
仁王門
2005年撮影。
嵯峨野の西端を画し、保津川(嵐山上流における桂川中流部の別称)を隔てて嵐山(あらしやま)と対する平安時代以来の紅葉の名所として知られ、また歌枕としてもしばしば詠まれる名勝、小倉山(おぐらやま)。
常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は、その山懐に包まれるようにしてたち、閑静な佇まいを見せる山寺です。
開創
安土桃山時代。
天正(てんしょう)13年(1585)、関白(かんぱく)に就任した豊臣秀吉(ひでよし)は翌14年、焼き討ちによって焼損した奈良東大寺大仏に代わる大仏を京都に造立(ぞうりゅう)することを発願(ほつがん)します。そして、その大仏を安置するための寺として方広寺が創建されます。
文禄(ぶんろく)4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという木製金漆塗(もくせいきんうるしぬり)の大仏座像が安置されます。
豊臣秀吉はこの方広寺大仏開眼の千僧供養会(せんぞうくようえ)のため、京都法華宗十六本山に出仕を命じます。
その中の一つ、日蓮宗には、当時、他宗派信者からの布施を受けたり、逆に他宗派信者に法施(ほうせ)をしない(供養を施さない)という、宗祖日蓮の教義である潔癖な不受不施(ふじゅふせ)義の精神が受け継がれていました。
しかし、時の権力者、豊臣秀吉から下された出仕要請に対して、日蓮宗の宗門の意見は二分してしまいます。この時代、京都を中心とした日蓮宗の拡大の勢いには目覚ましいものがあり、長年にわたって築き上げて来たものを、時の権力者に逆らって出仕をしないことで危険にさらしたくないと考えて出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、あくまでも伝統的な宗制を守って出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂してしまいます。
この時、不受不施派の立場をとっていたのが妙覚寺(みょうかくじ)第21世の日奥(にちおう)で、これに賛同した指導者たちの一人に、後に常寂光寺を開創する本圀寺(ほんこくじ)第16世の日メiにっしん)がいました。日モヘ日奥より4つ年上で、日奥を最後まで支えました。
日モフ帰依者には、豊臣秀吉の実姉瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)とその夫三好吉房(みよしよしふさ)をはじめ、大名で歌人でもあった木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)、その実弟で武将の小早川秀明(こばやかわひであき)、そして武将・加藤清正(かとうきよまさ)といった豊臣秀吉の身内や側近がいたといいます。
翌慶長(けいちょう)元年(1596)1月に行われた千僧供養に出仕しなかった日奥は妙覚寺を去ります。一方、日奥を支えた日モヘ本圀寺を出て、寄進された嵯峨小倉山に隠棲します。余談ながら、約半年後の閏7月13日に発生した慶長伏見の大地震で大仏は大破してしまいました。
日モヘこの小倉山の地にささやかな堂舎を建てます。常寂光寺の歴史の始まりです。小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野や東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)を望むことができ、秋は全山紅葉に包まれ、実に閑静な佇まいを呈しています。このことから、仏法にいう常寂光土(仏の住する永遠で絶対の世界で、煩悩(ぼんのう)による乱れがなく(寂)、智慧(ちえ)の輝く(光)ところ)のような風情があることから「常寂光寺」の寺号がつけられたといいます。
小倉山の土地を日モノ寄進したのは、当時この辺り一帯を所有していた嵯峨の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)と了以の妻の父、栄可(えいか)でした。角倉了以は、慶長11年(1606)に大堰川(おおいがわ。現桂川の嵐山上流近辺での呼称。)の開削を行ない、同16年には高瀬川の開削などを行なったことでも知られています。そして小早川秀秋ら大名の寄進によって堂塔の伽藍が整備されていくことになります。
定家卿山荘
日モェ常寂光寺を開いた地、小倉山といえば、鎌倉時代初期の公家で著名な歌人として知られる藤原定家(ふじわらのさだいえ。ていか。)が所有していた山荘があり、また西行(さいぎょう)も足をとどめたことのある地としても知られています。
日モ煢フの道には並々ならぬ愛情を注いでいたといいますから、そのような先人とゆかりのある小倉山の地に隠棲できたことは格別のものがあったに違いありません。
藤原定家の山荘は「時雨亭(しぐれてい)」と呼ばれていました。現在、嵯峨には「時雨亭」跡としているところが三ヶ所あります。それは、厭離庵、二尊院、そして常寂光寺です。
どこが本当の「時雨亭」跡に当たるかはさておき、江戸時代中期に刊行された『山州名跡志(さんしゅうめいせきし)』(山州は山城国(やましろのくに)の別名)に「定家卿山荘」と題して、常寂光寺の創建時の伝説として次のような興味ある話が掲載されています。
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一説、二尊院南と。今不レ詳。一説、自レ此二町許南今常寂寺(ジャウジャクジ)仁王門の北に自レ古有ニ小祠一、是彼卿を所レ祭也。然に常寂建立の時、其開師日モフ弟子唯性房俄に狂乱して云く、吾是中納言定家也。日ン吾山を崩て寺を造て吾赭堂上に住條太不禮なり。急吾社を寺上に移せ、若不レ爾不日に可ニ周章一と云ふ。是故速に點レ地社を山上に移す。今祠也。
【定家の山荘は、一説には二尊院の南にあったと言うが、詳細な事はわからない。また一説には、この二尊院から200メートルばかり南へ行った、今では常寂光寺の境内にたっている仁王門の北に昔から小さな祠(ほこら)があったという。これは定家卿を祀っていた所とされる。しかるに、常寂光寺建立のとき、開祖日モフ弟子唯性房が俄(にわか)に狂乱して言った。「吾(わ)れは中納言定家である。日メA汝(なんじ)は吾が山を崩して寺を造って吾が赭堂(しゃどう)の上に住もうとしている。この事、はなはだ不礼(ぶれい)である。急ぎ吾が社(やしろ)を寺の上に移せ。もしそれができなければ近いうちにあわてふためくことになる」と。この事があって早速、社を山上に移した。今の祠がそれである。】
常寂光寺建立のおり、日モヘ定家卿の小祠(しょうし)が自分の住む堂舎より下にあるのは怖れ多いことだとして、山上に移したことを伝えています。
『山州名跡志』にいう常寂光寺の仁王門の北にあったという「小祠」は、藤原定家を祀ると共にここに定家の山荘「時雨亭」があったことを伝えていたのでしょう。現在では、常寂光寺境内の小倉山の斜面上方に藤原定家を祀る祠「歌仙祠(かせんし)」が立ち、その傍らに「時雨亭跡」の碑が建てられています。
写真集(34枚の写真が表示されます。)
落柿舎の前に広がる畑の前の通りを標識に沿って真っすぐ西へ進むとやがてその突き当たりに、常寂光寺の総門が見えてきます。
この道を総門前で左(南)へ折れて100メートルと少しばかり真っすぐ進んでゆくと、右手に小倉池が見えてきます。そこからほどなくしてトロッコ嵐山駅に着きます。ここから更に右手に見える坂を少し上って行くと、大河内山荘、嵯峨野・竹林の道、嵐山公園亀山地区方面へと向かいます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3 |
| 山号 | 小倉山 |
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 本尊 | 十界大曼荼羅 |
| 創建年 | 慶長元年(1596) |
| 開基 | 日 |
| 文化財 |
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【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 総門
- 仁王門
- 鐘楼
- 本堂
- 妙見宮
- 展望所
- 庭園
- 書院
- 時雨亭跡
- 歌仙祠
- 多宝塔
- 開山堂
- 二尊院(※1)
- 落柿舎(※1)
- 滝口寺(※2)
- 祇王寺(※2)
- 厭離庵(※2)
- 宝筐院(※2)
- 嵯峨野・竹林の道・天龍寺・嵐山公園亀山地区方面へ
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近隣の観光スポット情報
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