
華頂殿
腰を下ろして眺めていると実に静かな時が流れてゆきます。また、庭園には楓(かえで)も植えられていて、紅葉の時期には一味違った美しい景観が楽しめそうです。
かつて平安の昔より景勝の地として知られた粟田(あわた)。貴族は競ってこの地に住もうとしたといいます。そしてその粟田の地に古(いにしえ)よりの歴史を背負った青蓮院(しょうれんいん)はあります。
今日では、平安神宮應天門から南に向かって大鳥居をくぐり、三条通を過ぎて知恩院三門(国宝)、円山公園までと繋がる神宮道(じんぐうみち)が通り、東山(ひがしやま)の観光地を結んでいることから多くの観光客が行き交います。この通り沿いにそのシンボルともいえる楠(くすのき)の大木を従えて青蓮院は静かに立っています。
室町時代に起こった応仁・文明の乱(1467〜77)による戦火をはじめとした火災により、青蓮院は、その歴史の古さに比べて古い「建物」は残念ながら残されていません。現在の「建物」は殆ど明治26年(1893)以降の再建となっています。
青蓮院には、その裏山となる東山山頂に飛地境内の大日堂(だいにちどう)があります。ここには大日堂をはじめとして、鳥羽僧正の『将軍塚縁起絵巻』でも知られる将軍塚、青龍殿(せいりゅうでん)、京都市街を見下ろせる展望台があり、また桜・紅葉の名所としても広く知られています(将軍塚青龍殿)。
寺名、読みは「呉音」
改めて言うまでもなく同一漢字には複数の音(おん)があります。例えば、明白、明王でいうと、「明」は、前者は「めい」と読み、後者は「みょう」と読みます。
この 漢字の読み方(漢字の字音(じおん))には、漢音(かんおん)、呉音(ごおん)などと呼ばれるものがあります。
「漢音」は、8〜9世紀にかけて遣唐使や留学僧らによって日本に伝わったものといいます。
一方、「呉音」は、中国の三国時代に魏(ぎ)・蜀(しょく)と鼎立(ていりつ)して建てられた呉(ご。222〜280年。)の地方と交通のあった百済(くだら)人が日本に伝えたものとされ、漢音よりも古い時期に伝わっています。そして仏教が日本に伝来したのも飛鳥時代(592〜710年)と古かったことなどから、仏教関係ではすべて「呉音」を使うことになっているといいます。
先に掲げた明白、明王の場合、「めい(はく)」は漢音、「みょう(おう)」は呉音です。
さて、「青」は漢音で「せい」、呉音で「しょう」と読むことから、仏教関係では、寺名も含めて「しょう」と発音されるということになります。
このことから、「青蓮院」は「せいれんいん」ではなく、「しょうれんいん」と読まれることになります。
比叡山の一坊から
現在滋賀県と京都府にまたがる、最澄(さいちょう)がたてた天台宗総本山の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に、根本中堂(こんぽんちゅうどう)のある東塔(とうどう)に次いで西塔(さいとう)が開かれ、その後横河(よかわ)が開かれると、ますます増えて来た僧侶たちの坊舎が比叡山のあちこちの谷筋につくられてゆきます。こうして俗に「叡山三塔十六谷三千坊」と言われるほどにその規模が拡大します。
そういった中にあって、青蓮院は、東塔の南谷に建てられた、根本中堂を本堂と考える僧侶たちの住居(僧坊(そうぼう))の一つとして生まれます。そして、近くにあった青く澄んだ池に蓮の花が美しく咲いていたという青蓮(しょうれん)の池の名に因んでその名が付けられたといいます。当初は青蓮坊と呼ばれました。青蓮坊は、今日の延暦寺大講堂南崖下にある駐車場辺りにあったとされています。
青蓮坊には、宗祖最澄から慈覚大師円仁(えんにん)、安恵(あんね)といった天台宗で主だった人々が住み、受け継がれていったといいます。その後、転機を迎えることになる青蓮坊の第12代として行玄(ぎょうげん)が受け継ぎます。
平安時代後期の保延(ほうえん)4年(1138)、行玄は天台座主(ざす)に補されることになります。行玄は鳥羽上皇の信任も厚く、康治(こうじ)元年(1142)には鳥羽上皇の受戒の戒師を務め、鳥羽上皇は法皇となります。行玄は、久安(きゅうあん)元年(1145)には大僧正となり、また同6年(1150)には青蓮坊が、鳥羽法皇の皇后、美福門院(びふくもんいん)の御願寺(ごがんじ)となったことを機に、比叡山東塔の南谷において青蓮院と称するようになります。これが青蓮院としての始まりとなります。
そして、鳥羽法皇の第七子覚快法親王(かくかいほっしんのう)を入室させたことから青蓮院門跡(もんぜき)と号するようになり、行玄が初代の青蓮院門跡となります。門跡とは、親王や摂関家の師弟が住持となる資格を認められた高位のお寺、および、その寺の門主(主僧)を指します。
一方、この比叡山上の本坊青蓮院に対して、仁平(にんぺい)3年(1153)に鳥羽法皇の命によって里坊の金剛勝院が粟田口(あわたぐち)に建立されました。そこは三条通と白川の交差する東南の一角にあたり、この里坊は三条白川坊と呼ばれていました。この三条白川坊には、院の御所に準じた寝殿造りの建物が建てられることになります。
こうして、行玄は比叡山上の本坊・青蓮院と京の都での里坊・三条白川坊との二つを住み分けることになります。
三条白川坊が建てられてから半世紀経った鎌倉時代初期の元久(げんきゅう)2年(1205)、後鳥羽上皇が三条白川に御願寺の最勝四天王院を建てることになったことから、当時の青蓮院の第3世門主、慈円(じえん)は三条白川坊の敷地を後鳥羽上皇に返納し、旧地の東南(現在の円山公園の上の吉水大弁財天がある傾斜地)に坊舎を新築して吉水坊(きっすいぼう)と名付けました。
その後、最勝四天王院が移転したのを受けて、その跡地は返されたことから、嘉禎(かてい)3年(1237)に吉水坊は三条白川の旧地に戻って再び三条白川坊となります。
ところで、比叡山上の青蓮院本坊は火災などにより退転を繰り返し、南北朝時代の貞和(じょうわ)2年(1346)、比叡山を降りて青蓮院門跡の院家(いんげ。出家した貴族・皇族出身者が住職となって門跡に付属する寺。)と呼ばれた十楽院(じゅうらくいん)に移ります。青蓮院門跡の本坊が院家の十楽院に合体したかたちとなります。そして、この十楽院の隣には青蓮院の里坊の三条白川坊がありました。
こうして、三条白川坊と十楽院、そして山を降りてきた青蓮院本坊の三体が合体して大規模な門跡寺院となった青蓮院門跡が、貞和2年、現在地において動き出すこととなったのでした。
写真集1≪門前界隈≫(22枚の写真が表示されます。)
神宮道沿いに立つ「青蓮院門跡」の寺標、そして青蓮院のシンボルともいえる楠(くすのき)の大木が行き交う人の目を引きます。楠の大木は、その大きく広がった枝を神宮道の上にまで伸ばして行き交う人を見守っているようです。
最盛期
青蓮院は、第3世門主慈円(諡号(しごう)は慈鎮和尚(じちんかしょう))が当時の後鳥羽上皇をはじめとした皇室の信任が極めて篤かったことから、平安時代の末から鎌倉時代に及ぶこの時期に最も栄えたといわれています。
慈円は11歳で青蓮院に入寺、鎌倉時代初期の建久(けんきゅう)3年(1192)には38歳で第62世天台座主に補されます。その後、第65、69世と天台座主を務めた後、59歳で4度目の第71世天台座主となり、4度まで天台座主を務められる先例をつくった人でもあります。
また慈円は、不朽の名著として名高い歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』(承久(じょうきゅう)2年(1220)成立)を著わした人でもあります。
建久10年(1199)の源頼朝の死後、院政を推し進めようとする後鳥羽上皇の周辺は鎌倉幕府討幕に傾いていきます。
一方、後鳥羽上皇の護持僧も務め、また源頼朝と親交もあった慈円は、公武協調路線の立場をとっていたことから焦燥にかられます。
慈円を取り巻くこうした状況が、日本国創始以来の歴史をたどり、歴史のなかに流れている道理に基づいて、日本国のあるべき姿を明らかにしようとした『愚管抄』を著わすに至った背景として見ることができます。
武家出身の門跡、「籤引き将軍」へ
室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の4男、義教(よしのり)が、応永(おうえい)10年(1403)、10歳で青蓮院に入室し、同15年(1408)には得度して門跡となり義円(ぎえん)と名乗ります。同26年(1419)には第153世天台座主となり、「天台開闢(かいびゃく)以来の逸材」と呼ばれ衆目の期待を集めるところとなります。
一方、義教の兄で第4代将軍義持(よしもち)は子の義量(よしかず)に将軍職を譲って出家しますが、義量が早世したことから義持が法体(ほったい)のまま政務を司っていました。ところが応永35年(1428)1月に病を得て、その後、危篤に陥ります。そして、義持は将軍職の後継者を指名しないままこの世を去ってしまいます。そこで群臣たちが評議を開いた結果、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で籤(くじ)引きを行って次期第6代将軍を決めることとなったのでした。
次期将軍の候補となったのは、義満の子で、義持の弟である青蓮院門跡義円、相国寺(しょうこくじ)永隆(えいりゅう)、大覚寺(だいかくじ)門跡義昭(ぎしょう)、梶井(かじい)門跡(三千院)義承( ぎしょう)の4人でした。
籤引きの結果、後継者に決まったのは青蓮院門跡の義円でした。義円は当初辞退したといいますが、諸大名からの度重なる強い要請があったことから遂に将軍職に就くことを応諾します。これを受けて義円は、応永35年1月19日、青蓮院を退出することとなります。
義円は還俗すると義宣(よしのぶ)と名乗りましたが、正長(しょうちょう)2年(1429)に義教(よしのり)と改名し、征夷大将軍となります。
こうしたことから6代将軍足利義教は「籤引き将軍」とも呼ばれています。
将軍となった義教は、初めの頃には重臣の意見を聞き入れて政務に携わっていましたが、やがて専制政治を行うようになります。そして、細川氏を除いて、有力守護大名家である斯波(しば)氏や畠山氏の管領(かんれい)はもとより、赤松氏、京極(きょうごく)氏、山名氏、一色(いっしき)氏ら四職(ししき)に対しても「手入れ」を行うようになります。
そのため各守護大名は義教の手入れがいつ自分に向けられてくるかと考えて戦戦恐恐となります。
そこで、嘉吉(かきつ)元年(1441)、義教の魔手を逃れようとした大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)が先手を打つかたちで、「能見物」を口実に義教を西洞院(にしのとういん)二条の自邸に招き、上演中に殺害したのでした(嘉吉の変)。
写真集2≪院内≫(30枚の写真が表示されます。)
三十六歌仙の額絵と蓮の花の襖絵が目を引きつけます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 別称 | 青蓮院門跡、旧粟田御所 |
| 所在地 | 京都市東山区粟田口三条坊町69−1 |
| 山号 | なし |
| 宗派 | 天台宗 |
| 本尊 | 熾盛光如来 |
| 創建年 | 久安6年(1150) |
| 開基 | 行玄 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
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- 神宮道
- 四脚門(御幸門)
- 長屋門
- 薬医門
- 植髪堂
- 親鸞聖人遺髪塔
- 参道
- 華頂殿
- 一文字手水鉢
- 小御所
- 本堂(熾盛光堂)
- 宸殿
- 左近の桜
- 右近の橘
- 大玄関(車寄)
- 親鸞童形像
- 相阿弥の庭
- 龍心池
- 宮城野の萩
- 小堀遠州霧島の庭
- 叢華殿
- 好文亭
- 大森有斐(おおもりゆうひ)の庭
- 御輿型燈籠
- 日吉社
- 鐘楼
- 楠〜その1〜
- 楠〜その2〜
- 楠〜その3〜
- 楠〜その4〜
- 楠〜その5〜
- 将軍塚大日堂(※3)(将軍塚青龍殿)
- 知恩院
- 円山公園(※2)
- 八坂神社(※3)
- 高台寺(※3)
- 無鄰菴(※3)
- インクライン(水路閣の記事参照)(※3)
- 金地院(※3)
- 南禅寺(※3)
- 大鳥居(※3)
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近隣の観光スポット情報
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