二尊院

紅葉の馬場
紅葉の馬場
総門をくぐると真っすぐに参道が延びています。その参道は「紅葉の馬場」と呼ばれます。参道沿いに並んだ楓が秋の深まりに連れて色づいた様は紅葉の名所と呼ばれるにふさわしい景観を見せ、多くの人で賑わいます。
2013年11月23日撮影。

大堰川(おおいがわ)(桂川)をへだてて嵐山と相対し、紅葉の名所として名高く、かつ優雅ささえ感じさせる山容の小倉山(おぐらやま)。もともと、「小倉」は「小暗い」の意であるといい、はるか昔に於いては樹木が鬱蒼として繁茂し、昼なお暗かったところから山名となったものといいます。

小倉山の東面には風光明媚な嵯峨野が広がっています。

こうした背景の下、小倉山は古くから多くの歌にも詠まれてきたことは広く知られているところでもあります。

その小倉山の東麓に、誕生に際し人生の旅路へと送り出してくれる釈迦如来(しゃかにょらい)(「発遣(ほっけん)の釈迦」)と、極楽浄土へと迎え入れてくれる阿弥陀(あみだ)如来(「来迎(らいごう)の弥陀」)の2尊を本尊とすることからその名がついたことで知られる二尊院(にそんいん)はあります。そして大覚寺天龍寺とともに「嵯峨三名跡」の一カ寺としても知られています。

二尊院はその創建から早や一千有余年の時を経て今日に至っています。

荒廃と兵火を乗り越えて

二尊院は嵯峨天皇の勅願により、天台宗第三世慈覚大師(じかくだいし)(円仁(えんにん))によって承和(じょうわ)年間(834〜848)に建立されたもので、円仁が「小倉山ニ尊教院華台寺(おぐらやまにそんきょういんけだいじ)」と号したといいます。

のち荒廃という憂き目にあいますが、法然(ほうねん)上人が関白藤原兼実(ふじわらのかねざね。九条兼実。)の支援を得て、二尊院の再興に向けた動きが始まります。そして法然上人の弟子湛空(たんくう)が堂宇を増築して再興が行われ、天台・真言・律・浄土の4宗兼学の寺院として栄えるところとなっていきます。

湛空上人は、土御門(つちみかど)天皇・後嵯峨天皇両帝の戒師(かいし。仏門に入る時に戒を授ける師僧。)となり、また続く第4世叡空(えいくう)上人も当時の帝らの戒師となり、寺門は最盛期を迎えていったのでした。

しかし、室町時代の応仁元年(1467)に発生してから、文明9年(1477)までの約10年間にわたって続いた応仁・文明の乱(おうにんぶんめいのらん)の兵火を受けて諸堂は全て焼け落ちてしまいます。

こうして、堂宇を始めとした二尊院の復興に向けた再建は、後に二尊院に関わることになる三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の支援を待つこととなります。

三条西実隆

実隆は、康正(こうしょう)元年(1455)閏4月25日、次男として生まれました。兄は和歌や学問にもすぐれ、将来を嘱望されていましたが17歳の若さで病死してしまいます。そのため実隆が4歳にして三条西家の家督を嗣(つ)ぐことになりました。

ところがそれから2年の後に今度は父が亡くなってしまいました。貴族社会においては家格や家業に応じた、家での教育が重要とされていた中にあって、6歳で父を失った実隆にとっては非常にまずい状況に追い込まれたといえます。しかし、母、それに母の弟や正親町(おおぎまち)三条家の人々ら周囲の助けもあり、また実隆自信が才能にも恵まれていたことも手伝って、実隆は和歌や学問について十分な教育を受けることになります。

そういう最中、実隆が13歳の応仁元年(1467)に応仁の乱が起こります。実隆は、母や姉とともに戦乱を遁れ、先ず泉涌寺(せんにゅうじ)に身を寄せますが、のち鞍馬寺に疎開しました。

その疎開中の文明4年(1472)、実隆16歳の冬に鞍馬寺で母がこの世を去ってしまいました。姉もいましたが、出家して出ていったために一人になってしまった実隆は、翌文明5年の夏ごろ鞍馬寺を出て京都にもどり禁裏(きんり。天皇の住居。)に出仕するようになりました。応仁の乱による京都での戦闘が終わったわけではありませんでしたが、ほとんど終息に向かっていたことがこの決断を促すことになったのでした。

実隆は和歌以外にも『源氏物語』を始めとする古典や漢詩文にも通じていたといいます。さらに、後土御門(ごつちみかど)・後柏原(ごかしわばら)両天皇の信任が厚かったといい、次第に当代随一の文化人として公家・武家の双方から重んじられるようになっていきます。

例えば、後柏原天皇が自らつくった歌について実隆の意見を求めて送って来たことがありました。実隆は送られてきた歌に添削を施して送り返します。本来ならば、和歌の家として知られる冷泉家(れいぜいけ)や飛鳥井家(あすかいけ)を通すところでしょうが、和歌の家ではない実隆に天皇から和歌について尋ねられたことは、歌に対して実隆への評価が高くかつ信任も厚かったことが窺(うかが)えます。

再建

二尊院第16世恵教(えきょう)上人の頃。

三条西実隆は恵教上人に深く帰依していたといいます。当時の二尊院の現状を見るにつけ実隆は再建に動きます。実隆は諸国に寄付を求める勅許を仰ぎます。そして許可が下りたことをうけると、永正(えいしょう)18年(1521)に本堂・勅使門(唐門)などを再建し、堂宇の復興を果たしたのでした。室町時代末期のことです。

その後は、豊臣秀吉、徳川家康から寺領を与えられ、再び栄えるところとなっていきます。

そして明治以降には、これまでの4宗兼学から当初の天台宗に戻っています。

今日見られる本堂は、三条西実隆の支援によって再建された時のものとなっています。

一方、本堂と同時に再建された勅使門(唐門)は、明治以来傷みがはげしくなったこともあって、昭和63年(1988)6月に再建されて今日に至っています。

写真集写真集(40枚の写真が表示されます。)
写真 
嵯峨野路の路傍に立つ道標
「左二尊院右釈迦堂」と彫ってあります。
「釈迦堂」とは、「嵯峨釈迦堂」とも呼ばれる清凉寺です。二尊院から釈迦堂へと向かう途中には厭離庵があります。
≪関連情報≫
項目 内容
正式名 小倉山二尊教院華台寺
所在地 京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町(ちょうじんちょう)27
山号 小倉山
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来・阿弥陀如来
創建年 承和年間(834〜848年)
勅願 嵯峨天皇
開山 慈覚大師(円仁)
文化財
重要文化財
木造釈迦如来立像(りゅうぞう)・阿弥陀如来立像、絹本著色(けんぽんちゃくしょく)法然上人像、法然上人七ケ条制法(元久元年十一月七日)ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 総門
  2. 紅葉の馬場
  3. 西行法師庵の跡
  4. 高浜虚子の句碑
  5. 黒門
  6. 勅使門(唐門)
  7. 竜女池
  8. 書院
  9. 御園亭
  10. 本堂
  11. 弁財天堂
  12. しあわせの鐘(鐘楼)
  13. 湛空上人廟
  14. 藤原定家時雨亭跡
  15. 八社宮
  16. 小倉山
  17. 滝口寺
  18. 祇王寺
  19. 檀林寺
  20. 厭離庵
  21. 落柿舎
  22. 常寂光寺

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 16:41 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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