
方丈の広縁にて
南禅寺(なんぜんじ)中門(なかもん)から庫裡(くり)の方へと延びる参道を挟んで法堂(はっとう)の南側の木立の中にある苔むした赤煉瓦のアーチ橋、水路閣(すいろかく)。ここには明治の完成から120年以上経ったいまも琵琶湖疏水が流れ、今ではすっかり南禅寺の風景の中に溶け込み、なくてはならないものとなっています。その水路閣の更に南側に、一段高いところへと延びる石段があります。その石段を上がりきった所に見えてくるのが南禅院(なんぜんいん)です。
南禅院は、亀山(かめやま)天皇が離宮を営み、今に伝わる庭園に離宮当時の面影を残す南禅寺発祥の地とされています。そして、亀山天皇の宸影を祀る檀那塔であることから、南禅寺別院(塔頭ではありません)として別格に扱われています。
深い樹林にその周囲を囲まれてひっそりとたたずむ南禅院には気品と優雅さが漂っています。
離宮の遺跡
鎌倉時代中頃の文永(ぶんえい)元年(1264)、亀山天皇はこの地の風光明媚なることに心寄せられて離宮禅林寺殿(ぜんりんじどの)を営みます。その後、禅林寺殿の一部が焼失したことから、新たに一宇を建立します。その新しい御殿は「上の御所(上の宮)」または「松下殿」と呼ばれるようになりました。一方、禅林寺殿で焼失を免れていた所は「下の御所(下の宮)」と呼ばれるようになります。
文永11年(1274)正月、亀山天皇は譲位して上皇となり院政を開始します。
弘安(こうあん)10年(1287)には、亀山上皇が上の御所に持仏堂を建立します。この持仏堂は南禅院と号されることになりました。
鎌倉時代後半、時の鎌倉幕府第8代執権、北条時宗(ほうじょうときむね)が皇位継承の件について干渉したことから、天皇家の二つの皇統である持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)との間に対立が始まります。持明院統は後深草−伏見天皇の皇統で、大覚寺統は亀山−後宇多天皇の皇統です。
この事に起因して、亀山上皇は政治とは無縁の立場に立たされることになります。そしてこうした状況に対する憤懣の高まりの中、正応(しょうおう)2年(1289)、離宮禅林寺殿の上の御所の持仏堂である南禅院で落飾して法皇となります。
それから2年経った正応4年(1291)、禅林寺殿で前年からしばしば起こっていた妖怪な事件の鎮静化を、当時東福寺(とうふくじ)の住持を務めていた無関普門(むかんふもん)に依頼します。見事に物の怪(もののけ)を退散させることができたことを喜んだ亀山法皇は、以後無関普門に深く帰依して師事することを決意し、離宮の禅林寺殿を寄進して禅宗寺院の禅林禅寺(ぜんりんぜんじ)としました。そして無関普門(むかんふもん)を開山に迎えます。これが南禅寺の始まりとなります。
現在の南禅院は、上の御所とされた離宮禅林寺殿の当時の遺跡として受け継がれてきているものです。そのために南禅院は、南禅寺発祥の地とされているのです。
荒廃と再建
南禅寺創建から100年ほど経った明徳(めいとく)4年(1393)以降はたびたび火災に遭います。特に、応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)(1467〜1477)以後は長(なが)きにわたって荒廃していたといいます。
それから更に時が下り、元禄(げんろく)16年(1703)になって、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉(つなよし)の母、桂昌院(けいしょういん)の寄進によって再建されるにいたっています。
入貢督促の国使から一転、日本文化に貢献した一山一寧
南禅院にある亀山法皇御陵の南側に隣接して一山一寧(いっさんいちねい)霊塔(一山国師塔)があります。一山は、鎌倉時代後期の禅僧で、日本の禅宗史、そして五山文学隆盛の基礎を築くなど文化史においてもきわめて名高い高僧として知られている人です。
モンゴル帝国をたてたチンギス=ハンの孫、フビライ=ハンは、1260年にモンゴル帝国の第5代の皇帝に就き、中国・南宋(なんそう)を滅ぼして中国全土を支配すると都を大都(現在の北京)に定め、国名を中国・元(げん)とし、1271年にその初代皇帝に就きます。
フビライ=ハンは日本を属国とすべく文永11年(1274)と弘安(こうあん)4年(1281)の2度にわたって武力による日本遠征(文永・弘安の役。元寇(げんこう)、蒙古襲来、モンゴル襲来とも。)を行ないますが、これに失敗します。
そこで今度は交渉によって平和裏に進めようと使者を派遣してきます。当時、日本では臨済禅(りんざいぜん)の興隆期の最中にあり、禅僧を尊ぶ気風があったことから禅僧の愚渓(ぐけい)が使者に選ばれます。しかしながら、渡航が天候の理由によって阻まれるなどその他の要因によっても、その任は成し遂げられませんでした。
その後永仁(えいにん)2年(1294)、フビライの後を継いだモンゴル帝国の第6代の皇帝テムルによって使者に選ばれたのが一山一寧でした。テムルは一山に大師号を贈ります。そして、一山を入貢(にゅうこう)督促、即ち日本国からモンゴル帝国に対して貢物を持って来させるための国使に任じたのでした。
正安(しょうあん)元年(1299)、国書を携えた一山は門人を伴って日本に渡ってきます。時に52歳。
しかし国書を受け取った時の第9代執権北条貞時(さだとき)率いる鎌倉幕府は、これを怪しみ、元軍再来を警戒して一山ら使節一行を伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉します。
その後、一山の本国・元における禅僧としての名声を知るに及ぶと、一山らの幽閉を解きます。そして貞時は一山に深く帰依し、鎌倉の建長寺(けんちょうじ)、ついで円覚寺(えんがくじ)に住せしめてあつくもて成すこととなります。
更に、正和(しょうわ)2年(1313)には後宇多上皇の招きを受けて上洛し、南禅寺第3世となります。南禅寺創建から22年後、一山が来日してから14年後のことです。
一山は、学芸にすぐれ、能書でも知られ、また朱子学を日本に伝えた人でもあります。そして五山文学の祖ともいわれたように、その影響力にはすこぶる大きいものがあったのでした。
文保(ぶんぽう)元年(1317)10月、一山は南禅寺においてその生涯を閉じています。時に71歳。
写真集(16枚の写真が表示されます。)
深い樹林に囲まれてひっそりとたたずんでいます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市左京区南禅寺福地町86−8 |
| 宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
| 寺格 | 南禅寺別院 |
| 創建年 | 弘安10年(1287) |
| 開基 | 亀山上皇 |
| 文化財 |
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- 勅使門
- 方丈
- 龍渕窟
- 庭園
- 下池(心字池)
- 上池(曹源池)
- 蓬莱島
- 亀山法皇廟
- 一山国師塔
- 滝石組み
- 水路閣
- 南禅寺参道
- 南禅寺本坊(庫裡)
- 南禅寺方丈
- 南禅寺法堂
- 南禅寺三門(※1)
- 天授庵(※1)
- 南禅寺中門(※1)
- 南禅寺勅使門(※1)
- 鹿ケ谷通(※1)
- 金地院(こんちいん)(※2)
- 禅林寺(永観堂)(※2)
- インクライン(※3)
- 無鄰菴(むりんあん)(※3)
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近隣の観光スポット情報
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