長楽寺

本堂
本堂
日ごろの喧噪とは無縁の清閑さが漂います。
写真右に鐘楼、左奥に本堂、そしてその手前に建礼門院塔が見えます。
楓の新緑が美しく、また、紅葉の季節に色鮮やかに紅く彩られた光景が目の前に浮かぶようです。

多くの人で賑わう祇園町(ぎおんまち)から八坂神社(やさかじんじゃ)を通って円山公園(まるやまこうえん)を抜け、沿道を楓が覆う、円山公園と大谷祖廟(東本願寺)に挟まれた小路を奥へと進むとやがて正面に見えてくるのが静寂に包まれる長楽寺(ちょうらくじ)です。

円山公園を挟んで知恩院の南側に当たっています。

秋の紅葉は京の隠れた名所として知られている所です。

長楽寺はもともと円山公園と大谷祖廟の大部分を含む広大な寺域を有していましたが、大谷祖廟建設の際江戸幕府により境内地を割かれ、更に、明治初年には境内の大半が円山公園に編入され今日に至っています。

縁起

長楽寺は、平安時代草創期の延暦(えんりゃく)24年(805)、桓武(かんむ)天皇の勅命により、最澄(さいちょう)が延暦寺(えんりゃくじ)の別院として創建したものと伝わります。天台宗の寺院として始まったのでした。

江戸時代中期の元禄(げんろく)年間(1688年〜1704年)に実地踏査を行い、神社・仏閣・名所旧跡の由来、縁起等を記し、正徳(しょうとく)元年(1711)に刊行された詳しい地誌「山州名跡志(さんしゅうめいせきし)」に記載の「東山(とうざん)長樂寺」の項によると、

或書云、此地景、唐土の長樂寺に相似たるを以て號と。

とあり、長楽寺が建てられた地は展望絶勝の地であり、中国・唐の長楽寺に似ているとして、長楽寺と号するようになったと伝えています。

その後、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての僧で、浄土宗の開祖法然の高弟隆寛(りゅうかん)が長楽寺内に僧坊を構え、一流の浄土念仏を唱導します。しかし、いわゆる嘉禄(かろく)の法難(下記参照)にあい、流罪となります。

その後に浄土宗の僧、阿証房(あしょうぼう)の印誓(印西)(いんせい)の時に中興して、南北朝時代から室町時代中期にかけての時宗の僧、國阿(こくあ)上人に譲ったことから、爾来時宗となって今日に至っています。

嘉禄の法難

ところで先述の隆寛、幼い頃に比叡山に登って延暦寺に入り、伯父の皇円(こうえん)に師事して天台教学を学んでいます。その後、天台座主(ざす)慈円(じえん)にも師事し、鎌倉時代初めの元久(げんきゅう)2年(1205)には、権律師(ごんのりっし)(僧尼を管理するためにおかれた僧官の職「僧綱(そうごう)」にいう僧正(そうじょう)・僧都(そうづ)に次ぐ第三位の律師の中の一つの僧官)に任ぜられています。

しかし隆寛はその後、浄土宗の開祖、法然(ほうねん)の弟子となっています。そして長楽寺に入ります。隆寛は長楽寺内に僧坊を構え、多念義長楽寺流と呼ばれる一流の浄土念仏を唱導しました。

そのころ、天台宗の僧定照(じょうしょう)が嘉禄(かろく)元年(1225)、法然の浄土教を非難する「弾選択(だんせんじゃく)」を著します。

これに対して嘉禄3年(1227)、隆寛が「顕選択(けんせんじゃく)」を著して定照に反論します。

するとこの対立がきっかけとなって、定照は比叡山の衆徒らと浄土宗で行われている専修念仏(せんじゅねんぶつ)の停止を朝廷に訴えます。

この論争がもとで同年、隆寛が陸奥国(むつのくに)への配流(はいる)を言い渡されたのでした(嘉禄の法難)。

と同時に法然の墓所があばかれるという専修念仏弾圧を招きます。

鎌倉時代初期の建暦(けんりゃく)2年(1212)正月25日、法然は、現在の知恩院勢至堂(せいしどう)の地にあったという「大谷の禅房」と呼ばれたところで80年の生涯を閉じています。

遺弟らはその「大谷の禅房」の東崖上に法然を葬り、廟堂を建立しました。現在の知恩院法然上人御廟のある地です。廟堂には法然の真影が安置され、ここを訪れる人が絶えなかったといいます。

ところが、先の嘉禄の法難の余波を受けて、専修念仏の興隆に恨みをもった延暦寺衆徒によって、この廟堂が破壊されるという事件が起こったのでした。

しかし事前にこのことを知った法然の遺弟らは法然の遺骸を密かに洛西の嵯峨に移し、更には翌安貞(あんてい)2年(1228)の17回忌の忌日には西山粟生野(あおの)で荼毘(だび)に付しています。ちなみに、この地に建てられたのが、今日の浄土宗西山派の本山、粟生の光明寺(こうみょうじ)です。

隆寛は、配流の途中、相模国(さがみのくに)飯山(現神奈川県厚木市)で安貞(あんてい)元年12月13日(1228年1月21日)、その生涯を閉じています。

女院出家

『平家物語〜灌頂巻(かんぢょうのまき)〜』の「女院(にょいん)出家」に、建礼門院(けんれいもんいん)が長楽寺に於いて剃髪したことが記されています。

建礼門院は平清盛(たいらのきよもり)の次女で、高倉(たかくら)天皇の皇后であり、安徳(あんとく)天皇が生まれると天子の国母となり、天下は思いのままでした。4月、10月になると様々な色の衣に着替える衣替えをし、摂政関白以下の大臣・公卿にかしずかれ、文武百官が敬い仰がぬ者はなく、清涼殿・紫宸殿の床の上、玉の簾(すだれ)の中で大切にされ、秋は雲の上の月をひとり見ることを許されず、月見の遊宴などに夜を過ごし、冬の白雪の降る寒い夜は衣を重ねて暖かにし、明けても暮れても楽しみ栄えた生活を送れたことは天上の幸福もこれ以上ではあるまいと思われるほどのものでした。

それから高倉上皇が治承(じしょう)5年1月14日(1181年2月6日)、平清盛が同年閏2月4日(1181年3月20日)と相次いで没し、平家の勢力に陰りが見え始めると、源氏が勢力を盛り返し、木曽義仲(きそよしなか)の攻撃により建礼門院をはじめとする平家の者は京の都を追われました。元暦(げんりゃく)2年(1185)3月、壇ノ浦の戦いでついに建礼門院の母・時子が10歳にも満たない建礼門院の子・安徳天皇を抱いて入水すると、続いて建礼門院自らも海にその身を投じました。この戦いで平家は滅亡しましたが、幸運と言うべきか、皮肉と言うべか、偶然にも建礼門院は源氏方に助けられたのでした。

その後建礼門院は京に送還されます。東山の麓、吉田(京都市左京区。神楽岡の西。)の辺りにあったという僧房に入ります。ただ、そこは長い年月の間、人が住んだ様子もなく、庭には草が生い茂り、簾も破れてなくなり、寝屋は丸見えで、雨風も防げそうもないなど、ひどくみすぼらしく朽ちた僧房だったといいます。

しばらくそのような僧房で日々を送っていた建礼門院は、同年5月1日、長楽寺において剃髪し仏門に入ります。戒師に当たったのが阿証房の印誓上人だったといいます。

その時のお布施として建礼門院が差し出したのが、先帝・安徳天皇が最後の時まで日常着として身に付けていたという直衣(のうし)だったのでした。建礼門院は先帝の形見としていつまでも手元に置いておこうとしていたものです。

しかし、今ではこれといってお布施になりそうな物の持ち合わせもありませんでした。しかし考えようによっては、お布施として差し出すことで先帝・安徳天皇の成仏を願い供養にもなるということで、泣く泣く差し出したのでした。

印誓上人はこの御衣(ぎょい)を頂戴すると、幡(はた)に縫って、長楽寺の仏前にかけたといいます。

それからというもの建礼門院は、先帝・安徳天皇と平家一門の菩提を弔う日々を送ることになります。

そしていつしか、現在の都の近くでの、いやな事を耳にしてつらい思いをしながらの暮らしよりは、何かと寂しいながらもそういったことの耳に入らない深い山の奥へでも行き、静かに暮らしたいと思っていた建礼門院は、大原山の奥に寂光院(じゃっこういん)という所があることを聞き、元暦2年8月に改元された翌月の文治(ぶんじ)元年(1185)9月末、寂光院に移ることになります。

ここで一つ歴史上の事実と符合しない点があります。

それは、印誓上人が長楽寺に入山したのは、隆寛が配流された後ということです。隆寛が配流されたのは先述の通り嘉禄3年(1227)です。

一方、長楽寺において建礼門院の剃髪に印誓上人が戒師を務めたのは元暦(げんりゃく)2年(1185)となっています。

長楽寺にまつわる一種のミステリーとして興味をそそられそうですが、この辺りの歴史上の事実関係は今後の専門家による研究を待つことになりそうです。

ただし、先述の安徳天皇の御衣から作られた幡(はた)2流、更に、建礼門院塔が長楽寺に残存しています。

写真集写真集(33枚の写真が表示されます。)
写真 
長楽寺へ
円山公園から南側の出入り口を抜けると東(左手)の方へと繋がる道があります。その角の所には、写真に見られる案内が置かれていて、その道に沿って奥へと進めば長楽寺へと辿り着きます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市東山区円山町626番地
山号 黄台山(おうだいさん)
宗派 時宗
本尊 准胝観音
創建年 延暦24年(805)
開基 最澄
文化財
重要文化財
木造時宗祖師像7躯(智真(一遍)立像、真教倚像、一鎮坐像、尊明坐像、太空坐像、尊恵坐像、暉幽坐像)
遊行(ゆぎょう)歴代他阿弥陀仏書状類(24通)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 庫裡
  3. 客殿
  4. 時雨楓
  5. 書院
  6. 庭園
  7. 茶室
  8. 本堂
  9. 鐘楼
  10. 時雨楓
  11. 建礼門院塔
  12. 平安の滝
  13. 収蔵庫
  14. 徳川慶喜ゆかりの尊攘苑
  15. 頼山陽・頼三樹三郎の墓
  16. 鈍永翁文塚
  17. 寺井玄渓の墓
  18. 円山公園
  19. 大谷祖廟
  20. 雙林寺(そうりんじ)(※1)
  21. 長楽寺へ(※2)
  22. 知恩院(※2)
  23. 八坂神社(※2)
  24. 西行庵(※2)
  25. 芭蕉堂(※2)
  26. 高台寺(※2)
  27. 圓徳院(※2)
  28. ねねの道(※2)
  29. 石塀小路(※2)
  30. 京都霊山(りょうぜん)護国神社(※2)
  31. 将軍塚大日堂(※2)(将軍塚青龍殿
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 21:04 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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