妙心寺

三門・仏殿・法堂
三門・仏殿・法堂
南総門から一直線に延びる石畳沿いに、南から北へと並んで立つ三門(さんもん)(手前)、仏殿(ぶつでん)(中)、法堂(はっとう)(奥)。更にその先には方丈(ほうじょう)や寝堂(しんどう)、庫裡(くり)等が続き、南面して整然と建てられた大伽藍が甍を連ねています。
そして、その東側には浴室(よくしつ)、浴鐘楼(よくしょうろう)、経蔵(きょうぞう)が並んで立ち、西側には黄鐘調鐘(おうじきちょうのかね)の鐘楼(しょうろう)が立ち、広大な境内地には数多くの塔頭(たっちゅう)が林立するという、禅宗寺院の典型的な伽藍配置が見られます。
いずれも重要文化財。

連なる塔頭、清新な白漆喰の壁、落ち着きのある築地塀、掃き清められた石畳、そしてそれらを包み込む広大な境内。そんな印象が思い浮かぶのが妙心寺(みょうしんじ)です。

北は一条通から南は妙心寺道(みょうしんじみち)まで広がる境内は、甲子園球場8つ分を超える広さに相当する10万坪以上にも及び、そのせいか境内を行き交う人がまばらに感じてしまうほどです。

妙心寺の山内には、世俗の喧騒とは無縁の静寂な空間が広がっています。

開創

妙心寺のある京都市右京区花園(はなぞの)。

平安時代初期、この地には左大臣清原夏野(きよはらのなつの)ら、貴人たちが山荘を造営し多くの花が育てられていたといいます。そのことからこの辺りの地に「花園」の名が付いた、といわれています。

時は下って室町時代、この地の名「花園」が贈られたのが、この地に所有していた離宮を禅寺に改めた法皇、「花園法皇」です。

12歳で即位した花園(はなぞの)天皇は、鎌倉時代の末の文保(ぶんぽう)2年(1318)に22歳の若さで後醍醐(ごだいご)天皇に譲位します。その後、和漢の学問や以前から関心の高かった仏道にも一層心を傾けるようになります。しかし、次第に脚気を患うなど病気がちとなり、それからというもの、特に深い関心と理解を寄せるようになったのが「禅」であったといいます。

最初は妙暁(みょうぎょう)から禅のかなめを聞き、教えを受けます。やがて妙暁が中国・元(げん)に留学すると、特に教えを受けるようになったのが大徳寺(だいとくじ)を開創した宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師(だいとうこくし))でした。しかし宗峰も病を患うようになり、後事を託さねばならぬほどに悪化していることを知った花園法皇は勅使を使わした見舞いの中で、門弟の中で優れた禅僧を指示されよ、と尋ねます。これに対して宗峰が推挙したのが関山慧玄(かんざんえげん)でした。

ただ、宗峰が言うには、「関山は生来風顚漢(ふうてんかん)で、居所が定まっておらず、どこにいるのかもわかりません。その為、後日にでも詔(みことのり)を出されて探し出されてはいかがでしょうか。」とこたえます。風顚漢とは「気のふれた人」といったような意味合いとも受け取れるのですが、少し変わった人とでもいうことなのでしょうか。

花園法皇は花園の地に所有していた離宮「萩原殿」を寺にして、関山を開山として招きたい、ついては山号と寺名を示して欲しい、と宗峰に尋ねます。これに対して宗峰がこたえたのが「正法山妙心禅寺(しょうぼうざんみょうしんぜんじ)」でした。

「正法山」の山号は「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」から、また「妙心」の寺号は「涅槃(ねはん)妙心」からとったものといいます。

悟りを得て宗峰から「関山」の号を授かり(このときの宗峰による「関山」号の墨蹟は国宝として残されています)、諱(いみな)を「慧玄」と改めていた関山は、その頃、美濃(岐阜県南部)の伊深(いぶか)の山里に隠れるようにして草庵を結んで、更なる修行にいそしんでいました。

日々の生活では、里人の農事を手伝い、牛、馬を使って請われるままに田や畑を耕し、また山にきこりするといった作務三昧(さむざんまい)であり、夜は石上に坐禅したと伝えられています。

修行を積んで悟りを開いた後に自然と備わってくる人格の光は、人には分からないように包み込んでいたのです。

建武(けんむ)4年(1337)宗峰が世を去っても、関山の居所は分かりません。それでも方々を探しまわってやっとの思いで美濃の伊深にいることが分かりました。花園法皇は勅使をたてて迎えようとします。最初は固辞していた関山でしたが、法皇の勅である上に、宗峰の遺命でもあることを受けて、ついに関山は都へのぼることにしたのでした。

暦応(りゃくおう)5年(1342)正月29日、禅寺に改められた花園法皇の離宮が、関山に下賜(かし)された綸旨(りんじ)によってここに妙心寺が開創されたのでした。花園法皇も居室の傍らに玉鳳院(ぎょくほういん)を築いて、朝夕、関山に参禅したといいます。

ところがしばらくして後、世俗を嫌い隠遁癖の強い性情の持ち主であった関山は、康永(こうえい)4年(1345)ごろから観応(かんのう)2年(1351)まで、7年間ほど妙心寺を離れて姿をくらましてしまいます。その理由は伝えられていないようですが、東海地方(遠州(静岡県西部)長島)で草庵を結んでいたとも言われています。

関山が妙心寺を離れていたその最中に、病を発した花園法皇は妙心寺の行く末を心にかけ、貞和(じょうわ)3年(1347)7月22日の日付で関山に宛てた置文(おきぶみ)をしたためて関山の翻意を促しています。

それは「往年先師大燈国師・・・」(原漢文)と始まるものです。大燈国師(だいとうこくし)即ち師の宗峰妙超への恩に報い、徳に謝する思いと仏法興隆の志が頭から一時も離れなかったが、重なる病の為に思うに任せることができない。よって、大燈国師の法を受け継ぐ一流を大徳寺とは別に再興することと妙心寺造営のことを仙洞御所(せんとうごしょ)の光厳(こうごん)上皇に託したので、自分がこのまま世を去っても、この志を遂げて欲しい。それができるのは宗峰門下においては、関山をおいて他にない。将来のことをよくよく見通して、自分の願いであった仏法の興隆を果たして欲しい。ここにことさらに文字にのこして年来の思いを述べるものである、との悲痛極まる内容のものです。

これはその書き出しの「往年(おうねん)」の2文字をとって「往年の宸翰(しんかん)」(重要文化財)と呼ばれているものです。

花園法皇はその翌年の貞和4年11月11日、52歳で世を去っています。

観応2年(1351)8月22日、関山は妙心寺に戻り、以後大いに興隆に励んだといいます。

関山のこと

関山が門下に対して行う指導は情け容赦のない相当厳格なものであったといわれ、よほどの素質・能力が優れていた人でなければその指導に堪え得ることはできなかったといいます。関山の甥の場合においてはその室より追い出されること25回にも及んだといいます。そのため関山の門下の中で嗣法(しほう)した人といえば授翁宗弼(じゅおうそうひつ)ただ一人でした。関山の後を継いで妙心寺第2世住持となった人です。

一方、関山には形式的な読経やきまりといったものにこだわるというところはなかったようです。また、殿堂の荘厳にも気をとめるといったこともなく、それどころか、堂舎は雨漏りさえする有り様であったといいます。道具類を飾ることもなく、室内に無用の長物の類は一切なく、あったのは花園法皇が遺したり、後醍醐(ごだいご)天皇から頂戴した宸翰が入った箱のみであったといいます。

実に枯淡な日常生活であったようです。

また弟子に対する指導が厳しかった反面、関山の円満な人柄を窺わせる次のような話も伝えられています。

客があってそのもてなしに風呂をわかすことを命じられた風呂当番が、焚く燃料がない旨を関山に伝えると、縁板を取り払って、それで風呂をわかさせた、という話。

雨の日に修行者たちが茶摘み作業をしているのを見た関山は、修行者たちを雨に濡れるままにしているのは何ごとかと言って、茶の木を切りとって屋内で茶摘みをさせた、という話。

関山と同じ臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧で、時の権力者である(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟の帰依を受け、天龍寺の開山となっていた夢窓疎石(むそうそせき)が、天龍寺のある嵯峨より京に入る途中に妙心寺の門前を通ったおり、関山を突如訪問するということがありました。関山は破れた硯箱(すずりばこ)からわずかな銭(ぜに)を取り出すと近くの在家に小僧をはしらせ、「やきもち」を買わせてもてなした、という話。

そして、この三つ目の話の続きとして、夢窓は「やきもち」を有難く賞味し、法談ののち退出すると、関山の人となり・日常に感じ入って「残念ながら、わが天龍の法は、やがて関山に奪われるであろう」と予言したといいます。そしてその夢窓の予言は適中することとなります。

関山は語録、墨蹟(ぼくせき)、頂相(ちんそう)(肖像画)のたぐいを殆ど遺しませんでした。

今日妙心寺に伝わる頂相は、時代が下った室町時代に妙心寺第7世住持の日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が描かせたものであるといいます。

また、わずかに遺された語録に、「柏樹子(はくじゅし)の話(わ)に賊機(ぞくき)あり。」という語が見られますが、この語は後に法灯を護ることとなります。

江戸時代初期の承応(じょうおう)3年(1654)、明(みん)から当代きっての禅僧といわれた隠元(いんげん)が来朝します。隠元は、のち、黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)(京都府宇治市)の開山となる人で、来日した際に日本に持ち込んだことからその名が付いたとされる「インゲンマメ」でも知られています。

隠元は、日本の名刹を表敬訪問します。その一つに妙心寺がありました。

妙心寺では、これを機に隠元を妙心寺に迎え入れようとする動きが内部に起こります。隠元もまた入山を希望していたともいわれています。

当時、他の禅の法系が中絶した中にあって妙心寺は関山一流の臨済禅の法燈を護っていました。それを支えていた一人に愚堂(ぐどう)(第137世住持)がいました。隠元の妙心寺への受け入れの是非について、愚堂は関山一流の法燈を護るべきであるとして、受け入れないことを主張していた一人です。

隠元は、妙心寺の開山である関山の語録を拝見したい、と申し出ます。

これに対して愚堂が即座に、「開山に語録はありませんが、『柏樹子の話に賊機あり』の一語があります。」とこたえます。「柏樹子」は柏樹という木の名前(「子」は置き字で意味を持ちません)で、この木は香木の一種でまた常緑樹でもあり大変役に立つ樹木とされ、また「賊機」は「盗賊の心」の意。つまり、先の語は、柏樹子の言葉には、俗世間で手に入れたいとする名誉や利益、あるいは、それを求めようとする気持ちを取り去るような心がある、とでも解釈すればいいのでしょうか。

隠元は「その一句、百千万の語録にもまさる」と畏怖感歎(いふかんたん)し、慇懃に拝をして妙心寺を後にしたといいます。

隠元にとっては単なる表敬訪問に過ぎなかったかもしれませんが、関山が僅かに遺した語が、愚堂によって関山一流の法燈を護ったといえます。

境内
境内
ひっそりと静まり返り、真っすぐに延びる石畳は綺麗に掃き清められ、塵一つない境内。
石畳沿いの松の樹木は白壁、築地塀と調和し、ゆっくりと歩き進むうちにいつの間にか心の中まで静けさに満たされていくようです。

中絶、復興、無、そして再興

応永(おうえい)6年(1399)、守護大名の大内義弘(おおうちよしひろ)が室町幕府に反旗をひるがえした応永の乱が起きます。義弘が自刃してのち、義弘が妙心寺の有力檀越(だんおつ)で、当時の妙心寺第6世住持拙堂宗朴(せつどうそうぼく)と関係が深かったことから大内氏と気脈を通じたとして、将軍職を譲りながらも実権は掌握したまま出家していた足利義満(あしかがよしみつ)の怒りを買ってしまいます。義満は妙心寺の寺地も寺産も没収して青蓮院(しょうれんいん)(天台宗)の管轄とし(義満の3男で当時青蓮院にいた義円(ぎえん)に附与。義円はのち還俗して室町幕府第6代将軍となる足利義教(よしのり)。)、拙堂宗朴は青蓮院に幽閉されてしまいます。その3年後(1402年)、妙心寺は南禅寺徳雲院に移管され、龍雲寺(りょ(ゅ)ううんじ)と改名させられ、中絶してしまうことになります。妙心寺の創建から60年、開山の関山が亡くなってから40年ほどが経った頃のことです。

そして妙心寺中絶からほぼ30年。永享(えいきょう)4年(1432)、南禅寺徳雲院(とくうんいん)の廷用宗器(ていようそうき)(義満の叔父)が、当時、南禅寺にいた関山派の流れを汲む根外宗利(こんがいそうり)をよび「花園は汝が祖の遺蹟であるから返還する」旨を述べ、妙心寺が返還されることになったことから復興への動きが始まります。そこで根外は洛中の関山派諸老と協議して、尾張(愛知県西部)の犬山の青龍山瑞泉寺(せいりゅうざんずいせんじ)に住していた日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を第7世住持として迎えて、妙心寺を中興することとなったのでした。

先の中絶からほぼ30年間荒れるに任せていた妙心寺の復興が日峰によって始まります。

寺名は再び妙心寺と改められ、時に65歳ともなっていた日峰は、雲衲(うんのう)を率いて、自らも瓦のかけらや小石を拾い、生い茂った藪を切り開くといった重労働ともなる作業の日々を送ることになります。

一方、日峰は開山堂(御笑庵(みしょうあん))を復興してその傍らに養源院(ようげんいん)と名付けた小院を創めます。

地道な日々の作業の甲斐もあって堂舎もやや備わり、加えて室町幕府管領(かんれい)細川持之(ほそかわもちゆき)(細川勝元(かつもと)の父)の帰依も受けるようになり、徐々に妙心寺復興の基盤が取り戻されることになります。

このことから日峰を以って妙心寺の中興とされています。

日峰の後を第8世住持として引き継いだのは義天玄詔(ぎてんげんしょう)です。義天は細川勝元(ほそかわかつもと)の外護(げご)を得て龍安寺(りょうあんじ)を開創(宝徳(ほうとく)2年(1450))し、妙心寺の復興にもつとめましたが、応仁(おうにん)元年(1467)に発生した応仁・文明の乱の兵火を受けて妙心寺、龍安寺ともに炎上し、もとの無に帰してしまったのでした。

ほぼ10年にわたって続いた応仁・文明の乱がその終わりを迎えた文明(ぶんめい)9年(1477)の年、後土御門(ごつちみかど)天皇から妙心寺再興の綸旨が下賜され、第9世住持となっていた雪江宗深(せっこうそうしん)が細川管領家の援助の下に復興に尽力します。

雪江は寺院経営にも策を講じて健全なものとしていきます。それまで寺領荘園の年貢に頼っていた経営から、大名をはじめとする多数の信徒からの檀施や、散在する田畑・山林の所有に基礎を置く経営へと転換させていったのでした。加えて一山の会計簿である「米銭納下帳(べいせんのうげちょう)」を作って会計制度が設けられ、妙心寺の寺院経営は制度的に確立されることとなります。

妙心寺が「算盤面(そろばんづら)」と呼ばれる所以です。

境内地寄進

世相が乱れ、戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、15世紀末から16世紀末にかけてのおよそ80年間にわたって、ほぼ恒常的に戦闘が繰り返された戦国時代。

妙心寺はこの戦国時代の中で発展への大きな転機を迎えます。

永正(えいしょう)6年(1509)2月、後柏原(ごかしわばら)天皇から、妙心寺は紫衣(しえ)をつけて入寺ができる寺(紫衣勅許の禅寺)とし、さらに大徳寺と同格の寺とする、という綸旨が下賜されます。

続いて同年12月、妙心寺の寺地が一挙に今日の規模に拡大する機会が訪れます。

当寺妙心寺は今日のような広大な境内地を有していませんでした。そこに、先の後柏原天皇からの綸旨が功を奏したのか、第11世住持悟渓宗頓(ごけいそうとん)に帰依していた利貞尼(りていに)が、御室仁和寺(おむろにんなじ)の真乗院(しんじょういん)から土地を買い求め、妙心寺に寄進したのでした。(一条通沿いにある妙心寺北総門から仁和寺までは700メートルほどの距離となります。) 利貞尼は、美濃加納の城主、斉藤利国(さいとうとしくに)の妻で、関白・一条兼良(いちじょうかねら)の女(むすめ)といいます。夫の利国が戦死した後、当時岐阜瑞龍寺(ずいりゅうじ)にいた悟渓宗頓に帰依して尼となり、美濃汾陽寺(ふんようじ)の松隠庵(しょういんあん)に隠棲していました。

利貞尼は土地を妙心寺に寄進した事が間違いのないことを証するため綸旨を申請します。翌永正7年(1510)6月21日、後柏原(ごかしわばら)天皇の綸旨下賜があり、こうして新たな境内が妙心寺に増えたことが確定されたのでした。

妙心寺の境内がほぼ現有の状態となったのは、これ以後のこととなります。利貞尼によって寄進されたのは、石畳を挟んで仏殿の東にある雪江の松(現在の松は孫樹)以西の境内地といい、それまでの倍ほどの広さになったと見られます。

興隆

広くなった境内地には、次第に法堂(はっとう)などの諸堂が造営されるとともに、塔頭(たっちゅう)も次々と創建されていきます。

そういった中で、雪江の4人の法嗣(はっす)から龍泉(りょうせん)派(派祖(以下同):景川宗隆(けいせんそうりゅう))・東海(とうかい)派(悟渓宗頓(ごけいそうとん))・聖澤(しょうたく)派(東陽英朝(とうようえいちょう))・霊雲(れいうん)派(特芳禅傑(とくほうぜんけつ))の妙心寺四派(しは)が形成され、その本庵、つまり龍泉庵・東海庵・聖澤院・霊雲院の四本庵が成立しました。このうち東海庵と聖澤院も利貞尼の寄進により建立されたものです。

こうして、ここに四派・四本庵による妙心寺教団の運営組織が確立するとこれを基軸に発展し、今川・織田・武田といった戦国大名の帰信を得て地方へと拡がり、その児孫は次第に栄えていくこととなります。

特に、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、豊臣・徳川配下の諸大名が競って伽藍の造営や塔頭の開創につとめたこともあって最盛期には83もの塔頭を擁し、七堂伽藍を完備する大寺院となったのでした。

写真集写真集(49枚の写真が表示されます。)
写真 
南総門と勅使門
妙心寺境内地の南端に並んで立つ南総門(写真右)と勅使門(ちょくしもん)(左)。
共に今から400年程前の江戸初期の慶長(けいちょう)15年(1610)に建造されたものです。現在の勅使門ができる直前までにあったのが、現在では開山堂の前で見ることのできる平唐門(ひらからもん)(重要文化財)(写真27参照)です。
南を正面として南総門と呼ばれる表門をくぐると、別天地を訪れたような雰囲気が漂っています。
共に重要文化財。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市右京区花園妙心寺町1
山号 正法山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
寺格 大本山
創建年 暦応5年(1342)
開基 花園法皇
開山 関山慧玄
文化財
国宝
梵鐘(黄鐘調鐘(おうじきちょうのかね))、大燈国師(宗峰妙超)墨蹟(関山字号)、大燈国師(宗峰妙超)墨蹟(印可状)
重要文化財
勅使門、三門、仏殿、法堂、大(おお)方丈、小(こ)方丈ほか
史跡
妙心寺境内
史跡、名勝
玉鳳院庭園、小方丈庭園ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 妙心寺道
  2. 南総門
  3. 勅使門
  4. 四派〜龍泉庵〜
  5. 四派〜東海庵〜
  6. 四派〜聖澤院〜
  7. 四派〜霊雲院〜
  8. 放生池
  9. 三門
  10. 仏殿
  11. 四派の松
  12. 法堂
  13. 浴室
  14. 浴鐘楼
  15. 経蔵
  16. 雪江の松
  17. 大心院
  18. 玉鳳院(玉鳳禅宮)
  19. 唐門
  20. 開山堂
  21. 平唐門
  22. 養源院
  23. 涅槃堂
  24. 東林院
  25. 唐門
  26. 玄関
  27. 大方丈
  28. 小方丈
  29. 寝堂
  30. 庫裡
  31. 鐘楼(梵鐘(黄鐘調鐘が吊り下げられていた)
  32. 退蔵院
  33. 鱗祥院
  34. 北総門
  35. 一条通
  36. 仁和寺(※1)
  37. 等持院(※1)
  38. 龍安寺(※2)
  39. 金閣寺(鹿苑寺)(※2)
  40. きぬかけの道(※2)
  41. 平野神社(※2)
  42. 北野天満宮(※2)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 19:19 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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