滝口寺

山門
山門
苔むした緑色の屋根に紅色となった落ち葉が降り積もり、風情を漂わせます。境内も紅葉に染まった美しい景観を見せてくれているのでしょうね。
山門をくぐると、樹木に覆われた斜面に沿って上りの参道が本堂へと続きます。
2005年撮影。

嵯峨野の西端にあって、平安時代以来の紅葉の名所として知られる小倉山(おぐらやま)の麓で樹木に覆われてひっそりと佇む滝口寺(たきぐちでら)。

『平家物語』に伝わる悲恋物語が今に語り継がれています。

清盛邸での宴

平安時代も末にして、時の権力者平清盛(たいらのきよもり)がわが世の春を謳歌していた平家全盛の時代。

清盛の西八條の邸宅で花見の宴が催されます。その宴には、清盛の娘で時の高倉天皇の中宮(ちゆうぐう)(後の建礼門院)も参列していました。そしてその中宮に仕えていた16、7歳の一人の若い女性がその宴で舞を披露します。するとその舞の見事さに心を動かされた一人の武士がいました。その武士は、宮中警護に当たる滝口武者(たきぐちのむしゃ)で、また、六波羅武士でもあり、清盛の長男である内大臣・平重盛(しげもり)に仕えていました。名を斎藤時頼(さいとうときより)といいました。

その人の名は・・・

宴が終わったその夜、時頼は中宮の御所へと足を向けます。そして門前に佇んでいると中宮の一行が戻って来ます。少し遅れてやって来た老女に、宴で見事な舞を披露してくれた女性の名を聞きます。老女はその女性の名が横笛(よこぶえ)と言うことを教えます。そして、それを聞いてどうするのか、と時頼に尋ねます。すると時頼はハツと顏を赤らめて、舞がことのほか見事だったので・・・、と言い終わらぬうちに、老女はクスッと小さな笑みを残して門の内に入っていきました。

文を送る

それからというもの横笛のことが忘れられない時頼は、横笛に対する恋心を伝えるべく文(ふみ)を送ることにします。

愛情溢れる時頼の文に心を動かされた横笛は、ついに時頼の愛を受け入れることにします。

ところがこの事を知った時頼の父が猛然と反対します。おまえは名門の出にしてこれから平家一門に入る身であるのになぜ横笛ごときを思い慕うのか、と。時頼の父は、この身分違いの恋愛を叱責し許さなかったのです。

このことがあって時頼は、思い悩んだ末に出家することを決意します。ただ、時頼はその事を横笛には伝えませんでした。

こうして、時頼は横笛への未練を断ち切るために嵯峨の往生院(おうじょういん)の一坊に入って滝口入道と名乗ることになります。この時19歳。「滝口」と言う名は、時頼がかつて宮中警護に当たる滝口武者であったことに由来しています。そしてその一坊は往生院の子院(しいん)、三宝寺(さんぽうじ)といいました。

探し求めて

横笛は時頼が出家したということを都で耳にします。そしてその行き先については、噂に嵯峨の奧と聞いただけで、どこの院とも坊とも分かりませんでした。それでも横笛は、時頼を探し求めて都を出て嵯峨へと向かいます。

どこを訪ねても時頼は見つかりません。もとより長い時間歩くことに慣れていない中であちらこちらと彷徨(さまよ)い続けているうちに、横笛は疲労困憊(こんぱい)して打ち萎(しおれ)れかけていました。顔は痩せこけ、袖(そで)は涙に、裾(すそ)は露に濡れつつも、横笛は嵯峨野もいつしか奧へと入っていました。

どうやって時頼を探したらいいものか思いあぐねていると、一人の僧が通りかかってきました。横笛は助けに舟とばかりに、その僧に尋ねます。最近この辺りに俗名(ぞくみょう)を斎藤時頼と名乗る武士だった人で、都からやって来て出家したという人を知りませんか、と。するとその僧は、そのような人がいるとは聞いたことはあるが、貴方が探している人なのかどうかは分かりません、と答えます。一条の光が射したように覚えた横笛は、その人はどこにいらっしゃいますか、と更に尋ねます。僧は答えます。ここからさほど遠くない所にある往生院と呼ばれているところの古い草庵にいますよ、と。そして、その僧は、そこまでの道を教えてくれたのでした。

横笛に力が戻って来ました。

早速訪ねることにします。

悲嘆の果てに

横笛がやっとのことで嵯峨の往生院へ辿りついたのは、もう日も暮れかけようとしている時でした。

月明かりの中、半ば崩れかかった門の廂(ひさし)には、一面虫に食われたような古額(ふるがく)が掛かっているのが見えました。その額には文字が認められ、わずかに往生院と読めました。

境内の中へと入って行くと、その中の住み荒らした僧房から念誦(ねんじゅ)の声が聞こえてきました。それは滝口入道(時頼)の念誦の声でした。そこで横笛は一人の僧を介して、元は武士だった人で俗名を斎藤時頼といった人はいませんか、と尋ねます。このことを聞き知った滝口入道は驚いて、襖(ふすま)の蔭からそっと覗き込みます。するとそこにはひどく打ち萎(しおれ)た着物を身にまとい、すっかりやつれ果てた姿の横笛が立っていました。

しかし滝口入道は積もる思いを押し殺して、「会うは修行の妨げなり」と涙しながら、同宿の僧を遣いにやります。

「お尋ねのそのような人はここには居りません。何かのお間違いでは・・・。」

と言わせたのでした。

これを聞いた横笛はこれ以上もうどうすることもできなくなり、泣く泣く元来た道を足取りも重く都へと帰って行きます。

そしてその帰り際に、自分の指を斬り流れ出る血で、近くにあった石に

山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道に我を導け

(あの方を思ってこんなに山の奥深くまでやって来てしまいました。柴の門を出たらこれからわたしは一体どうしたらいいのでしょうか。どうかわたしを正しい道へと導いて下さい。)

と歌を書き、帰っていったといいます。

都へ戻った横笛は、数日は何事もなく過ごしていました。が、間もなくして姿を消してしまいます。

その後、滝口入道は修行に打ち込もうと、高野山に移ります。

一方、行方知れずとなっていた横笛は悲しみのあまり嵐山と小倉山の間を縫って流れる大堰川(おおいがわ)に身を沈めたとも、大和(やまと)(奈良)の法華寺(ほっけじ)で尼になったともいわれます。しかしほどなくして横笛はこの世を去ってしまいます。

横笛の死を伝え聞いた滝口入道は、ますます仏道修行に打ち込み、高野聖(こうやひじり)(高野山を本拠とする遊行僧(ゆぎょうそう。空海、行基、空也、一遍などにもみられたように、布教や修行のために各地を巡り歩く僧。))になったといいます。

往生院は『平家物語』ゆかりの寺として広く知られていましたが、次第に衰微し、たくさんあったという往生院の子院の中で三宝寺と祇王寺(ぎおうじ)とが残ったといいます。しかしついには明治の初めに、三宝寺も祇王寺も共に一時廃寺となりましたが、その後祇王寺が再興されたのに続いて、三宝寺が昭和の初期に再興されました。そして、明治27年(1894)に高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が『平家物語』巻第十をもとに書いた小説『滝口入道』に因んで三宝寺は「滝口寺」と名づけられました。

写真集写真集(19枚の写真が表示されます。)
写真 
嵯峨野路の路傍に立つ道標
写真左から滝口寺、檀林寺(だんりんじ)、祇王寺(ぎおうじ)へと案内する3つの道標が立っています。この先は行き止まりとなっていますが、車も入れます。
左端の道標に「新田公〜」とあるのは滝口寺に新田義貞(にったよしさだ)の首塚があることを記しています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市右京区嵯峨亀山町10−4
山号 小倉山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 平安時代末期(往生院の一子院、三宝寺として創建)
開基 良鎮(りょうちん)(往生院を創建)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 滝口寺・祇王寺・檀林寺へ通じる入口
  2. 山門
  3. 新田義貞首塚・勾当内侍の供養塔
  4. 横笛歌石
  5. 本堂
  6. 平家供養塔
  7. 小松堂
  8. 祇王寺
  9. 檀林寺
  10. 二尊院(※1)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 11:48 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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