
金地院庭園〜鶴亀の庭〜
江戸幕府第三代将軍家光(いえみつ)の御成(おなり)に合わせて造られたことから、「将軍御成の庭」とか「慶賀の庭」という性格が強くなっているとされ、蓬莱式枯山水とも言われます。
特別名勝。
金地院(こんちいん)は南禅寺(なんぜんじ)の塔頭(たっちゅう)の一つで、徳川家康(とくがわいえやす)の側近として幕政の枢機に列して「黒衣の宰相(こくい/こくえのさいしょう)」と称された以心崇伝(いしんすうでん)(金地院崇伝)が住した寺院です。
方丈(ほうじょう)南庭の枯山水庭園は、崇伝が親交のあった小堀遠州(こぼりえんしゅう)に協力を依頼して工事が進められたという、まぎれもない小堀遠州作庭の庭園で、国の特別名勝に指定されています。
略史
金地院は、室町時代の応永(おうえい)年間(1394〜1428)、4代将軍足利義持(あしかがよしもち)が開基となって南禅寺第68世住持大業徳基(だいごうとっき)を開山に迎えて、洛北の鷹峯(たかがみね)に開創されたといいます。
釈尊在世当時、コーサラ国の富豪須達( シュダッタ)が金を布き土地を買い求めて祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を造営し、仏に献じたという例にならい、その諸堂伽藍が美観を極めたことから金地院と称されるようになったといいます。
しかし足利氏とその盛衰を共にしていたことから、足利氏の衰退に伴って衰微していくこととなります。
時は流れて、家康が慶長(けいちょう)8年(1603)2月に将軍宣下を受けた江戸幕府草創期の慶長10年(1605)、金地院の法孫にあたる崇伝が南禅寺の住持となって赴任してくると、金地院は現在地の南禅寺境内に移され、大々的に復興されることになります。
慶長13年(1608)、崇伝は家康の目に止まり、その側近として仕えるようになると、金地院は南禅寺の数ある塔頭の中でも最も権勢のある塔頭となっていきます。
慶長15年(1610)には家康によって駿府(すんぷ)に金地院が建てられ、元和(げんな)2年(1616)家康が没した後の元和5年(1619)には遺命によって江戸にも崇伝の為に金地院が建てられています。
以後崇伝は、京都・駿府・江戸の3カ所の金地院を往還しながら幕政の枢機に列することとなります。
寛永(かんえい)3年(1626)、崇伝が後水尾(ごみずのお)天皇より円照本光国師(えんしょうほんこうこくし)の号を許された直後から数年間にわたって、金地院は国師の名にふさわしい伽藍の造営に向けて大規模な工事が行われる(「新金地院作事」)こととなります。
崇伝は親交のあった小堀遠州に工事の協力を依頼します。それから工事は小堀遠州の指揮の下に進められることとなります。方丈の工事に着手したのを始まりに、庫裡(くり)、東照宮(とうしょうぐう)、茶室、庭園など、当時の天下の国師、崇伝の地位にふさわしい堂々とした伽藍様式が整えられ、寛永9年(1632)完工するに至っています。
崇伝のこと
永禄(えいろく)12年(1569)京都に生まれた崇伝は、父の没後に南禅寺で玄圃霊三(げんぽれいさん)に師事し、金地院の法脈を嗣ぐ靖叔徳林(せいしゅくとくりん)から法統を受け継ぎます。その後、醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)で学ぶなどした後、鎌倉五山の一つ、建長寺(けんちょうじ)などの住持を歴任します。そして慶長10年(1605)、臨済宗五山派の最高位である南禅寺の第270世住持となります。
南禅寺住持の選定については、南禅寺開基の亀山(かめやま)法皇が「禅林禅寺起願事」という宸翰(しんかん。自筆の文書。)の中に、「法脈のいかんを問わず、器量卓抜、才知兼全の人物で、仏法を重んじ、勤行を大切にする人柄を選任すべし」と記しています。臨済宗寺院での最高峰にある南禅寺の住持は、これに添った形で五山の住持から選ばれてきたわけですが、この時崇伝はまだ37歳という若さにあり、各流派の長老をさしおいての異例とも言える住持任命となったのでした。
一方、同10年(1605)に三男の徳川秀忠(ひでただ)へ将軍職を譲り、駿河国駿府(するがのくにすんぷ)(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持していた家康は、その3年後の慶長13年(1608)に、崇伝を駿府へ招きます。
当時、政権の基盤を固めようとしていた家康にとっては、崇伝の五山僧として学問によって身につけた内外古典に関する深い学識が必要とされ、また文字によって伝えられた故実や伝統にのっとりながら、為政者の意図を種々の法制に反映させていく為には崇伝の才能が不可欠だったのでした。例えば、外交文書の起草・作成といったものは、先の室町幕府においても五山僧の仕事でもあったのです。
以後崇伝は、外交文書の起草・作成にとどまらず寺社行政、キリスト教の禁止、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わるなど、幕政にも深く参加するようになっていきます。
こうして崇伝は、家康の側近として仕えたもう一人の僧、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)とともに、僧職にありながら政治に参与し、大きな勢力を持つ者として「黒衣の宰相」と呼ばれるようになります。
「黒衣の宰相」といえば、悪い意味で策謀家と受けとられがちですが、江戸幕府創設期の当時に於いて将来に向けての態勢固めを進めていくには、家康にとっては崇伝といったような内外古典の学殖を有する人材が必要とされたのでした。
方広寺鐘銘事件への関わりのこと
「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件に代表されるその強引とも見られる政治手法により、世人からは「大欲山気根院僭上寺悪国師(だいよくざん・きこんいん・せんじょうじ・あくこくし)」とまであだ名されたといいます。
- 【参考】
- 大欲・・・非常に欲の深いこと。また、その人。
- 気根・・・一つの物事にじっと耐える精神力。根気。
- 僭上・・・身分をわきまえず、さしでた行為をする[こと]。
方広寺鐘銘事件については、大坂(豊臣家)討伐のために無理やり仕組まれたことで、それを考案したのは、家康の側近にして黒衣の宰相と恐れられた崇伝あたりのことだろうというのが一般的な見方となっています。
ところで、崇伝が慶長15年(1610)から寛永10年(1633)正月に65歳で没するまで記録していた日記があります。この日記は、武家・寺社などからの書状や崇伝が出した書状の写しといったものが中心となっており、『本光国師日記』(原題は『案紙』。重要文化財。)として知られています。先述の通り、『本光国師』というのは、崇伝が後水尾天皇より賜った国師号です。
『本光国師日記』は、江戸初期の政治・宗教・文化、そして社会の具体相を知る上でも貴重な第一級史料とされています。
この日記に、方広寺鐘銘のことに関して、慶長19年7月27日付で崇伝から豊臣家家臣片桐且元(かたぎりかつもと)に宛てて出した書状が収録されてあり、その中に次のような記述のあることが注目されます。
-
今度鐘銘、(中略)御耳に立てられ候衆これ有る故、拙老式にも御尋ねなされ候へども、一円存ぜざる儀に候条、その様子存ぜざる通り申し上げ候
当時、「大御所」家康に近侍していた崇伝は、家康と同じ駿府城内に居住していました。方広寺鐘銘の件が問題になりだしてから、崇伝は家康からそのことについて尋ねられたというのです。すなわち、
「方広寺の釣り鐘に記してある銘文に問題があることを、家康に告げ知らせた人がいたので、家康から私(崇伝)を含め近習の人達に銘文の是非についてお尋ねがあったけれども、私はそのことは全く知らないことであったので、鐘銘をめぐる事情については知らないとのお返事をしました」
というものです。
つまり崇伝は家康から問い合わせがあるまで方広寺の鐘銘の件が問題となっている事情については全く知らなかった、と言っています。
この書状については、場合によっては、策だけ施しておいて自分は知らない、との言い逃れをしていると受け取られかねない側面もあるかもしれませんが、それにしても、崇伝が世評通りの腹黒い策謀家「黒衣の宰相」であったならば、わざわざ且元に対して書状を送りつけるのであればそれこそ強引にでも、銘文中の問題とされていた「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしんほうらく)」「子孫殷昌(しそんいんしょう)」といった文言を何故使ったのか、その一点について問いただせばよいだけなのではないか、と思えるのです。更には、主君家康に対して「知らない」と返事した、と書面にして豊臣家家臣の且元に送っているのですから、嘘をつくことには大きなリスクが伴うことになります。
つまり、先の崇伝から且元に宛てて出された書状に記された「方広寺の鐘銘の件について私(崇伝)は知らない」と言っているのは、本当のことと受け止めてもいいのではないかと思えるのです。
方広寺鐘銘事件を仕掛けた本当の人物はひょっとしたら他にいた可能性があるともいえるのではないでしょうか。
文教興隆への貢献
家康は、貴重な資料を後世に伝えて文教興隆を図ろうとしていました。そのために、古書の収集・出版や書写といった出版事業、即ち文化的事業にも力を注ぎました。
例えば、関ヶ原の戦いの7ヶ月前の慶長5年(1600)2月に出版された『貞観政要(じょうがんせいよう)』、家康が征夷大将軍の職を辞する直前の慶長10年(1605)3月に出版された『新刊吾妻鏡(しんかんあずまかがみ)』などです。
更に、将軍職を秀忠に譲り大御所として駿府城に移ってからも、家康は出版事業を継続させます。
家康の命で五山の僧に書写させたという『明月記(めいげつき)』(慶長19年(1614)出版。原本は国宝。)、『古事記(こじき)』(慶長19年(1614)〜翌年出版)などがあります。これは家康の側近で五山の頂点に立っていた崇伝を通して行なわさせたものと見ることができます。
そして、家康が崇伝と儒者の林羅山(はやしらざん)に出版を命じたものに『大蔵一覧集(だいぞういちらんしゅう)』、『群書治要(ぐんしょちよう)』などがあります。
『大蔵一覧集(だいぞういちらんしゅう)』は慶長20年(1615)3月に出版されています。この出版のため約10万個の銅活字が用意されたといい、『大蔵一覧集』はわが国最初の銅活字を用いた出版物となり、金属活字印刷の先駈けとなっています。
一方『群書治要(ぐんしょちよう)』は元和2年(1616)5月出版されたもので、家康から本書の出版を命じられた崇伝と羅山は、京都から出版に関する職人や2種以上の写本・刊本などを比べ合わせて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりする(校合(きょうごう))担当の僧侶を呼び寄せ、不足の銅活字を鋳造させるなどして準備を整え、駿府城三の丸で印刷作業に取り掛かります。そして元和2年5月下旬に出版するに至りました。
が、家康はその前月の4月に他界(享年75歳)してしまっていました。家康は完成した『群書治要』を手にすることは出来なかったのでした。
家康は、僧として学問を身につけ五山の頂点に立った崇伝の深い学識をいかんなく発揮させ、また崇伝も家康の期待に応え、文教興隆の一端を担うことができたといえ、家康と崇伝との間には深い信頼関係のようなものがあったのかもしれません。
崇伝と天海の論争
死期を悟ったのか家康は、元和2年(1616)4月2日に、側近の本多正純(ほんだまさずみ)、そして家康にともに仕えた僧の崇伝と南光坊天海を病床に呼び遺言します。
遺骸は駿河の久能山(くのうざん)に埋葬し、葬儀は江戸の増上寺(ぞうじょうじ)で営み、位牌を三河の大樹寺(だいじゅじ)に立てよ。一周忌も過ぎてから下野(しもつけ)の日光山に小さい堂を建てて勧請(かんじょう)するように、と。
そして、4月17日に家康が駿府城で75年の生涯を閉じるとその夜の内に遺言に従って、遺骸は久能山に遷され、吉田神道(よしだしんとう)を受け継ぐ豊国神社(とよくにじんじゃ)別当(べっとう)の神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)が主導する神式で神に祀られて、19日に新造された廟に埋葬されたのでした。
ところが、翌20日になる崇伝と天海の間で家康の神号をめぐって論争が始まります。
当初は崇伝が推した梵舜の吉田流神道による「大明神(だいみょうじん)」号が将軍以下幕閣にも支持されていました。
一方、天海は、以下のような考えを述べます。
家康は超越的な神として祀られるべきである。「大明神」号で祀ると豊国大明神の豊臣秀吉と同格になってしまう。加えて、滅亡した豊臣家の祖と同じ神号では余りにも不吉といえる。
むしろ、自分が主張する「大権現(だいごんげん)」号が鎮護国家的色彩が強く、朝廷・寺社をも含めて統制下に置こうとした家康の意向に叶うものであり、その地位にふさわしい。
この天海の主張が、家康から将軍職を継いでいた秀忠に大きな影響を与えたといえます。
こうして同年5月26日、「大権現」奏請(そうせい)に決定します。そして天皇の許可を得るべく天海らが上洛し、同年9月16日勅許を得たのが「東照(とうしょう)大権現」でした。
写真集(31枚の写真が表示されます。)
仁王門通(におうもんどおり)の南禅寺前交差点から続く松林の広い参道を南禅寺中門(なかもん)の少し手前で南(右手)へ折れると金地院の下乗門(げじょうもん)が見えてきます。
この門をくぐるとやがて金地院大門(だいもん)です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市左京区南禅寺福地町86−12 |
| 宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
| 寺格 | 南禅寺塔頭 |
| 創建年 | 応永年間(1394〜1428) |
| 開基 | 足利義持 |
| 開山 | 大業徳基 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 仁王門通
- 南禅寺前交差点
- 南禅寺参道
- 南禅寺中門
- 南禅寺勅使門
- 下乗門
- 大門
- 明智門
- 弁天池
- 楼門
- 手水舎
- 御成門
- 東照宮
- 門
- 開山堂
- 方丈池
- 石橋
- 飛び石
- 鶴亀の庭
- 方丈
- 庫裡(くり)
- インクライン
- 天授庵
- 鹿ケ谷通
- 南禅寺三門
- 南禅寺法堂(※1)
- 南禅寺方丈(※1)
- 南禅寺本坊(庫裡)(※1)
- 水路閣(※1)
- 南禅院(※1)
- 無鄰菴(むりんあん)(※1)
- 禅林寺(永観堂)(※1)
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近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


