清閑寺

本堂
本堂
石段を登り、山門をくぐると、静けさの中に立つ本堂が目に入ってきます。

東山三十六峰の一つで、その南部中央程にある清閑寺山(せいかんじやま)。清閑寺はその南麓に位置し、静寂な山寺として知られています。

清閑寺の足元には東山ドライブウェイが走り、更にその少し南には国道1号の東海道が通ります。昔この辺りは、山科(やましな)・大津方面から京都へ入る通り道だったといい、東の方からやって来て山腹に立つ清閑寺に辿りついて京都が初めて見えたことから名所の一つともなっていたといいます。

また清閑寺の北西には、清水寺(きよみずでら)があり、清閑寺と清水寺との間は歩いてわずか5分ほどの近さです。

縁起

清水寺の創建から24年経った平安時代の初めの延暦(えんりゃく)21年(802)、紹継(しょうけい)法師によって天台宗の寺として創建されたと伝わります。

その後盛衰を幾度か経た後、平安時代中期の一条天皇の頃(在位986〜1011年)に播磨守(はりまのかみ)佐伯公行(さえきのきみゆき)によって鎮護国家の道場として再建され、法華三昧堂や法堂などが建立されて寺観を整えます。そして平安時代初期の公卿・学者で今日では学問の神として親しまれる菅原道真(すがわらのみちざね[845〜903年])の手になるという十一面千手観世音菩薩(じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつ)を本尊としてここに清閑寺と号されたといいます。

そして、一条天皇によって長徳(ちょうとく)2年(996)には勅願寺に列せられ、平安時代の末期には、平家とのつながりが強かった高倉天皇や六条天皇が寺域内に葬られるといったことなどから、皇室ゆかりの寺ともなりました。

現在では清閑寺の境内は広いということはありませんが、当時は寺域も広く、東山(ひがしやま)山中に威容を誇り、すぐ近くの清水寺と並ぶほどの大寺院だったといいます。しかし、室町時代の応仁(おうにん)元年(1467)から文明(ぶんめい)9年(1477)にかけて続いた応仁・文明の乱で罹災したことから衰微します。

時は下って江戸時代の初期、慶長(けいちょう)年間(1596〜1615)、紀州根来寺(ねごろでら)の僧、性盛(しょうせい)によって復興され、これに伴い真言宗となっています。

しかしながら往昔の盛観を復するところまでには至らなかったようです。現在の本堂はこの時に建造されたものといいます。

菅原道真の手になる十一面千手観世音菩薩は本尊として現在もこの本堂に鎮座しています。

小督

時は平氏全盛の平安朝最末期、権勢を握らんと目論む平清盛(たいらのきよもり)は、天皇家と姻戚関係になることを最重要視します。そこで、清盛は17歳の娘、徳子(とくこ)を11歳の高倉天皇のもとへ入内させます。

ところが、高倉天皇は徳子よりも徳子に仕えていた葵前(あおいのまえ)に心を寄せてしまいます。しかし、身分の違いから結局葵前は宮廷を離れて我が家に帰ります。それから病に臥せり5、6日で亡くなってしまいます。これを知った高倉天皇は塞ぎ込んだ日々を送ることになります。

高倉天皇の沈み込んだ姿を見た中宮(ちゅうぐう)徳子は、高倉天皇を慰めようとして、宮中一の美人で、琴の名手といわれた小督(こごう)を仕えさせます。

この時、高倉天皇は16歳、小督は20歳。高倉天皇は、見目麗しい小督に慕情を抱くようになります。

小督は家柄の問題もなく、高倉天皇は小督を溺愛するようになります。

ところが時の権力者、平清盛にとってはこれが面白くありません。

実は小督は、清盛の娘の婿である冷泉少将藤原隆房(れいぜいしょうしょうふじわらのたかふさ)が想いを寄せていた意中の恋人で、そしてまた清盛の娘である中宮徳子の婿、高倉天皇までもが小督を溺愛している・・・。

平清盛は、二人の娘の婿を小督にとられたことに怒り狂い、

「いやいや小督があらんかぎりは世中(よのなか)よかるまじ。召しいだしてうしなはん」

(いやいや、小督がこの世に生きている限りは娘夫婦の仲はうまくいかず世間体も良くない。召し出して亡きものにしよう。)

(『平家物語』〜巻第六小督〜)

とまで命じます。

この事を洩れ聞き、自分の事よりも高倉天皇に迷惑をかけてしまうと考えた小督は、しばらくしたある日の夕方に宮中をひっそりと出て行方が分からないように姿を消してしまいました。

この時に身を寄せたのが、今日嵯峨に小督塚が立てられているところだったといいます。

そして小督は、高倉天皇とも音信を断ってしまいます。

高倉天皇はまたもや深い悲しみに暮れてしまいます。

そんなある日の夜更け、高倉天皇が「誰かいるか」と呼ぶと、その夜宿直(とのい)で控えていた弾正少弼仲国(だんじょうしょうひつなかくに)が応えます。仲国は笛の名手で、宮中で小督が琴を弾いた時には仲国が笛の役をしたこともあった人です。

その仲国に、高倉天皇は小督が嵯峨の辺りにいるらしいことを伝え、小督を捜し出すように命じます。そして高倉天皇は小督に宛てた手紙をしたため、それを仲国に渡します。

嵯峨といわれても、どこという当てもなく仲国は馬に乗って出かけます。

ひょっとしたらどこかの御堂などへ身を寄せられているのではないかと嵯峨釈迦堂(清凉寺)などいくつかの御堂などを訪ねてはみたものの見当たりません。嵯峨を方々探し回った挙句結局見つからず諦めようとしたその時、渡月橋(当時は現在の渡月橋の位置よりも少し上流に架けられていたといいます)の架かる大堰川(おおいがわ)を渡った南側にある近くの法輪寺(ほうりんじ)を訪ねてみようとそちらの方へ馬を向かわせようとします。

すると、どこからか、かすかに琴の音が聞こえてきました。

亀山のあたりちかく、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞきこえける。峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音(ね)か、おぼつかなくは思へども、駒(こま)をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に琴をぞひきすまされたる。ひかへて是をききければ、すこしもまがふべうもなき、小督殿の爪音(つまおと)なり。楽(がく)はなんぞとききければ、夫を想うて恋ふとよむ、想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)なり。

(『平家物語』〜巻第六小督〜)

亀山(かめやま。小倉山の東南端の山。)のあたり近くの一群の松が立っている方角から、かすかに琴の音(ね)が聞こえてくるではありませんか。峰を吹き渡る嵐の音か松風の音か、それとも探している人(小督)の琴の音か、いずれとも分からず覚束ないとも思いつつも、そちらの方へ馬を急がせます。すると片折戸(片側だけが開くようにした、一枚作りの折り戸)した家の中で、誰かが心を澄まして琴を弾いています。かつて宮中で小督と一緒に演奏したことのある仲国が立ち止まってじっと琴の音を聞いていると、それは紛れもなく小督の琴の音でした。弾かれている楽曲はなんだろうかと聞いているとそれは、「夫を想って恋う」と読む「想夫恋」という曲でした。

仲国は門をたたいて家の中へ入ります。そして高倉天皇からの手紙を渡したのでした。

小督の居場所をつきとめた仲国は、急ぎ宮中に戻ります。良い知らせを聞いた高倉天皇は仲国に小督を人に知られることのないようにそっと宮中に迎え入れるように命じます。

こうして高倉天皇は以前にも増して小督を寵愛し、治承(じしょう)元年(1177)に範子内親王(はんしないしんのう。坊門院(ぼうもんいん)。)をもうけることになったのです。

ところが、小督が宮中にかくまわれていることが清盛の耳に漏れ聞こえるところとなり、加えて清盛の娘の中宮、徳子よりも先に天皇の子を宿したことがさらに清盛の怒りを招く結果となったのでした。

小督、23歳。ついに清盛に捕らえられた小督は宮中から追い出されることになります。そして小督は清閑寺にて強制的に出家させられたのでした。

高倉天皇は小督が去った悲しみで病を患い、「私が死んだら、小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言したといいます。治承5年(1181)、高倉天皇は二十一歳の若さで崩御し、葬儀は清閑寺で行われたと伝えられています。

小督は高倉天皇が葬られた清閑寺近くに庵を結んで天皇の菩提を弔ったといいます。

今日、清閑寺の北にある高倉天皇陵の傍らには小督の墓塔があり、また清閑寺本堂前の庭には小督の供養塔である宝篋印塔が建てられています。

その後、嵯峨野において濃い墨染めの衣というみすぼらしい姿となって再び隠棲することになったのでした。

藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)が56年間の長きにわたって克明に綴った日記として知られる『明月記(めいげつき)』の元久(げんきゅう)2年(1205)閏(うるう)7月の20日と21日の条に次のような記載があります。

廿日(20日)、早旦行嵯峨、

(早朝に嵯峨に行った。)

廿一日(21日)、昏黒行向高倉院督殿宿所、[皇后宮御母儀]、日来病悩被待時之由聞之、年来於此邊聞馴之人也、仍訪之、女房出逢、即皈宿所、

(夕方に皇后宮(範子内親王)の御母である高倉院小督殿の家に行った。このところ病気がちで臨終の時を待っているのだと聞いた。小督殿は、ここ何年か嵯峨の辺りでよく耳にしていた人である。そこで小督殿の家を訪問した。女房が出てきて逢った。それから私はすぐ宿舎に帰った。)

これは、鎌倉時代に入って20年ほど経った頃の元久2年(1205)7月に、藤原定家が嵯峨に行った折、小督の病床を見舞った記録です。

しかし、その後の小督の消息は不明とされ、いつ亡くなったのかは未詳とされています。

洛西嵯峨の祇王寺(ぎおうじ)にまつわる「祇王」の物語と同様に、洛東東山の清閑寺にも「小督」の悲恋の物語が語り継がれています。

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写真 
入口
清閑寺の入り口は東山ドライブウェイ沿いにあります。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3
山号 歌中山
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面千手観世音菩薩
創建年 延暦21年(802)
開山 紹継

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 本堂
  3. 鐘楼
  4. 要石
  5. 高倉天皇陵
  6. 六条天皇陵(※1)
  7. 歌の中山(※1)
  8. 清水寺(※2)
  9. 子安の塔(清水寺)(※2)
  10. 音羽の滝(清水寺)(※3)
  11. 琴きき橋(※4)
  12. 車折神社嵐山頓宮(※4)
  13. 小督塚(※4)
  14. 琴きき橋跡碑(※4)
  15. 渡月橋(※4)
  16. 法輪寺(※4)
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図の操作について

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  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 13:58 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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