
山紫水明処
屋根も葺(ふ)き替えられていて、清新なたたずまいを見せています。
史跡。
江戸時代後期の儒学者・歴史家・漢詩人として知られる頼山陽(らいさんよう)が営み、息を引き取る直前まで筆を走らせていたという書斎跡、山紫水明処(さんしすいめいしょ)。
山紫水明処は、京都市中を東西に走る丸太町通(まるたまちどおり)の鴨川に架かる丸太町橋の北側、鴨川の西岸に位置する東三本木通(ひがしさんぼんぎどおり)にあります。そこからは、鴨川を隔てて比叡山(ひえいざん)や大文字山(だいもんじやま)などの山々がそびえる東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)が望めます。
江戸時代中期に生まれた三本木は当時賑やかな歓楽街であったといい、幕末には、桂小五郎(かつらこごろう。のちの木戸孝允(きどたかよし))ら、多くの志士が出入りし、情報交換の場として活用された所としても知られています。
登校拒否
江戸時代も半ばを過ぎた頃の安永(あんえい)9年(1780年)の年の瀬も押し詰まった12月27日、大坂で頼山陽が誕生します。幼名は久太郎(ひさたろう)。翌天明(てんめい)元年(1781)12月には、広島藩主浅野家の学問所創設にあたり、父が儒学者を命ぜられたことから転居することとなり、城下の袋町(ふくろまち)(現・広島市中区袋町)で育ちます。
父に似て幼少時より詩文の才があったようですが、山陽は生来、癇(かん)が強かった上に、成長するに従い、極度に内向的になったといいます。そして藩の学校に行くようになってからは「学校に行くといじめられる」といって、学校に行くことを嫌がったのでした。今で言う「登校拒否」です。
山陽は、子供の時から成人するまで、極度に内向的であったということは、よく知られているところです。
その後、山陽は20歳で結婚しながらも、突如脱藩を企て上洛します。しかし結局は見つけ出されて、広島へ連れ戻されます。父は、脱藩の罪を消すべく、山陽を狂人として廃嫡(はいちゃく)しました。加えて母は自宅に座敷牢を設け、山陽はここに幽閉されることになったのでした。
これがかえって山陽を学問に専念させることとなりました。
もともと歴史に深い興味を示していた山陽は、5年間いたとされるこの座敷牢の中で歴史書を読みふけるようになり、著述にも明け暮れるようになります。そして後に山陽の代表作となる『日本外史(にほんがいし)』の草稿がこの座敷牢の中で書かれたのでした。
再び京都へ
やっと幽閉を解かれ座敷牢を出た時の山陽は、以前の殻からすっかり抜け出ていたといいます。
文化(ぶんか)6年(1809)、山陽は改めて勉強し直そうとして、父の友人であった儒学者の菅茶山(かんちゃざん)の廉塾(れんじゅく)へ行きます。
しかし、そこでは満足できなかったようで、「水凡、山俗、先頑、子弟愚」と書き残して、文化8年(1811)に京都へ出奔してしまいました。山川に見られる自然は実に平凡で、先生は頑固な上に、弟子も愚かだ、というのです。
32歳で京都に出た山陽は洛中に居を構え、開塾します。
が、転居を繰り返し、京都の地を転々とします。
4度目の転居で木屋町二条下(きやまちにじょうさが)ルに移ると、東山や鴨川の眺望が気に入ったのか、屋敷に『山紫水明処』の名を付けています。しかし、しばらくすると、両替町押小路上(りょうがえまちおしこうじあが)ルに移り住みます。
そして、文政(ぶんせい)5年(1822)、6度目の転居となり、最後に落ち着くことになったのが、東三本木南町(みなみちょう)でした。
室内からは鴨川を隔てて東山三十六峰を眺望することができるなど景観もよく、大変気に入ったようです。山陽はこの居に「水西荘」と名付け、この居宅にて営々と著述を続けます。「水西荘」は、水即ち鴨川の西、の意といいます。
文政9年(1826)、山陽はここで、代表作となる『日本外史』を完成させます。『日本外史』は、平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に、漢文体で記された史書です。この本は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった書籍として伝えられています。
かつて山陽が、広島の屋敷の座敷牢で草稿を書いた『日本外史』が実を結んだといえます。
それから2年後の文政11年(1828)には「水西荘」の一画に書斎を造営します。そこに付けた名は、以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」としました。「山紫水明」の名は漢詩のなかから取られたものです。
山陽が知人に宛てたある手紙の中で、新築の山紫水明処の自慢をして、是非、観に来て欲しいと薦め、しかもその訪問の時刻を「申上刻(さるのじょうこく)」(午後3時台)と指定しています。
「山紫水明処」からは東に向かって眺望が開けていて、そこからは間近に鴨川の清流を眺め、鴨川の対岸の先には樹林が鬱蒼として拡がっていた(明治まで)という聖護院(しょうごいん)の森や比叡山をはじめとした東山三十六峰などの景観を望むことができたのでした。山陽が指定するその時刻であれば、東を照らす太陽の光によってくっきりと美しく拡がる、まさに「山紫水明」というに相応しい景観を目にすることができたからなのでしょう。
「山紫水明」という言葉は、山陽がこの書斎に使って以後、一般的に使われるようになったといいます。
山陽はこの書斎で晩年を迎えます。
天保(てんぽう)3年(1832)、山陽は突然喀血します。肺結核だったといいます。山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであった(山田風太郎著『人間臨終図鑑』)、といいます。
享年53歳。
写真集(13枚の写真が表示されます。)
写真中央に小さく見える茅葺(かやぶ)きの平屋建てが山紫水明処です。
その左右には民家やマンション等が建ち並んでいますが、優雅に流れる鴨川の河畔沿いの静かな環境の中にあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市上京区東三本木通丸太町上(まるたまちあが)ル南町(みなみちょう) |
| 造営年 | 文政11年(1828) |
| 文化財 |
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| 備考 |
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- ※
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- 新島旧邸
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