蓮華寺

書院より
書院より
庫裏(くり)で拝観受付を済ませ、阿弥陀三尊が安置された小部屋を抜けると書院です。爽やかな新緑の中に横たわる静けさが出迎えてくれます。何を考えるともなく庭を眺めていると、いつしか心安らぐ時間が流れています。
書院前の庭には楓が多く、紅葉の季節には色鮮やかな光景を満喫できそうです。

大原を経て京都と若狭を結んだかつての若狭街道(通称、鯖街道(さばかいどう))(現・国道367号)の京都口にあたる上高野(かみたかの)の地にある蓮華寺(れんげじ)。古来、この街道は、京都と北陸との間でそれぞれの産物が運ばれ、交易の主要な街道としての機能を果たしていました。

この街道沿いにある入口より入って山門をくぐれば、蓮華寺の静かで安らぎを感じさせる空間が迎えてくれます。

由来

蓮華寺は、江戸時代初期の寛文(かんぶん)2年(1662)、加賀前田藩に仕えた家臣、今枝民部近義(いまえだみんぶちかよし)が、この地に寺院を建立したいとの念願を抱きつつも果たせず他界した祖父重直(しげなお)の菩提を弔うために造営したものといいます。

重直は、美濃国(みののくに)(岐阜県南部)出身の武士で、武道に秀でていて、斉藤道三(さいとうどうさん)、織田信長(おだのぶなが)に仕えました。姉川(あねがわ)の戦い(1570)、長篠(ながしの)の戦い(1575年)、そして、信長没後は次男織田信雄(のぶかつ/のぶお)に仕え小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い(1584年)に出陣しています。

その後は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、秀次(ひでつぐ)と仕え、それまでの数々の武功により豊臣姓までもらっています。

後に、秀次が秀吉のために高野山に自害後は、加賀の前田利長(としなが)に重臣として仕えました。

重直は、晩年には得度して宗二居士(そうじこじ)と号し、茶道をたしなみ、詩や絵などにも通じた文人として、上高野に草庵を結んだといいます。

加えて、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立したいという念願を抱きつつも、果たせずして寛永(かんえい)4年(1627)に亡くなったといいます。

そこで、近義が祖父・重直の願いに応え、菩提を弔うために一寺を建てたのでした。

蓮華寺は、元は、七条塩小路(しおこうじ)(現在の京都駅付近)にあった西来院(さいらいいん)という一遍上人(いっぺんしょうにん)を開祖とする時宗(じしゅう)寺院でしたが、先の応仁・文明の乱(1467年〜1477年)によって焼失し、廃墟と化していたものを近義が建て直したといいます。

その後、この西来院を現在の地に移し、江戸時代初期の寛文2年(1662)に、実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の僧を開山として招いたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となったのでした。

この時に寺名も蓮華寺と改称されたといいます。それは、もともとこの地に、平安時代中期の天台宗の僧、恵心僧都(えしんそうず)(源信(げんしん))が建立していた蓮華寺という寺があったことから、宗派と同寺に寺号も変えたものといいます。

造営

江戸時代初期の医者であり、歴史家の黒川道祐(くろかわどうゆう)が天和(てんな)元年(1681)に著した『近畿游覧(ゆうらん)誌稿』に掲載の「東北歴覧之記」に、蓮華寺について次のような記述があります。

・・・本尊ハ釋尊ナリ、古代ノ木佛ナリ、黄檗隠元禪師蓮華寺ト記セル額アリ・・・庭ニ池水アリ、中嶋ニ石碑アリ、則チ民部カ父(※)今枝宗ニノ碑ナリ、其ノ詞拜ニ銘ハ、木下順庵是ヲ作セリ、篆額(てんがく)ハ、石川丈山筆也、・・・

「父」とありますが、今枝宗ニ(重直)は、民部(今枝民部近義)の「祖父」にあたります。

蓮華寺の造営にあたっては、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山(いしかわじょうざん)、朱子学者の木下順庵(きのしたじゅんあん)、そして、寛文元年(1661)に創建したばかりの宇治にある黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の開山にして黄檗宗の開祖である隠元隆g(いんげんりゅうき)らが協力した事がわかります。

また、本堂の天井には狩野派画家の狩野探幽(かのうたんゆう)が龍図を描き、鐘楼の釣鐘には「黄檗二世 木庵瑫山(もくあんとうさん)僧」の銘が刻まれるなど、これらの人たちも手を貸しています。

ただ狩野探幽が本堂天井に描いた龍図は今はなく、現在の絵は昭和53年(1978)に復元されたものとなっています。

庭園について

ところで、蓮華寺の庭園は、その周囲を巡るように造られた「池泉回遊式庭園」の形式をしていますが、規模も比較的小さく、庭園内を巡るというよりも、書院から対坐して観賞する庭園ということから「池泉観賞式庭園」となっています。

この庭園を手掛けたのは誰であるかは分かっていません。

かつて、作庭者として小堀遠州(こぼりえんしゅう)や石川丈山の名が挙げられることがありました。しかしながら、先ず、小堀遠州は作庭の10年程前に世を去っていることから除外されます。仮にその後継者(例えば配下の賢庭(けんてい))の作庭とも考えられますが、小堀遠州系らしいものは全くない、とされています。

一方、作庭時期には石川丈山は存命していましたが、丈山の趣味とはあわないことから、除外されています。

残るところ有力な人としては、開山の実俊も挙げられますが、現在のところ作庭者は全く不明との見方になっています。

とはいえ、書院から望む庭園の眺めは、いつしか時の流れを忘れてしばしの安らぎにひたってしまう程の格別のものと言っても過言ではありません。

写真集写真集(25枚の写真が表示されます。)
写真 
入口
国道367号(写真手前)沿いにある蓮華寺への入口。石畳に沿って奥へ進んだところに山門が見えています。写真左側に見える駒札の立っているところは蓮華寺参拝者のための駐車場となっています。
写真右側が大原方面、左側が京都市街地中心部方面です。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市左京区上高野八幡町(カミタカノハチマンチョウ)
山号 帰命山(きみょうざん)
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来
創建年 寛文2年(1662)再興
開基 今枝近義
開山 実蔵坊実俊

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 石仏
  3. 小書院
  4. 鐘楼
  5. 井戸
  6. 土蔵(寺子屋跡)
  7. 中門
  8. 庫裏
  9. 書院
  10. 茶席
  11. 北庭
  12. つくばい
  13. 舟石
  14. 亀島
  15. 本堂
  16. 蓮華寺形石燈籠(参道を挟んで向かい側にも1基あります)
  17. 稲荷社
  18. 国道367号
  19. 高野川
  20. 崇道神社(入口)
  21. 小野神社(小野妹子・小野毛人を祀っています。)(※1)
  22. 小野毛人墓(登り口)(※1)
  23. 小野毛人墓(※2)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

蓮華寺の入口から国道367号に沿って東(写真右側)へ100メートル足らず行ったところには、崇道(すどう)神社があります。

崇道神社〜参道〜
樹木に覆われ、昼なお暗く深閑とした崇道神社の参道

延暦(えんりゃく)3年(784)に桓武(かんむ)天皇の勅命により平城京から長岡京への遷都が行なわれたその翌年、桓武天皇が大和国(やまとのくに)(現、奈良県)に出かけた折り、遷都の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されるという事件が起きました。その犯人の一人とされたのが桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)でした。早良親王は絶食して無実を訴えましたが、淡路国(あわじのくに)(現、兵庫県淡路島)に配流の途中、罪をきせられたまま憤死してしまいました。早良親王は死後、名を崇道天皇と改められ、その怨霊を鎮めるために建てられたのが崇道神社です。

崇道神社〜本殿〜
崇道神社〜本殿〜

そして崇道神社本殿上り口の脇から140メートルほど登った裏山の中腹には、遣隋使として知られる小野妹子(おののいもこ)の子、小野毛人(えみし)の墓があります。

小野毛人の墓
小野毛人の墓

上記の【境内概観図】も合わせてご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 15:16 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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