあんそえん)でした。因みに東福寺は禅林寺殿から直線距離で南へ6キロメートル足らずの所にあります。
無関普門らは清規に則り、ただ二時(にいじ)の食事(じきじ)(粥・飯)と午後8時・午前2時・午前10時・午後4時に行う四時(しいじ)の坐禅をして静粛に行事するだけでしたが、物の怪の気配は全く消え去ったのでした。
江戸時代後期の寛政(かんせい)11年(1799)に刊行された通俗地誌『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』にある南禅寺烏枢沙摩(うすさま。不浄を清める、の意。)には、坐禅中の無関普門と現れた物の怪の様子が描かれています。
物の怪を退散させることができたことを喜んだ亀山法皇は、以後無関普門に深く帰依して師事することを決意します。そして無関普門を開山としてここに離宮の禅林寺殿を禅宗寺院の禅林禅寺としたのでした。正応4年(1291)のことです。しかしこの開創の年の12月、無関普門は高齢の上に病を得て、12日の子ノ刻(ねのこく。午前零時前後。)に息を引き取ったといいます。
その後、禅林禅寺に代わる新しい名について思案していた亀山法皇が、無関普門亡きあと二世住寺となった規菴祖圓に相談すると「わたくしどもの禅は南宗禅(なんしゅうぜん)であります」と答えたといいます。これによって亀山法皇は新しい名称を「南禅寺」に定めた、と伝えられています。
禅林禅寺が南禅寺と呼ばれるようになるのは、鎌倉時代末の徳治(とくじ)3年(1308)頃とみられています。
写真集2≪春・秋≫(8枚の写真が表示されます。)
勅使門。
重要文化財。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 太平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺 |
| 所在地 | 京都市左京区南禅寺福地町86 |
| 山号 | 瑞龍山 |
| 宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 寺格 | 大本山、五山之上 |
| 創建年 | 正応4 年(1291) |
| 開基 | 亀山法皇 |
| 開山 | 無関普門(大明国師) |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 南禅寺橋
- 中門
- 勅使門
- 鹿ケ谷通
- 三門
- 法堂
- 本坊(庫裡)
- 大玄関
- 書院
- 大方丈
- 方丈庭園
- 唐門
- 渡廊下
- 小方丈
- 如心庭
- 蓬莱神仙庭
- 六道庭
- 鳴滝庭
- 龍吟庭
- 涵龍池
- 不識庵
- 龍渕閣
- 窮心亭
- 中庭と南禅寺垣
- 還源庭
- 水路閣
- 南禅院
- 天授庵
- 金地院
- インクライン(水路閣の記事参照)
- 無鄰菴
- 禅林寺(永観堂)
- 哲学の道(※)
- 平安神宮(北側には平安神宮神苑が隣接しています。)(※)
- 青蓮院(※)
- 知恩院(※)
- 円山公園(※)
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近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


