両足院

方丈と前庭
方丈と前庭
広縁に腰掛けて庭を眺めているといつの間にか時が静かに流れていきます。

およそ650年前の南北朝時代、44年間滞在した中国・元(げん)から戻った龍山徳見(りゅうざんとくけん)が建仁寺の住持に就任します。そして知足院(ちそくいん)が建仁寺の塔頭として、龍山によって創建されます。この知足院が今日の両足院(りょうそくいん)として受け継がれています。

今日、祇園町南側花見小路通に隣接して京都市中でも賑やかさを誇る町なかにある建仁寺。一歩足を踏み入れればそれまでの喧騒から解き放たれた境内に抱かれて両足院は静かにたっています。

龍山徳見

龍山は幼いころからすこぶる聡明で、非常に潔癖な少年であったといいます。ただ、人見知りの度が強すぎるといったようなところでもあったのでしょうか、周囲の人たちにうまく馴染めないといったところがあったようです。これに困った両親は、永仁(えいにん)2年(1295)、12歳の龍山を鎌倉寿福寺(じゅふくじ)の寂庵上昭(じゃくあんじょうしょう)に預けます。鎌倉時代も残すところ30年と少しといった時期のことです。

そして龍山はその翌年からというもの、師の寂庵も舌を巻くほどその才能を開花させることとなります。

その後ある時、龍山は、中国・元(げん)の使者として来日し、のち帰化僧となった臨済宗の僧、一山一寧(いっさんいちねい)(南禅院参照)の講義を聴こうとして鎌倉の円覚寺(えんがくじ)に出かけます。ところが予想以上の40人もの希望者が集まったことから、聴講者の選抜が行なわれることになります。一山はおもむろに縄牀(じょうしょう)(縄を編んで作った椅子)を指差して、それをほめたたえた漢詩文である「頌(しょう)」を作り、佳作ができた人には聴講を許可する、としたのでした。

龍山は筆をとるとすぐさま書き上げてしまいます。そして40人の中で最高の評価を得ます。これを機に龍山は一山に参禅するようになります。

こうして嘉元(かげん)3年(1305)、龍山は一山の影響もあり、単身海を渡って元へと向かうことを決意します。龍山利見(りけん)22歳の時です。この時の法名は「利見」です。

ところが当時は、中国・元の大軍が来攻(蒙古襲来)した文永(ぶんえい)の役(えき)(1274年)と弘安(こうあん)の役(1281年)があったいわゆる元寇(げんこう)の後で、日本と元との間には国交が開かれていませんでした。そのため、元では商船はおろか僧侶の入国すら認められておらず、これを犯した場合はスパイとして断罪された頃でした。こういった状況から、龍山の入元は密航に近いものだったのです。

龍山は中国の寧波(ねいは)に上陸します。龍山はその時の心情を次のように述べています。(『続群書類従第九輯下〜傳部〜』所収「眞源大照禪師龍山和尚行状[徳見]」)

古人為法亡躯。今正是時。

(かつて、いにしえの人は法のために身を滅ぼした。今はまさに、自分とってその時である。)

龍山は夜陰に乗じて入りこもうとします。ところが、ある富家の庭先まで来たところでその家の守衛に捕まってしまい、縛り上げられたまま一晩を過ごすことになります。

翌朝になって、守衛はその富家の主人の前に捕らえた龍山を引き出します。まだ中国語での会話に熟達していなかったのか、龍山は紙と筆を求めて筆談で質問に応じることにします。その中で龍山は、太白山天童寺の東岩浄日和尚の事を述べ、東岩和尚に師事しようと日本からはるばるやって来た旨を伝えます。するとこれを聞いたその富家の主人夫婦は驚きます。全く偶然にもその富家の主人夫婦は東岩和尚に帰依していたからです。東岩和尚のことが遠い異国の地にまで届いている事に喜びを覚えた富家の主人夫婦は、密入国の罪を免じてもらえるように官吏に働きかけてくれたのでした。

そして、富家の主人夫婦は龍山を自由の身としてくれた上に、幸いにも東岩和尚に引き合わせてくれることになります。

東岩和尚は龍山に会ってその頭脳の聡明さや人となりを知るや、龍山の法名を「利見」から「徳見」に改めさせます。「利」は尖った聡明さをあらわし、時には俗と混居することをよしとしない恐れがあると見たからです。この点は、子供の頃から変わっていなかったのかもしれません。代わりに精神修養によって得たすぐれた品性、言い換えれば人徳が備わるようにとの思いから「徳」を以て「徳見」とした、といわれています。

貞和(じょうわ)5年(1349)、元に渡ってから実に44年ぶりに龍山が帰国します。龍山、既に66歳となっていました。

そしてこの帰国の際に、龍山を慕って日本にやって来て帰化した人がいます。林浄因(りんじょういん)という人です。実は、日本のまんじゅうはこの人に始まるといいます。林浄因は日本におけるまんじゅうの祖なのです。その後、林浄因は塩瀬姓を名のって奈良に住み、まんじゅうを作って生計をたてたと伝えられています。

足利直義に請われて

龍山が帰国したのは室町時代の初め、即ち南北朝時代初期に当たります。歴史上では、龍山が中国・元に渡ったのが鎌倉時代でしたから、次の時代に戻って来たことになります。

この頃は室町幕府を興した足利尊氏(あしかがたかうじ)とその弟の直義(ただよし)による二頭政治が行なわれていた時期に当たります。この二人はその権限をうまく分割して統治しています。即ち、尊氏は武士に対する軍事指揮権と行賞権を、一方直義は民事裁判権と所領安堵権を掌握していたとされています。

直義は当時、「天下執権之人也」といわれ、尊氏の征夷大将軍に対して左武衛将軍と称され、また尊氏とともに「両将軍」とも呼ばれていました。

ところで、当時の新興の武士たちは、従来の貴族文化に満足せず自分たちの新しい文化を求めます。その流れの中に現れたのが禅宗でした。

直義は宗教的関心が深く、注目を集めるようになった禅学に対する理解は当代の武士としては極めて優れたものであったといわれています。

日本に帰ってきた龍山は、先ず尊氏の弟、直義に請われて観応(かんのう)元年(1350)、建仁寺35世に就任することとなります。建武(けんむ)3年(1336)に建武式目(けんむしきもく)制定をもって創始された武家政権である室町幕府が開かれてから14年後のことです。

その後、龍山を開山とし、建仁寺塔頭として知足院が創建されます。いまから650余年前のことです。そしてこの知足院が、のちに今日の両足院へと受け継がれることになります。

龍山は、文和(ぶんな)3年(1354)には、尊氏に請われて南禅寺24世に就任、さらにその3年後の延文(えんぶん)2年(1357)には天龍寺6世に就任し、大いに禅風の擧揚に務めたのでした。

更に、龍山は修禅のための文学を重視します。そして五山文学の双璧をなす絶海中津(ぜっかいちゅうしん)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)らを指導し、大きな影響を与えることになります。

知足院から両足院へ

延文3年(1358)11月10日、龍山は軽い病に罹ります。すると龍山は建仁寺に出向いて自ら穴を掘り、その中に甕(かめ)を埋めたといいます。

それから3日後の13日、死期を悟った龍山は次の遺偈(ゆいげ)をしたためます。(同前掲所収)

西涌東没。南往北來。末後一句。掘地深埋。

(西に涌いたかと思うと東に没する。南へ行ったかと思うと北へやって来る。最期のわかれの一言。地面を掘って深く埋めなさい。)

龍山はその遺偈に「十一月十三日」と日付を入れると、知足院において世を去ったのでした。75歳。日本で過ごすよりも、中国・元に滞在したのが長かった人生だったといえます。

遺体は、龍山の遺言に従い全身のまま自ら用意した甕に葬られたといいます。

龍山の遺骨が知足院に葬られてからの知足院は、龍山の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁(ぶんりんじゅいく)の両足院、一庵一麟(いちあんいちりん)の霊泉院(今日の霊源院)などの黄龍派(おうりょうは)寺院の本院となっています。ちなみに、文林は林浄因(日本のまんじゅうの祖)三世の孫に当たります。

文林が両足院を創建した当時は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にあったといいますが、室町時代末期の天文(てんぶん)年間(1532年〜1555年)の火災の後、知足院・両足院の両院を併せて「両足院」と称する事となり、現在に至っています。

写真集写真集(25枚の写真が表示されます。)
写真 
山門
建仁寺本坊(庫裡)から真っすぐに南へ延びる参道から、両足院の山門に向かって石畳の参道が東の方へと延びています。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591
建仁寺山内
宗派 臨済宗建仁寺派
本尊 阿弥陀如来立像
寺格 建仁寺塔頭
創建年 南北朝時代(1350年〜1358年)
開山 龍山徳見
文化財
重要文化財
三教図

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 唐門
  3. 唐門前庭
  4. 庫裡
  5. 閼伽井庭
  6. 方丈
  7. 方丈前庭
  8. 亀島
  9. 書院
  10. 書院前庭
  11. 水月亭
  12. 臨池亭
  13. 毘沙門天堂
  14. 東大路通(※3)
  15. 四条通(※3)
  16. 京都四條南座(※3)
  17. 歌舞伎発祥地(※3)
  18. 花見小路通(※3)
  19. 安井通(※1)
  20. 建仁寺・北門(※1)
  21. 建仁寺・総門(※2)
  22. 建仁寺・本坊(庫裡)(※1)
  23. 建仁寺・方丈(※1)
  24. 建仁寺・大雄苑(だいおうえん)(※1)
  25. 建仁寺・安国寺恵瓊(えけい)首塚(※2)
  26. 建仁寺・東陽坊(とうようぼう)(※2)
  27. 建仁寺・○△□乃庭(まるさんかくしかくのにわ)(※2)
  28. 建仁寺・小書院(※2)
  29. 建仁寺・潮音庭(ちょうおんてい)(※2)
  30. 建仁寺・大書院(※2)
  31. 建仁寺・法堂(はっとう)(※1)
  32. 建仁寺・三門(※1)
  33. 建仁寺・放生池(※1)
  34. 建仁寺・茶碑
  35. 建仁寺・開山堂楼門(宝陀閣)(※1)
  36. 建仁寺・開山堂(※1)
  37. 建仁寺・浴室(※1)
  38. 建仁寺・勅使門(矢の根門)(※2)
  39. 八坂通(※2)
  40. 大和大路通(※2)
  41. 鴨川(※3)
  42. 六波羅蜜寺(※3)
  43. 八坂神社(※3)
  44. 円山公園(※4)
  45. 西行堂・西行庵・芭蕉堂(※4)
  46. ねねの道(※4)
  47. 石塀小路(いしべこうじ)(※4)
  48. 高台寺(※4)
  49. 圓徳院(えんとくいん)(※4)
  50. 一念坂(※4)
  51. 二寧坂(二年坂)(※4)
  52. 八坂の塔(※4)
  53. 産寧坂(三年坂)(※4)
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※4.−(マイナスボタン)を4回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 19:40 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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