光悦寺

参道の紅葉
参道の紅葉
紅葉で艶やかに彩られた参道は、訪れた人の目と心を引き付けて離しません。

家職の刀剣の鑑定や研磨を生業(なりわい)とする名家である本阿弥家の分家に生まれ、その才能を蒔絵(まきえ)、陶芸、茶道、書道、作庭など多分野の芸術領域にまでわたって発揮したことで知られる江戸時代初期の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)。

徳川家康(とくがわいえやす)から拝領した鷹ヶ峰(たかがみね)で芸術活動にいそしみ、その晩年を送り、そして生涯を閉じたこの地は、後に光悦ゆかりの光悦寺(こうえつじ)として生まれ変わることになります。

京都生まれの光悦は「江戸表(えどおもて)へ引越しの義はゆめゆめあるべからず」と申し渡して、その一族は京都を動くことはありませんでした。

鷹ヶ峰

京の都の北西に位置する小高い丘陵の地、鷹ヶ峰。その鷹ヶ峰に本阿弥光悦が営んだ居室「大虚庵(たいきょあん)」に、江戸時代初期の寛永(かんえい)6年(1629)、京都所司代板倉重宗(いたくらしげむね。板倉勝重(かつしげ)の長男。)に誘われて儒学者として知られた林羅山(はやしらざん)が訪れます。そして鷹ヶ峰について思うところを記に書くように光悦と重宗に請われます。こうして翌寛永7年に著わされたのが「鷹峯記」として伝えられています。その中で羅山は鷹ヶ峰の佳境たる様を綴っています。

今日では日本三景の一つに数えられる松島(宮城県)、その松島を見た当時の人々は、松島の絶景もこの鷹ヶ峰からの眺めの素晴らしさには及ばないとも言っていたそうです。

また関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)のお供で訪れた千利休(せんのりきゅう)が「鷹ヶ峰は日本無双の地である」と言って、竹を使って建てたお茶屋を設けたといいます。そして秀次はいつもここで利休の点(た)てたお茶を飲んだとも言われています。

光悦寺境内からは今日でも鷹ヶ峰、鷲ヶ峰(わしがみね)、天ヶ峰(てんがみね)と呼ばれる鷹峰三山の景勝を近くに望むことができます。

なお、「鷹峯記」によると、昔、空海がこの地を訪れた際、釈迦(しゃか)が無量寿経(むりょうじゅきょう)や法華経(ほけきょう/ほっけきょう)を説いた地・霊鷲山(りょうじゅせん)に擬して、鷹ヶ峰と名付けたといいます。

家康と父光二

室町時代から、茶道具や書画、古筆などにおいて、鑑定の専門家が現れるようになります。その専門家の一つに本阿弥家がありました。

本阿弥家は刀剣の、とぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)を家業としていました。刀剣は、本阿弥家が掘り出したり、刀の銘を見立てたり、真贋(しんがん)を判断したりという「鑑定」により折紙が発行され、名物と称されるものが定められていったのです。

本阿弥光悦の父、光二(こうじ)は、刀脇差(かたなわきざし)の目利(めきき)と細工において並ぶ者のないほどの名人であったといいます。そのため諸大名からそれぞれの国許(くにもと)へ呼ばれては見せられたその国の刀脇差の鑑定を行っていたのでした。

そのような中、光二は駿河(するが)(現在の静岡県の中央部)の今川家を訪れ、長らく滞在したことがありました。当時、今川家には徳川家康が幼少の頃の竹千代(たけちよ)がいました。竹千代は、光二が刀細工をするのを興味深そうにいつも見ていたのでしょう。そのような姿を見て光二は竹千代に小刀などを研いであげることもあったようです。いつかしら光二に懐(なつ)いた幼い竹千代は、食事をとるときには光二にお相伴を仰せ付けることもあったといいます。

鷹ヶ峯拝領

それから時は流れ、古い昔のことが思い出されるのでしょうか、家康は今は亡き光二の事を思い出しては、その長男である光悦のことを家臣に訊ねていたといいます。

慶長(けいちょう)20年(1615)5月7日深夜に大坂城が陥落し、豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣から二条城へ戻る途中、家康は家臣に「本阿弥光悦はどうしているか」と尋ねたことがあったといいます。当時光悦は60歳に近くなっていた頃で、家臣が「光悦はまだ生きながらえております。異風者(いふうもの。世間一般とは異なる人間のこと。)で、洛中には住み飽きたので、どこか片田舎にでも住みたいと申しております。」と答えます。すると、家康から「近江(おうみ)・丹波(たんば)などから京都へ入る道の途中に、用心の悪い、辻切りや追剥ぎが出没する所があるであろう。そのような土地を広々と取らせてあげればよい。そしてその土地を自らの在所(ざいしょ。田舎にある自分の住処、または故郷。)とするがよかろう。」と命じたといいます。

同年8月、家康が駿府(すんぷ)(現在の静岡市)に帰っていった後、光悦はその旨を板倉勝重から知らされたといいます。その拝領の地が鷹ヶ峰の麓だったのでした。鷹ヶ峰は京の都からわずかに約2キロメートルと少しばかりの距離だったことから、家康が言ったように当時は辻切りや追剥ぎが出没するというような物騒(ぶっそう)な所であったとはいえ、光悦はたいそう悦んだといいます。ちなみに拝領した鷹ヶ峰の地は、東西は約360メートル余り、南北は約763メートルの原野だったといいます。

光悦は一族をはじめ、友人知人や職人らを率いて鷹ヶ峰の地に移り住みます。そして、ここで新しい町づくりを始めることになります。

光悦はその地で清水の湧き出ているところを自分の住居と定めました。光悦の住居以外の土地はいろいろに分割し、一族の者、友人知人、あるいは長い間召使っていた者たちにまでそれぞれに分けて与えました。

そしてその中に、天下泰平の祈祷を行い、本阿弥家の先祖供養の霊屋(たまや)として位牌堂を設けています。これが、寛永14年(1637)に光悦がその80年の人生の幕を閉じた後の明暦(めいれき)2年(1656)に光悦寺という寺院として始まることに繋がっていきます。

写真集写真集(30枚の写真が表示されます。)
写真 
参道入口
本阿弥光悦旧蹟の碑が立ち、まっすぐに参道が延びています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市北区鷹峯光悦町29
山号 大虚山(たいきょざん)
宗派 日蓮宗
本尊 十界曼荼羅
創建年 明暦2年(1656)
開山 日慈上人(にちじしょうにん)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 参道
  2. 山門
  3. 鐘楼
  4. 本堂
  5. 三巴亭
  6. 大虚庵
  7. 光悦垣
  8. 了寂軒
  9. 翹秀軒
  10. 本阿弥庵
  11. 鷹峯三山・京都市内展望
  12. 源光庵(※1)
  13. 千本通(※1)
  14. 常照寺(※2)
  15. 北山通(※3)
  16. 大徳寺(※4)
  17. 北大路通(※4)
  18. 鹿苑寺(金閣寺)(※4)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。
※3.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。
※4.−(マイナスボタン)を4回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 11:39 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このページの先頭へ戻る