無鄰菴

無鄰菴庭園
無鄰菴庭園
京都市中心部の東に連なる東山(ひがしやま)(写真奥)を借景とし、また、隣接する琵琶湖疏水から水を取り入れて、芝生などに覆われたその緩やかな傾斜地に池とそこから流れ出る小川を配した、約3100平方メートルの池泉回遊式の庭園です。
緑に囲まれたその景観の美しさもさることながら、秋に見られる紅葉の織りなす美しさも目を楽しませてくれそうです。
名勝。

明治・大正時代の元老、山県有朋(やまがたありとも)がその別荘として自ら設計・監督し、平安神宮神苑などを手掛けた造園家、7代目小川治兵衛(おがわじへえ)に依頼して作庭した無鄰菴(むりんあん)。平安神宮大鳥居南側の仁王門通を東へ約400メートル、白川通と合流する南禅寺前交差点手前の琵琶湖疏水南側に位置しています。

山県有朋は、東山を借景としたその庭園が気に入っていたようで、特に、紅葉の映える秋の京都の味わいを楽しんだ所でもあったようです。

山県有朋は、江戸時代末期に生を受け、明治・大正と激動する時代を駆け抜けて日本を支え、偉大な功績を残し、また、日清戦争、日露戦争を経験した人でもありました。そして、日露戦争開戦前にあっては、無鄰菴は、対露方針を巡って会議が開かれたところでもありました。

無鄰菴は、昭和16年(1941)に京都市に寄贈され、現在、京都市の管理となっています。

無鄰菴の造営

無鄰菴と称される山県有朋の別荘は3つあり、彼の故郷である長州(現、山口県)の下関に建てられたのがその最初で、周りに隣家のない閑静な場所だったことにその名の由来があるといいます。

さて、時は少し遡って江戸に幕府が開かれて間もなくの慶長(けいちょう)16年(1611)、二条大橋のたもとで、鴨川から分かれて高瀬川へと流れ出るところに、京都嵯峨出身の豪商として知られる角倉了以(すみのくらりょうい)が別邸を建てます。高瀬川は角倉了以が運河として造ったものとして知られているものです。

それから時代も変わった明治24年(1891)ごろ、明治維新の想い出のある京都が好きだった山県有朋がその角倉邸を購入します。その邸に名付けたのが「無鄰菴」(第二の無鄰菴)でした。(2014年6月現在は、がんこ二条苑「高瀬川源流庭園」となっています。)

ただ、購入してから3年と経たないうちに無鄰菴の周りにも人家が建てられてきたようです。無鄰菴という名の由来もあってか、山県有朋は二条大橋のたもとの無鄰菴を売却します。その頃は、日清戦争(1894年)の足音が近づいてきた頃でもありました。

山県有朋は京都で人生の最後を迎えたいと考えていたようで、京都に新しく土地を求めて別荘を建てようとします。そして求めたのが今日の南禅寺の西に位置するところでした。

明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、当時は東山山麓に広大な境内を有していた南禅寺は、他の寺院同様に寺領の上知(あげち)を命ぜられます。その後、その土地は民間に払い下げられることになります。山県有朋が京都に新しく別荘を求めようとしていた時、元は南禅寺の寺領であった一帯は別荘地として位置づけられて開発されようとしていた頃でした。近くには明治23年(1890)に完成したばかりの琵琶湖疏水も流れていました。そのような背景もあってか、山県有朋はここに別荘を造営することとし、この別荘にも無鄰菴の名を付けたのでした。これが今日の無鄰菴で、三番目の無鄰菴として知られています。

無鄰菴の造営は明治27年(1894)より着手されましたが、本格的に工事が始められたのは翌年の2月からだったといいます。先述したように明治27年は日清戦争(明治27年7月〜明治28年3月)が起った年でもあります。そして明治29年の12月に完成しています。この時山県有朋58歳。

無鄰菴は、東山を借景とし、その殆どが緩やかな傾斜地に近くの琵琶湖疏水から水を引き込んで三段の滝や池を設けた池泉回遊式庭園と、簡素な木造2階建ての母屋、茶室、そして煉瓦造2階建ての洋館の3つの建物から成っています。

その作庭にあたったのが、当時新進気鋭の造園家だった7代目小川治兵衛でした。

無鄰菴の造営工事が本格的に始まった明治28年2月の翌3月の15日は、平安神宮の創建日でもあります。小川治兵衛は、平安神宮の庭園(平安神宮神苑)である西神苑、中神苑にも着手しています。

ちなみに、当記事の冒頭でも触れましたように、無鄰菴と平安神宮とは距離的にも非常に近い位置関係にあります。

山県有朋は無鄰菴の造園にはかなり心を砕いていたようで、小川治兵衛は山県有朋に常に呼ばれては伝統的な作庭にとらわれることなく次々と新しい感覚の注文を出されたといいます。なかでも山県有朋は「石」と「水」には特に心を砕いていた、と小川治兵衛は回想しています。小川治兵衛は山県有朋と意見交換を密にしながら、見事その期待に応えたのでした。

無鄰菴会議

1.ロシア、極東へ

日本国内で最後の内戦となった西南戦争が起った明治10年(1877)、西アジアでは、この年の4月にロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)との間で露土戦争(ろとせんそう)が勃発します。これはロシアにとっては冬になっても凍結しない港(不凍港)の獲得を目指す南下政策の一環としての側面を持った戦争でもありました。

この国際紛争解決のため、翌1878年、ドイツのビスマルクが主催してベルリン会議が開かれ、ベルリン条約が結ばれます。

この条約は、ロシアにとって不凍港を求めた南下政策を断念せざるをえないものでした。その結果、ロシアは極東政策へ転換することとなります。このことが後の日露戦争の遠因ともなってきます。

2.三国干渉

1894年、日清(にっしん)戦争が勃発し、結果、日本は遼東(リヤオトン)半島を領有することとなりました。しかし、翌1895年、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉によって、日本は清国から賠償金を受け取ることで、遼東半島を清国に返還させられることとなります。この干渉は、ロシアがドイツ・フランスを誘って起こしたことから、以後、日本のロシアに対する敵意・不信感は強くなることとなります。

3.義和団の乱を機に

日清戦争の終結から5年が経った1900年、清国で「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清国を扶(たす)け、侵入者である西洋を滅ぼす)のスローガンを掲げて民衆レベルの抵抗運動を展開した義和団(ぎわだん)による反乱が勃発します。義和団の乱(北清(ほくしん)事変)です。

これをきっかけに日本は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアといった列国同様に「居留民保護の任」にあたるために少数の部隊からなる清国駐屯軍を置く権利を得ます。

次第に義和団と清国軍の入り混じった勢力と、列国軍との戦いが繰り広げられることとなります。

その後の事態の急速な深刻化にともない、イギリスは、清国に隣接することから派兵しやすい日本に対して更なる出兵を要請してきます。こうして日本は列国の中でも最も多い兵力22,000人を派遣することになったのでした。

この義和団・清国軍と列国との戦いの中では、各国軍隊による略奪・蛮行が見られた中、日本軍はその戦闘ぶりに加えて、相対的に日本兵の軍紀のよさが目立ったことから、注目を浴びる存在となったといいます。

一方、ロシアは、時期をうかがっていたかのように、その何倍ともいえる兵力をぞくぞくと清国に送り込み、満洲(中国東北部。朝鮮半島の北部に広がる北東アジアの特定地域。)を占領したのでした。さらに、韓国(1897年に朝鮮から改名し1910年までの間存在した、朝鮮半島最後の専制君主国である大韓帝国。以下、今日の大韓民国(通称、韓国)と区別するために便宜的に朝鮮半島と付記。)ににらみをきかせるため、鴨緑江(アムノクカン)の沿岸をも占領してしまいます。

4.日英同盟

それ以来、満洲から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたイギリスは、単独で動くには限界があったことから、まずドイツと手を結ぼうと試みますが、ドイツがロシアと手を結んだため、義和団の乱で活躍した日本に接近してきたのでした。

一方、日本では、ロシアが満洲に続いて韓国(朝鮮半島)へと手を伸ばしてくるのではないかと警戒し、伊藤博文(いとうひろぶみ)らが満洲と韓国(朝鮮半島)との扱いについてロシアとの妥協の道を探っていましたが、ロシアとの対立はいずれ避けられないとの判断から結局妥協の道は閉ざされ、日英同盟が締結されることとなります。

これは1902年1月30日に調印され即時に発効されています。

5.当時の日本の考え

日英同盟締結から2年後に起った日露戦争の性格については、今日まで研究者の間で議論が交わされ、一つには日本という国家の存亡をかけた戦いであったとする解釈があり、別の見方では韓国(朝鮮半島)と満洲の支配を巡る争いであったとする解釈があります。

いずれにしても、ロシアの大軍による満洲の占領に対する当時の日本の受け止め方は、いずれは満洲に隣接する韓国(朝鮮半島)における日本の勢力は追い出され、ロシアによる独占的な韓国(朝鮮半島)支配がすすむのではないかという懸念が強まることになります。そうなれば、かつての三国干渉によって清国に返還させられた遼東半島を奪い返すという目論みを果たすことはできなくなり、下手をすれば、韓国(朝鮮半島)の次には日本そのものがロシアに占領されかねないという危機感さえ当時の日本では考えられるようになったのでした。

6.ロシア軍、撤退の約束も・・・

そこで日本は清国政府に、ロシア軍の満洲撤退を約束させるように働きかけます。イギリス、フランス、ドイツといった列強も満洲に少なからず投資していたこともあって、ロシア軍の満洲撤退は望むところでした。加えて、日英同盟の圧力もあり、明治35年(1902)4月8日、ロシアは満洲からの撤退を約束し、同年10月以降、半年ごとの三回に分けて撤兵することになったのでした。

第一回目は1902年(明治35)10月8日を期限とするもので、これは約束通り実行されました。

第二回目は1903年(明治36)4月8日を期限とするものでしたが、この約束は実行されませんでした。

7.無鄰菴会議

そこで、ロシア軍の満洲撤兵の中止という事態に対して、日本の指導部は善後策の検討にのりだします。早速行なわれたのが、明治36年(1903)4月21日、山県有朋が京都に所有する別荘「無鄰菴」においてでした。これは後に無鄰菴会議と称されることになります。

その少し前、山県有朋は無鄰菴にて対露政策を巡り会議が開かれることとは関係なく、無鄰菴に入ります。

一方、ロシアの取った行動に対して、総理大臣の桂太郎(かつらたろう)が対露交渉に着手するには、先ず山県有朋及び伊藤博文の同意を得る必要がありました。そこで、元老の山県有朋、政友会総裁の伊藤博文、総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)による四頭会議が開かれることになるのです。

当時、伊藤博文は、桂太郎の求めに応じて京阪の間に来遊し、小村寿太郎も大阪に来ていました。そこで東京にあった桂太郎も西下し、伊藤・桂・小村の三人は「期せずして」、無鄰菴に入っていた山県有朋を訪問したのでした。

無鄰菴に集まった4人で対露方針についての議論が交わされます。

席上、総理大臣の桂太郎からロシアに関する情勢とそれに対する決意が述べられると、山県有朋は「形成の萬已(や)むを得ざる」を認め、協議の結果次の対露方針四個条が出されたのでした。

露国にして、満洲還付条約を履行せず、満洲より撤兵せざるときは、我より進んで露国に抗議すること。

満洲問題を機として、露国と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。

朝鮮問題に対しては、露国をして我が優越権を認めしめ、一歩も露国に譲歩せざること。

満洲問題に対しては、我に於て露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。

(徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳〜下巻〜』)

この無鄰菴会議での内容は秘密にされたことから、当時、これらの事を知る者はなかったといいます。ただ、後に桂太郎はその自叙伝でそのことについて触れ、「又この要求を主張せんとせば、到底戦争をも避くべからず(最終的には戦争もやむを得ない)」と述べています。

総理大臣の桂太郎はこの無鄰菴会議に於いて、「朝鮮問題に対しては、ロシアに日本の優越権を認めさせ、満洲問題に対しては、日本はロシアの優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決する」ものとし、その目的を果たすためには、戦争をも辞さないという対露交渉方針について、山県有朋と伊藤博文の同意を得たのでした。

そして、日本のロシアに対する基本姿勢は、無鄰菴会議から約2カ月後の6月23日に行われた御前(ごぜん)会議(天皇臨席の最高意思決定機関)において、先の無鄰菴会議で出された方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認されます。

その内容は、万難を排して韓国(朝鮮半島)をすべて日本の支配下に置くためにロシアと交渉し、満洲については日本は少しは譲歩するが、韓国(朝鮮半島)については日本はロシアに一切譲歩しない、ということでした。「万難を排して」というのは、ロシアとの交渉が決裂した場合は戦争にもちこんででも、ということです。

8.日露戦争へ

1903年12月、ロシアとの間の、満洲・韓国(朝鮮半島)の支配に関する話し合いは決裂し、日本はロシアとの開戦を決意することとなります。

1904年2月10日、日本はロシアに宣戦布告したのでした。

写真集写真集(34枚の写真が表示されます。)
写真 
仁王門通
通りの南側(写真右)に見える白壁にかこまれているのが無鄰菴です。歩道上に見える標識には、右へ入ると無鄰菴まで50メートル、真っすぐ行けば南禅寺まで300メートルと案内しています。
歩道の脇を流れているのは琵琶湖疏水で、十石舟の発着場が見えています。

【菴内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【図中番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 表門
  2. 母屋
  3. 洋館
  4. 茶室
  5. 大石
  6. 三段の滝
  7. インクライン
  8. 南禅寺前交差点
  9. 白川通
  10. 十石舟発着場
    岡崎疏水・桜回廊ライトアップ&十石舟夜桜運行参照)
  11. 仁王門通
  12. 琵琶湖疏水
  13. 金地院(※2)
  14. 鹿ケ谷通(※2)
  15. 天授庵(※3)
  16. 南禅寺(※3)
  17. 南禅院(※3)
  18. 水路閣(※3)
  19. 禅林寺(永観堂)(※3)
  20. 哲学の道(※3)
  21. 平安神宮(※3)
  22. 平安神宮神苑(※3)
  23. 平安神宮大鳥居(※2)
  24. 青蓮院(※3)
  25. 知恩院(※3)
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。
※3.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【菴内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 17:01 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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