実相院

池泉回遊式庭園の紅葉
池泉回遊式庭園の紅葉
紅葉も見ごろを迎えると庭園に見事な彩りを添えます。
2005年撮影。

丹念に磨かれて黒光りする客殿・瀧の間の床板に外の楓が映り込み、季節に応じて「床もみじ」「床みどり」と愛称がつき、これがその代名詞ともなっていることで知られる実相院(じっそういん)。

今日、その光景を写真に収めることができないのは残念なところですが、一度目にすればまぶたの裏に焼きついて残り、それがフィルムの代わりをしてくれているようでもあります。

由来

実相院は、鎌倉時代前期の寛喜(かんぎ)元年(1229)、関白近衛基通(このえもとみち)の孫、静基(じょうき)権僧正(ごんのそうじょう)が開基となって天台宗寺門派の門跡(もんぜき)寺院(皇族や摂家などの出身の人が住持となった特定の寺院)として始まります。

静基が園城寺(おんじょうじ)の静忠(じょうちゅう)(近衛基通の子)のもとへ入室し弟子となって入壇受法し実相院と号したことから、寺号を実相院と称するようになったといいます。

実相院は、当初、山城国(やましろのくに)愛宕(あたご)郡紫野今宮北上野の地に開かれました。現在の京都市北区で、当時は未だ存在していませんが、今日の大徳寺(だいとくじ)の北に位置しています。

その後、南の方角に位置する京都御所に近い五辻通(いつつじどおり)小川に移ります。この移転先は今日実相院町(京都市上京区)と呼ばれ、その名残りをとどめています。

ところが室町時代中頃になって応仁の乱(1467〜77年)が始まると、この院地は、山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍と細川勝元(ほそかわかつもと)率いる東軍との間に挟まれる所となってしまいます。このため、当時実相院がその管理下においていた大雲寺(だいうんじ)の塔頭(たっちゅう)、成金剛院(じょうこんごういん)があった所へと移されました。この時の移転先が現在の実相院の始まりとなります。一方、里坊として残されていた五辻通小川の所は、応仁の乱で焼失してしまったといいます。

余談ながら。

大雲寺は、紫式部(むらさきしきぶ)の曽祖父(母方の祖父)、藤原文範(ふじわらのふみのり)が開基となり、真覚(しんがく)を開山として平安時代中頃の天禄(てんろく)2年(971)に創建されたのに始まるとされ、園城寺(おんじょうじ)(三井寺(みいでら))の別院とされた寺です。

また、『源氏物語』第5帖「若紫」の巻で、光源氏が病気加療のため北山(きたやま)に赴きそこに登場する「北山の某という寺」のモデルと見られている所でもあります。

大雲寺は今も実相院からほど近い北の方角にあります。

室町時代後期の文亀(ぶんき)2年(1502)、それまで多くの寺領を有していた実相院でしたが、細川勝元の子、政元(まさもと)によって没収されるにいたり、実相院の寺勢はいっきに衰えることとなります。

その後、享禄(きょうろく)元年(1528)になって足利義維(あしかがよしつな)の安堵(所領の知行を確認・保証すること)を受けたものの結局寺領は戻らなかったといいます。

ようやく息がつけるようになるのは、元亀(げんき)4年(1573)に織田信長(おだのぶなが)が、室町幕府第15代将軍足利義昭(よしあき)を京から放逐したことにより室町幕府が事実上崩壊し、織田政権が確立したことにより安土桃山時代となった翌年の天正(てんしょう)2年(1574)を皮切りに、信長が寄進をはじめてからとなります。

その後江戸時代に入って中興の祖とされる義尋(ぎそん)が入寺したことによって、実相院は大いに寺格を向上させることとなります。それは義尊が足利義昭の孫、即ち足利将軍家の血筋であること、そして母・三位局(さんみのつぼね)が第107代天皇の後陽成(ごようぜい)天皇に仕えその寵愛を得たことから、皇室そして江戸幕府第3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)より援助を受けることができるようになったからでした。

こうして天皇家とのゆかりも深まったことから続く第108代天皇の後水尾(ごみずのお)天皇やその中宮東福門院(とうふくもんいん)たちが訪れるようにもなり、さらにその後も皇孫の入室が続き、華やかな時代を迎えていくこととなります。

実相院と岩倉具視

江戸時代を通じて260年余りに亘り、実相院の歴代門主に仕えてきた坊官(ぼうかん)によって克明に書き継がれてきた『実相院日記』。この日記は、平成10年(1998)に実相院の武者隠しになっていた一間から100年以上の時を超えて発見されたものです。この日記には、後水尾天皇の御幸から、寺田屋騒動(文久2年(1862)4月)、新撰組隊長近藤勇の捕縛(慶応4年(1868)4月)など幕末の動乱の事件、さらには洛中の風聞までもが書き残されています。

この日記の中に、維新の十傑(いしんのじっけつ)の一人で唯一の公家出身である岩倉具視(いわくら ともみ)が実相院の境内地に家を買い求めた時の事が綴られています。

幕末、孝明(こうめい)天皇の侍従として朝廷内での発言力を増していた岩倉具視は、長州藩の首唱する尊皇攘夷運動の高まりの中、孝明天皇の妹、和宮(かずのみや)の徳川将軍家への降嫁に賛同していたことから公武合体の推進者とみなされ、命を狙われるようになります。

その結果、岩倉具視は辞官落飾して朝廷を去ることとなり、転々と身を隠した後、文久(ぶんきゅう)2年(1862)、洛北の岩倉村に幽棲します。

それから2年後の元治(げんじ)元年(1864)11月、実相院の境内に住居の願いを出して家を買い上げています。

その事が実相院日記の元治元年11月11日条に

岩倉殿家来小野昇造、藤吉居宅買得候而(にて)、御境内住居支度に付、請書差出如左 内実は岩倉入道殿住居也

と記載されています。日記中にある「岩倉入道」は岩倉具視を指します。

住居の願いを出したのは岩倉具視に仕えていた小野昇造という人ですが、実際は岩倉具視が住むということを実相院は承知の上で認めたものとなっています。

岩倉具視は文久2年からの5年間を実相院の佇む洛北の岩倉村で過ごしますが、この地でご近所づきあいをするようになった経緯がうかがえます。

なお、元治元年に岩倉具視が買い上げた家は、現在では国指定史跡「岩倉具視幽棲旧宅」(京都市管理。見学可。)として実相院の近くに残っています。

写真集写真集(24枚の写真が表示されます。2014年撮影。)
写真 
実相院へ
京都府道105号線と106号線の分岐点の角に立てられています。
105号線は、実相院の正面で終点(始点)となっています。
一方、106号線に沿って行くと、貴船・鞍馬方面へと向かいます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市左京区岩倉上蔵町(あぐらちょう)121
宗派 単立
本尊 不動明王
創建年 寛喜元年(1229)
開基 静基
文化財
重要文化財
仮名文字遣[後陽成天皇宸翰]

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 四脚門
  2. 御車寄
  3. 客殿
  4. 石庭
  5. 池泉回遊式庭園
  6. 大雲寺
  7. 岩倉公園
  8. 京都バス停車場
  9. 岩倉具視幽棲旧宅(※1)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 16:13 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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