大報恩寺(千本釈迦堂)

本堂(釈迦堂)
本堂(釈迦堂)
穏やかに流れるような外観を呈しているこの本堂は、鎌倉時代初期に建立されたもので、創建当初の遺構として知られています。
国宝。

東は銀閣寺(慈照寺)門前から、京都御所のある京都御苑(ぎょえん)の北端を通り、北野天満宮の南端を通って西へと延びる今出川通(いまでがわどおり)。その今出川通沿いの北野天満宮に程近い上七軒(かみしちけん)の交差点から北へ200メートルほど行った先の突き当たりに大報恩寺(だいほうおんじ)はあります。

古来、大報恩寺は清凉寺(せいりょうじ)とともに釈迦信仰の中心として繁栄してきたことで知られています。清凉寺が嵯峨釈迦堂と呼ばれるのに対して、大報恩寺は千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)あるいは北野釈迦堂とも呼ばれ、ここには京都市に現存する最古の遺構が受け継がれています。

京洛最古の遺構

『平家物語』では「猫間中納言(ねこまちゅうなごん)」として名高い藤原光隆(ふじわらのみつたか)の従者であった岸高(がんこう)なる人物が義空(ぎくう)に境内地を寄進したといいます。義空は、平安時代末期に奥州(おうしゅう)(青森県、岩手県、宮城県、福島県、山形県、秋田県)を支配した武将、藤原秀衡(ひでひら)の孫とされ、比叡山で修行をつんだ僧侶です。

鎌倉時代初期の承久(じょうきゅう)3年(1221)、義空が仏像を彫り、これを安置する小堂を建立したことが千本釈迦堂の草創と考えられています。

その後、義空は大堂建立を発願(ほつがん)し、喜捨(きしゃ)を受けてその上棟(じょうとう)が行われました。今日、目にすることのできる本堂(釈迦堂)がまさにこれにあたります。昭和26年(1951)の本堂解体修理時に義空の願文が発見され、それによって、この本堂は安貞(あんてい)元年(1227)12月26日の上棟であることが判明したのでした。

即ち、室町時代中頃、京都のいたるところで火の手をあげさせた応仁文明(おうにんぶんめい)の乱(1467〜1477)や、また江戸時代中頃に起こった享保(きょうほう/−ほ)年間(1716〜36)の大火などにおいて諸堂舎が灰燼(かいじん)と化すことはあっても、この本堂だけは奇跡的に焼けることなく受け継がれてきた創建当時のものといえるのです。それ故に京洛最古の建造物となっています。

千本釈迦堂は、本堂の上棟から8年後の嘉禎(かてい)元年(1235)には、倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗を普及させるための道場とされ、広大な伽藍を誇り、寺領も山城(やましろ)、播磨(はりま)などに相当あったといいます。

ところが、先述の応仁文明の乱以降、本堂だけは兵火を免れたとはいえ、寺領は失われ、衰退へと向かいます。そのため一時、大和(やまと)(奈良県)の長谷寺(はせでら)が関与して修造を図ったことなどもあったようです。

しかし、安土桃山時代となった天正(てんしょう)年間(1573〜91)には、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が聚楽第(じゅらくだい/−てい)建立に際し、寺領を減じたことから再び衰退へと向かいます。その後、江戸時代に入った元和(げんな)5年(1619)に復興が行われ、この時を以って真言宗智山派に転じたといます。

夫を救った妻、そして・・・

鎌倉時代の初めころ、西洞院(にしのとういん)一条上(あが)るの辺りに都界隈では名の通った長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という棟梁が住んでいました。妻の名は阿亀(おかめ)といいました。

義空が本堂を建てるに当たり総棟梁として選ばれたのが高次でした。

造営工事が進む中、高次が信徒から寄進された四天柱(してんばしら)(堂の周囲や堂の内陣をしきる四本の柱)のうち一本の寸法を誤って短く切ってしまいます。代わりとなる柱はなく、高次が困り果て悶悶とする中、日は過ぎていきます。高次のその様子に気づいたのが妻の阿亀(おかめ)でした。

阿亀は夫の力になろうと古記録を調べます。そして出した結論が、短く切ってしまった柱の長さに他の3本も合わせて長さを同じくした上で、その4本の柱の上に枡組(ますぐみ)を用いて高さを調整してはどうか、ということでした。高次は阿亀のこの提案を妙案とばかりに工事を進めたのです。結果、無事に本堂の骨組みを築くことができたのでした。

しかし、今度は阿亀が悩みを抱えることになります。夫の仕事に口を挟んだこと、その口を挟んだことで夫が大任を果たしたということが人々の知るところとなったら何と言われるだろう・・・。このことがもれ聞えることを恐れた阿亀は、安貞((あんてい)元年(1227)12月26日の上棟式を見ることなく自刃(じじん)してしまったといいます。

上棟の日、高次は亡き妻の面を御幣につけて飾り、妻の冥福と本堂の完成を祈ったといいます。この話を聞いた人々は涙し、阿亀の菩提を弔うために宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建てたのでした。そしてこの宝篋印塔は、いつしか「おかめ塚」と呼ばれるようになったといいます。

写真集写真集(6枚の写真が表示されます。)
写真 
上七軒の交差点より
北へと延びるこの道の先に千本釈迦堂があります。
この交差点の西側(写真左手)には七本松通(しちほんまつどおり)と上七軒通(かみしちけんどおり)があり、その上七軒通に沿って進むと北野天満宮へと出ます。
≪関連情報≫
項目 内容
正式名 大報恩寺
別称 千本釈迦堂、北野釈迦堂
所在地 京都市上京区五辻通六軒町西入溝前町
山号 瑞応山
宗派 真言宗智山派
本尊 釈迦如来
創建年 承久3年(1221)
開基 義空
文化財
国宝
本堂(釈迦堂)
重要文化財
木造釈迦如来坐像(行快作)、木造十大弟子立像、木造六観音菩薩像ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 本堂(釈迦堂)
  2. 霊宝殿
  3. おかめ塚
  4. 北野経王堂願成就寺
  5. 山門
  6. 千本通
  7. 五辻通
  8. 七本松通
  9. 上七軒通
  10. 今出川通
  11. 上七軒交差点
  12. 北野天満宮(※1)
  13. 平野神社(※2)
  14. 上品蓮台寺(※2)
  15. 大徳寺(※3)
  16. 高桐院(※3)
  17. 金閣寺(鹿苑寺)(※3)
  18. 等持院(※3)
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図の操作について

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近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 19:51 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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