毘沙門堂

観音堂
観音堂
宸殿(しんでん)の北側に、谷川の水を引き滝を造って豊かな水を湛えた「心」字の裏文字をかたどった池に、亀石、千鳥石、坐禅石などが配された江戸時代初期の回遊式庭園となっている晩翠園(ばんすいえん)。背後には山裾が迫り、木々の枝の間は暗く、さながら「夜目に翠(みどり)を思わせる」(現地駒札より)というところからこの名が付けられたといいます。
その晩翠園の中に観音堂(かんのんどう)がひっそりと佇んでいます。
紅葉の折には目の覚めるような艶やかな光景が眺められそうです。

山科(やましな)の北方にあって山科盆地を見下ろす山腹にたつ毘沙門堂(びしゃもんどう)。

南禅寺前の仁王門通(におうもんどおり)を南東にいくとやがて三条通と合流する蹴上(けあげ)交差点に出てそれからは三条通となります。そのまま三条通に沿って峠を越えるとそこはもう京都市東部に山科の市街地がひろがる山科盆地です。

山科は昔から京都と東国とを結ぶ交通の要衝でもあったところです。

平城京遷都以前の古代寺院〜出雲寺〜

平城京遷都まで7年を残す飛鳥時代の大宝(たいほう)3年(703)、文武(もんむ)天皇の勅願により出雲寺(いずもじ)が行基(ぎょうき)(法輪寺参照)によって開かれたといいます。今日でも北大路通南の賀茂川沿いに地名が残る「出雲路」にあったことから出雲寺という寺号が付けられたと見られています。

その後、延暦(えんりゃく)年間(782〜806)に最澄(さいちょう)が自ら作った毘沙門天を安置したことから毘沙門堂とも呼ばれるようになったのでした。

この出雲寺のもう少し詳細な場所としては、今日の相国寺(しょうこくじ)の北に位置する上御霊竪町(かみごりょうたてまち)・上御霊馬場町(ばばちょう)・相国寺門前町(もんぜんちょう)、即ち、上御霊神社(御靈神社)(794年創建)附近にあったと推定されています。加えて、付近から出土した古瓦や上御霊神社に保管されている往時の瓦などから、出雲寺の創建は奈良時代前期ではなかったのかとも考えられています。

荒廃〜『今昔物語集』〜

平安時代末期に成立したと見られる『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』があります。これは、1059の説話が採録された日本最大の古説話集で、各説話が「今は昔」で始まることから便宜的な通称として書名が付けられたことでも知られているものです。

この『今昔物語集』巻第二十の中に、出雲寺に関する次のような記述があります。

今昔(いまはむかし)、上津出雲寺(かむついづもでら)ト云(い)フ寺有リ。建立(こんりふ)ヨリ後(のち)、年(と)シ久(ひさし)ク成(なり)テ、当(まさ)ニ倒(たふ)レ傾(かたぶき)テ、殊(こと)ニ修理(しゅり)ヲ加(くはふ)ル人無シ。

此(こ)ノ寺ハ、伝教大師(でんげうだいし)震旦(しんだん)ニシテ、達磨宗(だるましゆう)ヲ立テム所ヲ撰(えら)ビ遣(おこ)シテヤリケルニ、(・・・中略・・・)。止事無(やむごとな)キ所ニテ有(あり)ケルニ、何(いか)ナリケルニカ、此(か)ク破壊(はゑ)シタル也(なり)。

(・・・以下略・・・)

今から見れば昔のことだが、上津出雲寺(かむついずもでら)という寺があった。建立以来、長い年月も過ぎて、今では倒壊寸前の状態となっているが、だれ一人として修理を加えようとする者もいない。 この寺は、伝教大師(でんぎょうだいし。最澄(さいちょう)。)が震旦(しんだん)(古代インドで中国をさした語の漢字表現で、古代中国の異称。ここでは空海(くうかい)らと渡った中国・唐(とう)。)におられる時、日本で達磨(だるま)宗を打ち立てるによい場所を選ぼうと手紙をよこしてきたので、(・・・中略・・・)。(結局場所の選定からは外されたものの、その候補に挙げられるほどの)尊い所であるのに、どういうわけか、出雲寺はこのように破壊されてしまっているのである。

(・・・以下略・・・)

『今昔物語集』ができた平安時代末期には、出雲寺は荒廃していたことが伺われます。

復興

平安時代から鎌倉時代に移って間もなくの頃、出雲寺は復興され、桜の名所として知られるようにもなっているようです。

鎌倉時代初期の歌人で小倉百人一首の撰者として知られる藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)の日記『明月記(めいげつき)』(原漢文)の貞永(じょうえい)2年(1233)2月21日条に次のような記述があります。

毘沙門堂花半開

(毘沙門堂、花、半ば開く)

桜の名所と聞き及んで見物にでも出かけたのでしょうか。満開となった光景を見ることはできなかったようです。

現在の山科の毘沙門堂宸殿前には立派な枝垂桜(しだれざくら)がありますが、定家が見たのは、毘沙門堂が山科に移転する前のことで、しかもその時の桜は山桜であったものと見られています。

室町時代後期から戦国時代にかけての頃には再び荒廃したといいますが、江戸時代に移って間もなくの慶長(けいちょう)16年(1611)、徳川家康(とくがわいえやす)の側近として朝廷・宗教政策などに深く関与した天台宗の僧、天海(てんかい)に再興の勅命が降ります。この時に毘沙門堂は現在地の山科に移転・復興されることとなるのです。

しかし、寛永(かんえい)20年(1643)にはその完成を迎えることなく天海が世を去ってしまいます。そこで天海の弟子の公海(こうかい)が後を引き継ぎます。こうして寛文(かんぶん)5年(1665)、ついに毘沙門堂は山科盆地を見下ろす山腹に本堂落慶を迎えたのでした。

後に後西天皇(ごさいてんのう)の第六皇子、公弁法親王(こうべんほっしんのう)が延宝(えんぽう)2年(1674)毘沙門堂で受戒します。晩年には当寺に隠棲したことから、以後、代々法親王が入寺する門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となります。こうして「毘沙門堂門跡」と称されるようになり、天台宗京都五門跡の一として栄えることになったのでした。

写真集写真集(26枚の写真が表示されます。)
写真 
疏水
毘沙門堂へは山科駅(JR湖西線・京阪電鉄京津線・京都市地下鉄東西線)からは徒歩20分ほどで、その途中には琵琶湖第一疎水(通称、山科疏水)が流れています。そこに架かる安朱橋界隈には桜の名所があります。またたくさんの菜の花も咲き乱れ、淡いピンク色と黄色とのコラボレーションが毘沙門堂を訪れる人の足を食い止めています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市山科区安朱稲荷山町18
山号 護法山
宗派 天台宗
本尊 毘沙門天
創建年 大宝3年(703)
開基 文武天皇
開山 行基
文化財
重要文化財
洞院公定(とういんきんさだ)日記ほか

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 極楽橋
  2. 参道
  3. 仁王門
  4. 鐘楼
  5. 山王社
  6. 唐門
  7. 本堂
  8. 弁天堂
  9. 霊殿
  10. 宸殿
  11. 手水鉢
  12. 晩翠園
  13. 観音堂
  14. 玄関
  15. 勅使門
  16. 薬医門
  17. 山科駅前から毘沙門堂までのルート例(マップを縮小するために−(マイナス)ボタンを4回クリックして表示させ、その後にマップを拡大表示してご覧ください。)
    山科駅前交差点(マップ番号17)を東へ入り、マップ番号18の角を北へ入ります。そのまま真っすぐに進むとやがて山科疏水(マップ番号19)に架かる安朱橋(マップ番号20)です。毘沙門堂はここからさらに真っすぐに行った所で、もう少しで到着です。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 19:18 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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