西本願寺
〜世界遺産〜

御影堂門から望む御影堂
御影堂門から望む御影堂
御影堂(ごえいどう)門の釣灯籠の先に巨大とも言える屋根が見える、西本願寺ならではの光景です。

JR京都駅からほど近い古都・京都の町なか、市中を東西に走る七条通(しちじょうどおり)の北側、そして南北に走る堀川通(ほりかわどおり)の西に位置して広々とした境内が広がる浄土真宗本願寺派本山の「龍谷山本願寺(りゅうこくざんほんがんじ)」。通称、西本願寺(にしほんがんじ)。

堀川通から門をくぐり一歩境内に足を踏み入れると、目の前に重厚な甍(いらか)を連ねる二つの巨大なお堂が迫ってきます。親鸞(しんらん)の御真影(ごしんねい)を安置する御影堂(ごえいどう)と阿弥陀如来(あみだにょらい)を安置する阿弥陀堂です。

何度訪れても、その巨大さには圧倒され、その美しい姿には魅了されてしまいます。

西本願寺という通称は、真宗大谷派(おおたには)本山「真宗本廟」、通称東本願寺と区別するため、両本山はよくその通称で呼ばれます。

【関連情報】
西本願寺花灯明〜夜の参拝・特別拝観〜
春の風景2017写真集4)

開創前

鎌倉時代中頃の弘長(こうちょう)2年(1262)11月28日、法然(ほうねん)の法脈を継ぐ浄土真宗の開祖親鸞が押小路南万里小路東(おしこうじみなみまでのこうじひがし)の「善法院」において入滅すると、東山(ひがしやま)の鳥辺野(とりべの)の北、現在の知恩院(ちおんいん)辺りの「大谷(おおたに)」の地に葬られ、墓所が築かれます。

しかし、その墓所に寂寞(せきばく)の感を抱いた親鸞の弟子や東国(関東)の門徒たちが親鸞の末娘、覚信尼(かくしんに)とともに、文永(ぶんえい)9年(1272)、親鸞の墓所を「大谷」の西、「吉水(よしみず)」の北に移して改葬し、六角の廟堂を建てて「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」と称するようになります。これが、後の本願寺開創へと繋がっていくことになります。

永仁(えいにん)3年(1295)頃にはここに親鸞の木像「御影像(ごえいぞう)」が安置されて影堂化し「大谷影堂(おおたにえいどう)」となったといいます。

応長(おうちょう)2年(1312)、覚信尼が亡くなるとその子覚恵(かくえ)が「大谷影堂」(「大谷廟堂」)の守護をする留守職(るすしき)を継ぎましたが、覚惠も亡くなると留守職(るすしき)を継いだ覚惠の長男覚如(かくにょ)が「大谷影堂」の寺格化をはかり、正和(しょうわ)元年(1312)「専修寺(せんじゅじ)」と額を掲げます。

ところが、この寺号に比叡山・延暦寺(えんりゃくじ)から「専修念仏停止(ちょうじ)以来、『専修』という語は使うべからず」との抗議がはいり、撤去せざるをえなくなってしまったのでした。

本願寺成立と苦難

それから9年経った鎌倉時代末期の元亨(げんこう)元年(1321)、覚如が再度寺院化を試み、その後、「本願寺」(大谷本願寺)と号し寺院として成立することとなります。「本願寺」の呼称は、13世紀に亀山(かめやま)天皇より「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)の寺号を下賜されたことに由来するといいます。

覚如は「本願寺」のもとに、親鸞の門弟・門徒を団結させて浄土真宗の興隆を企図します。

しかし現実問題として、京都のお膝元にあって、強大な対抗勢力である延暦寺以下、既存寺院の経済力・軍事力の前に、いわば生まれたばかりの本願寺はそれに伍する力もありませんでした。

当時、浄土真宗は京都で生まれた本願寺に一本化されたわけではありません。栃木などの東国や近江(おうみ)(滋賀県)・加賀(かが)(石川県)・能登(のと)(石川県)・越前(えちぜん)(福井県)など近江国や北陸地方を中心にして徐々に教線が拡張されていく中にあって、京都にあった本願寺のみは、延暦寺の支配下にあった青蓮院(しょうれんいん)の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況だったのでした。

覚如は存命中には、「本願寺」のもとに親鸞の門弟・門徒を団結させて浄土真宗の興隆を図る、というその志を遂げることはできませんでした。

中興の祖、蓮如

時代も変わった室町時代中頃。

この覚如の志を実現へと導く人物が出てきます。長禄(ちょうろく)元年(1457)、本願寺第8世となった蓮如(れんにょ)です。

蓮如が第8世を継承した当時の本願寺は衰亡の極みにありました。

当時の本願寺は宗派の中心寺院としての格を失った上に青蓮院の一末寺でしかなく、経済的にも疲弊していたのです。そのために、蓮如の支援者らが参拝しようとした際には、余りにも寂れた本願寺の有様に呆れ果て、やむなく、京都渋谷(しぶたに)にある、同じ浄土真宗の佛光寺(ぶっこうじ)(京都市下京区)へ参拝したほどであったといいます。

その後蓮如は、本願寺の改革を強力に推し進めると共に、伝道活動を活発に展開していきます。その結果、蓮如の下に人々が集まってきだしました。

ところが、これに危機感を覚えたのが比叡山で、寛正(かんしょう)6年(1465)、本願寺を打ち壊すという挙に出ます(寛正の法難)。

この法難に遭うまで本願寺は京都の大谷の地にありましたが、蓮如は難を避けて京都から近江(滋賀県)の金森(かなもり)、堅田(かたた)などを転々としたのち、文明(ぶんめい)3年(1471)、越前(えちぜん)(福井県)の吉崎(よしざき)に坊舎を建てて布教に努めます。この時には、初期の寺内町(じないちょう/じないまち)も形成されます。寺内町は、浄土真宗などの仏教寺院を中心に信者や商工業者などで形成された自治集落で、社会情勢が不安定であった時代に相応しく、周囲には土居(どい)を巡らし、濠(ほり)を掘って、他宗派や領主の攻撃に備えるという囲郭都市としての機能も持ち合わせるというものです。

その甲斐あって多くの信者が蓮如の下に集まってくることになります。

そうした最中、北陸各地で浄土真宗門徒を主とした一揆(いっき)が起こったことから、文明(ぶんめい)10年(1478)、蓮如は越前を去って京都の山科(やましな)へと赴きます。そしてその翌年1月には本願寺の再建に着手しだします。こうしてその4年後の文明15年(1483)、念願であった「本願寺」の落成に辿りついたのでした。山科本願寺です。

この時、寺の造営とともにその周辺には多数の民家が営まれるようになり、寺内町が形成されていきます。諸国からも参詣人に加えて各職種の人たちも集まってくるようになり、京都市中をしのぐ賑わいをみせるようになっていきます。

本願寺の教線は次第に、北は東北から、南は九州にいたるまで全国にのびていきます。

こうして、蓮如によって本願寺は日本有数の大教団へと成長していくことになります。

本願寺を第8子(5男)の実如(じつにょ)に委譲した蓮如は、明応(めいおう)6年(1497)、隠居所として、大坂の石山(いしやま)に坊舎(「大坂御坊」)を建立します。後年、ここは「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号されるようになる(1532年)所であり、それから更に約半世紀後にはその地を含む一帯に豊臣秀吉が大坂城を築く(1583〜86年)ことになる所です。

病を得た蓮如は、明応8年(1499)2月、親鸞の影像に参るため山科へ戻った翌月の3月25日、山科本願寺にて85年の人生の幕を閉じます。

写真集1写真集1(33枚の写真が表示されます。)
写真 
堀川通より
JR京都駅からもほど近い、七条通(しちじょうどおり)と堀川通(ほりかわどおり)の交差点(七条堀川)を堀川通に沿って北へ100メートルと少しばかり行くと左手に西本願寺が見えてきます。
築地塀の先には御影堂門(ごえいどうもん)が見えています。

動乱の中で

やがて時代は戦国時代へと移っていきます。

戦国の世にあって、本願寺は、支配者に対抗しようとする民衆の支えとなって、教勢は著しく発展していくこととなり、次第に一つの強力な社会的勢力としての地位を築いていくことになります。

蓮如の後を継いだ第9世実如(じつにょ)の時には、永正(えいしょう)13年(1516)、山科本願寺は後柏原(ごかしわばら)天皇の勅願寺(ちょくがんじ)となります。

実如の遷化にともない、本願寺第10世を継承した証如(しょうにょ)の時には、天文(てんぶん)元年(1532)6月、細川晴元(ほそかわはるもと)の要請を受け、近畿の門徒2〜3万人を動員して大阪府大東(だいとう)市と四條畷(しじょうなわて)市にまたがっていた飯盛城(いいもりじょう)の戦いに参戦して畠山氏を破っています。

こういった中、本願寺の力に脅威を抱いた法華宗徒(ほっけしゅうと)らの焼き討ちによって、同年8月、山科本願寺の堂宇と寺内町は焼失してしまったのでした(法華一揆)。

このため本願寺は寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移します。「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立されていた小規模な坊舎でしたが、拡張してここに堂宇を建て、寺内町も形成されます。以後、「大坂御坊」は「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号されることになります。

その後も教線を拡大する本願寺にあって、証如の遷化にともない本願寺第11世を継承した顕如(けんにょ)の時には、永禄(えいろく)2年(1559)、門跡(もんぜき)(天皇の子息が入る寺院)に列せられるまでになります。

ところが、天下統一を目指す織田信長(おだのぶなが)が、その勢力が障害になるとして浄土真宗門徒の本拠地であった石山からの退去を命じたことを起因に、元亀(げんき)元年(1570)、石山本願寺に侵攻し、断続的ながら約11年に及ぶ「石山合戦」が始まったのでした。

合戦当初こそ信長と徹底抗戦の構えであった顕如とその長男・教如(きょうにょ)でしたが、時が過ぎ、合戦末期ともなっていくと、顕如を中心とする信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、長男の教如を中心とする徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していきます。この内部分裂が、後の本願寺の東西分派の遠因となっていきます。

世は安土桃山時代へと変わっている天正(てんしょう)8年(1580)3月、顕如は正親町(おおぎまち)天皇の勅使、近衛前久(このえさきひさ)の仲介により信長との和議を受け入れ、穏健派と共に石山本願寺から紀伊(和歌山県)鷺森(さぎのもり)(鷺森本願寺)へ移転することになります。

一方、教如は徹底抗戦の構えを崩しません。そのため顕如はとうとう教如との親子関係を絶ってしまいます。教如はその後も石山本願寺に籠城を続けます。

同年8月になって再びやって来た近衛前久の説得に応じて、教如は「石山本願寺」から退去することを決め、寺を信長に明け渡します。石山本願寺には火が放たれ灰燼(かいじん)と化してしまうことになります。

天正10年(1582)、明智光秀(あけちみつひで)の謀反によって信長が本能寺で自害します。

代わって政権を握った豊臣秀吉は顕如と友好を結びます。また顕如は、教如との親子関係を元に戻しています。

翌天正11年、秀吉は石山本願寺跡地を含む一帯に大坂城を築きます。一方、顕如は大坂の貝塚(かいづか)に移りますが、天正13年(1585)5月には秀吉から寺地を受けて、大坂の天満(てんま)に移ります。そして同年8月には阿弥陀堂(あみだどう)が建てられ、翌年の8月には御影堂(ごえいどう)が落成します。大坂天満本願寺のはじまりです。

京都移転

天正19年(1591)、秀吉は洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じ、京都の都市改造を行ないます。

その中で顕如は、秀吉から再び京都に寺地の寄進を受けます。これが現在の七条堀川の地です。これを受けて同年8月には御影堂が大坂天満本願寺から移築されてきます。加えて天正20年(1592)7月には阿弥陀堂が新築され、ここに「本願寺」が完成することとなったのでした。

譲状

文禄(ぶんろく)元年(天正20年)(1592)、顕如が世を去ると、顕如の長男である教如が本願寺を継承します。ところがこの時、教如が先の石山合戦で自分と一緒に最後まで籠城した元強硬派を側近に置いて、父・顕如と共に鷺森に退去した元穏健派を重用しなかったことから、教団内の対立が顕在化してくることになります。

そのような時に、顕如が三男の准如(じゅんにょ)にあてた「留守職譲状(るすしきゆずりじょう)」が出てきます。そこで翌文禄2年、顕如の室にして教如の実母である如春尼(にょしゅんに)と穏健派の一行は、この譲状を秀吉に示して、教如の継職に疑義を訴えます。

この訴えを受けた秀吉は、同年閏9月12日、教如ら関係者を大坂城に呼び出し詮議を行なった後、「教如が先ず10年継職し、その後弟の准如が継職する」という裁定を下したのでした。

教如はこの決定に従おうとしましたが、教如を取り巻く強硬派の人たちが、秀吉に異義を申し立て、譲状の真贋(しんがん)までも言い立てたことから秀吉はこれに激怒します。そして、教如を即座に退隠させ、三男准如を本願寺第12世とし継職を命じたのでした。

この背景には、先の信長との「石山合戦」において見られた穏健派の父・顕如と強硬派の長男・教如との対立がくすぶり続けていたことが見てとれるのです。

本願寺の一角に退隠させられた教如は、「裏方」と呼ばれることになります。

やがて訪れる本願寺分立の芽が着々と育っています。

本願寺分立

慶長(けいちょう)3年(1598)秀吉が世を去り、関ヶ原の戦いの後、かねてより徳川家康(とくがわいえやす)に通じていた教如はさらに家康に接近します。

そしてついに慶長7年(1602)、後陽成(ごようぜい)天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸(からすま)六条に四町四方(よんちょうしほう)(1町は約109メートル)の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移し、ここを本拠とすることになります。

ここに本願寺は、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代宗主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂することになったのです。

教如が家康から寄進を受けた烏丸六条の本願寺は、七条堀川の本願寺の東にあることから、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになります。

ただ、東西分立後も昭和62年(1987)までは、東西両本願寺ともに「本願寺」が正式名称として使われています。

写真集2写真集2(11枚の写真が表示されます。)
写真 
虎の間の玄関
西本願寺には、御影堂・阿弥陀堂という純粋な宗教施設の背後に、白書院や黒書院といった書院の建物があります。御影堂の前を南西の方に向かって続いている石畳に沿って行くと、それまでとはがらりと趣きが変わった景観が目の前に現れてきます。その最初に見られるのがこの虎の間(とらのま)の玄関です。
≪関連情報≫
項目 内容
正式名 本願寺
別称 お西さん
所在地 京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺
山号 龍谷山
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
寺格 本山
創建年 大谷本願寺≪元亨元年(1321)≫
西本願寺≪天正19年(1591)≫
開基 大谷本願寺≪本願寺第3世・覚如≫
西本願寺≪本願寺第11世・顕如≫
文化財
国宝
書院(対面所及び白書院)、北能舞台、鏡御影(かがみのごえい)、阿弥陀経註(あみだきょうちゅう)(親鸞筆)ほか
重要文化財
能舞台(南能舞台)(附橋掛(つけたりはしがかり))、本願寺御影堂留守職歴代譲状、恵信尼自筆書状類<覚信尼宛>ほか
史跡
本願寺境内
名勝
滴翠園
史跡、特別名勝
大書院(おおしょいん)庭園

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 堀川通
  2. 七条通
  3. 猪熊門
  4. 馬繋
  5. 北小路門
  6. 北小路通
  7. 唐門
  8. 大玄関門
  9. 台所門
  10. 正面通
  11. 総門
  12. 御影堂門
  13. 阿弥陀堂門
  14. 太鼓楼
  15. 経蔵
  16. 阿弥陀堂
  17. 御影堂
  18. 大銀杏
  19. 鐘楼
  20. 飛雲閣
  21. 滴翠園
  22. 滄浪池(そうろうち)
  23. 黄鶴台(おうかくだい)(蒸し風呂)
  24. 虎の間の玄関
  25. 浪の間の玄関
  26. 浪の間・虎の間・太鼓の間
  27. 南能舞台
  28. 中雀門
  29. 大玄関
  30. 書院(白書院・対面所・菊の間・雁の間・雀の間・狭屋(さや)の間)
  31. 虎渓の庭
  32. 黒書院
  33. 北能舞台
  34. 大宮通
  35. 花屋町通
  36. 興正寺
  37. 東本願寺(※1)
  38. JR京都駅(※1)
  39. 京都水族館(※1)
  40. 梅小路蒸気機関車館(※1)
  41. 東寺(※2)
  42. 渉成園(しょうせいえん)(枳殻邸(きこくてい))(※2) 
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 18:58 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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