圓徳院

北書院から見る北庭
北書院から見る北庭
北庭は、伏見城で使っていた化粧御殿の前庭を北政所が当時の原型をほぼそのままに留めさせて移築させたもので、桃山時代の代表的庭園の一つとされています。
著名な作庭家として知られる小堀遠州(こぼりえんしゅう)の弟子で、「天下一」と賞賛されるほどの名声を得た賢庭(けんてい)の作。後に小堀遠州が手を加えているといいます。
名勝。

圓徳院(えんとくいん)は、京都の東山にあって、清水寺の参道・産寧坂(さんねいざか)(三年坂)を下って北へ二寧坂(二年坂)、一念坂と過ぎた辺り、御影石を敷き詰めたねねの道の道筋にあり、その向かいにある高台寺の塔頭(たっちゅう)でもあります。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、その正室・北政所(きたのまんどころ)は大坂城を退去すると京都へ移り住みます。更に、その後に居所を設けて終の棲家としたのが、後の圓徳院です。

由来

慶長(けいちょう)3年(1598)8月、豊臣秀吉が伏見城で没すると、北政所は翌年大坂城を出て、京都に移ります。この時、北政所は、秀吉が官位を得て関白となったことを示す重要な文書類に加え、着用の装束や遺愛の品々など、夫・秀吉との思い出の品々をすべて運び出したといいます。

それから7年後の慶長10年(1605)、北政所は夫・秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と庭園(現、北庭)をこの地に移築し、その居所として使うことになります。これが圓徳院のルーツとなります。また、この年には、客殿(現、方丈)も建立されます。

今日、化粧御殿は現存しませんが、伏見城での化粧御殿は、北政所が夫・秀吉と水入らずで過ごした、いわば二人のプライベートスペースとして使われていたところです。ごく限られた親しい人だけを招き、もてなした場所でもありました。

また庭園も北政所と秀吉の想い出深いものでした。

慶長8年(1603)、落飾し、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)より「高台院」の院号を賜った北政所は、慶長11年(1606)、自分の墓所ともなる寺院の建立を夫・秀吉の眠る京都東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の豊国廟(ほうこくびょう)に近い地に求めました。そして徳川家康の支援も得て建てられたのが高台寺です。

高台寺は、北政所の当時の居所(後の圓徳院)の目と鼻の先に建てられたことになります。

寛永(かんえい)元年(1624)、北政所は、備中国(びっちゅうのくに。現、岡山県西部。)足守(あしもり)藩主で甥(北政所の兄・木下家定(きのしたいえさだ)の次男)にあたる木下利房(としふさ)に化粧御殿を譲ります。利房は、これに永興院と名付けています。

そしてこの年、北政所が世を去ります。北政所は寛永元年に77歳で亡くなるまで長年ここで過ごし、終焉の地となった所でもあったといわれています。

北政所が亡くなってから8年後の寛永9年(1632)、利房は、永興院を木下家の菩提をとむらう寺として、利房の院号「圓コ院」をそのまま寺号とし、高台寺の塔頭とします。

今日、ねねの道を挟んで圓徳院の向かいにある高台寺の霊屋(おたまや)(重要文化財)は、北政所が生前秀吉を祀っていたところですが、北政所が亡くなった後は自身が眠る廟堂として、高台寺の中で最も神聖な場所となっています。

霊屋は、豊国廟を向いてたっています。

長谷川等伯〜強引に描いた山水図〜

当記事に写真はありませんが、圓徳院方丈には水墨画の巨匠・長谷川等伯(はせがわとうはく)が制止を振り切って強引に描いたという逸話が伝わる山水図(重要文化財)(高精細複製品)があります。

1.養子となって

室町幕府の権力が完全に失墜し戦国時代最中(さなか)の天文(てんぶん)8年(1539)、等伯は、能登国(のとのくに)の戦国大名畠山氏に仕える下級家臣、奥村文之丞宗道の子として能登国七尾(ななお)(現・石川県七尾市)に生まれます。

幼少の頃、染物屋の奥村文次という人を介して、同じ染物業を営む長谷川宗清の養子に迎えられたとされます。養家は染物業を営みながら仏画も描いていました。等伯ははじめ信春(しんしゅん/のぶはる)を名乗り、七尾を中心とした能登地方で、自らも生涯を通じて熱心な信徒であった日蓮宗関係の、仏画や肖像画などを描いていたといいます。

2.京へ

信春(等伯)33歳の元亀(げんき)2年(1571)、養父母の宗清夫妻が相次いで亡くなります。これを機に信春(等伯)は妻子を連れて3人で京に移住します。この時子息は4歳で、名は久蔵(きゅうぞう)といいました。久蔵にも絵の才能が受け継がれたようで、大きくなってからは信春(等伯)を助けるまでに成長します。

信春(等伯)自身はこの移住で初めて京に上るということではなかったようで、以前にも幾度か上洛の機会をもったことがあるようです。

信春(等伯)が京で頼ったのは、郷里にある生家の菩提寺本延寺(ほんねんじ)の本山である京都法華宗十六本山の一つ、本法寺(ほんぽうじ)でした。この時、信春(等伯)が本法寺第八世住持日堯上人(にちぎょうしょうにん)を描いた「日堯上人像」(重要文化財)が残っています。

3.空白の期間

ただ、これより以後17年もの間、信春(等伯)は歴史の表舞台から姿を消しています。その間信春(等伯)がどこでどのような活動をしていたのかは定かではありません。

考えられているのが、当時画壇の中心的存在であった狩野(かのう)派への入門です。狩野派の代表的な画人であり、日本美術史上もっとも著名な画人の一人で、信春(等伯)よりも4歳若い狩野永徳(えいとく)がその才を発揮していた時期にあたります。

もう一つ考えられているのが、大坂の堺居住説です。この空白とされる期間に堺の茶人たちとの密接な交流があったというものです。そこで催される茶会には、大徳寺の長老春屋宗園(しゅんおくそうえん)や古渓宗陳(こけいそうちん)らも招かれていたようです。そしてこの二人に帰依していたのが侘茶(わびちゃ)の大成者で、千家流(せんけりゅう)の開祖として知られる堺の千利休(せんのりきゅう)です。大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深かったことから「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られることは知られています。今日大徳寺にある22の塔頭に対して茶室が47室あるといいます。

4.再登場、中央画壇へ

それから信春(等伯)が再登場してくるのは、戦国時代の余韻がまだ残る安土桃山時代の天正(てんしょう)17年(1589)年です。

この年は信春(等伯)にとって絵師として檜舞台ともいえる大徳寺に於いて二つの大きな絵を描いています。

一つは千利休が施主となって修築にあたった大徳寺三門の壁画制作です。もう一つは大徳寺塔頭三玄院(さんげんいん)の障壁画制作です。

信春(等伯)はこれをもって世間の注目を集めるようになり、中央画壇にデビューするきっかけをつかむことになります。

ところで、この大徳寺三門楼上に描かれている三図から成る「龍図」のうちの一つ「蟠龍(ばんりゅう)図」の傍らに「長谷川等白五十一歳筆」という書名があります。この「等白」は「等伯」を用いる前の画号と考えられているもので、いつごろから「等白」と名乗り始めたかは定かではありません。それからほどなくして「等伯」が使われるようになったと見られています。この「伯」は、大徳寺第111世住持を務めた春屋宗園が、参禅する者に与えた道号に多く用いていることから、「等伯」の字を使うようになったのは春屋宗園の関与があったものと考えられています。

さて、今日圓徳院にある長谷川等伯筆の山水図の話に移ります。

等伯は大徳寺三玄院に出入りするようになり、春屋宗園に参じて禅を学んでいたと考えられます。水墨画の幽玄の境地に達するには、禅の心を分からなければならないと感じていたからです。

三玄院は石田三成(いしだみつなり)らが春屋宗園を開山として大徳寺山内に建てた塔頭で、利休による三門修築と同じ天正17年に創建されています。

そんなある日、等伯が三玄院に春屋宗園を訪ねます。等伯は部屋で待たされますが、その時春屋宗園は留守でした。

等伯はかねがね、桐紋(きりもん)を雲母(きら)刷りにした襖を見てはそこに絵を描かせてほしいと春屋宗園に頼み込んでいました。とはいっても、襖にはもともと雲母刷りの桐紋が一面に散らしてあるため絵を描き込む余地はないのですが・・・。

が、春屋宗園は、禅寺の修業の場に絵画は不要、と断り続けていました。

とはいえ、等伯には襖の雲母刷りにした桐紋が、かつて妻子を連れ七尾を発って京に向かった雪の降りしきる光景に見え、その様を絵にして留めたいという強い衝動に駆られたのか、等伯は、寺の僧たちが止めるのをふり切って一気呵成に襖に山水図を描いてしまったのです。桐紋は豊臣秀吉が使用を許可したものですから、だれの許可を得ることもなく勝手にそれに絵を描くなどもってのほかです。

外出先から戻った春屋宗園は絵のことを知るや初めは激怒したものの、絵の出来栄えのあまりの見事さに、結局襖絵を認めてそのままにしておくことを許したのでした。

多少脚色めいた感じがしないでもないのですが、襖絵の料紙が作画には適さない雲母刷り桐紋様の唐紙であることから、この逸話は概ね事実に近いと考えられています。

この襖絵は、等伯が桐紋を降りしきる雪に見立て、雪景色の山水として描いているものとされ、桐紋襖の上に描かれていることから非常に珍しいものとされています。

この三玄院の障壁画の制作と、三門壁画制作との前後関係については不明とされていますが、いずれにしても両者の絵が評判を呼び、等伯は中央画壇にデビューすることになっていきます。

等伯、51歳の時です。

大徳寺三玄院で描かれたこの襖絵は、明治初年の廃仏毀釈の弊を被り、現在、圓徳院(32面)と樂美術館(4面)(京都市上京区油小路通一条下る)とに分蔵されています。

写真集写真集(32枚の写真が表示されます。)
写真 
ねねの道
写真は北の方角を向いて撮ったもので、この奥のねねの道沿いの左手に圓徳院はあります。そして、ねねの道を挟んだ向かい側に高台寺がたっています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市東山区高台寺下河原町530
宗派 臨済宗建仁寺派
本尊 釈迦如来立像
寺格 高台寺塔頭
創建年 慶長10年(1605)
開基 三江紹益(さんこうじょうえき)
文化財
重要文化財
紙本墨画山水図(しほんぼくがさんすいず)(長谷川等伯筆、32面)
名勝
旧円徳院庭園(北庭)(小堀遠州整庭)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 正門(長屋門)
  2. 唐門
  3. 秀吉好みの手水鉢
  4. 庫裡
  5. 方丈
  6. 南庭
  7. 北書院
  8. 北庭
  9. 茶室
  10. 桧垣の手水鉢
  11. 大国殿(三面大黒天)
  12. 歌仙堂
  13. 大黒門
  14. ねねの道
  15. 台所坂
  16. 高台寺
  17. 高台寺公園
  18. 石塀小路
  19. ねねの小径

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 16:27 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このページの先頭へ戻る