岩倉具視幽棲旧宅

主屋
主屋
晩秋の日射しを浴びて。
鄰雲軒(りんうんけん)の名があります。

幕末の慶応(けいおう)3年(1867)12月9日、京都御所において大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)らとともに王政復古を成就させ、新政権樹立の一翼を担った明治維新の元勲、岩倉具視(いわくらともみ)が、かつてはその命までも狙われた上に洛中から追われて5年の間隠棲の日々を送っていた、洛北の地、岩倉。実相院の目と鼻の先にあるその旧宅は国の史跡として受け継がれています。

参内

江戸時代も末の文政(ぶんせい)8年(1825)、京都の公卿堀河家に生まれた具視は、天保(てんぽう)9年(1838)8月、14歳の時、岩倉具慶(ともやす)の養子となります。この時までは周丸(かねまる)といいましたが、周丸は岩倉家の世子として新たに名を付けてもらうことになります。『詩経』の「小雅」より「民具爾瞻(たみともになんじをみる)」をとって「具瞻(ともみ)」としたといいます。

ところが周丸はこの字を見て画数が少なくもっと書きやすい文字にしてほしいとの要望を伝えたといい、そこで「瞻」と同一義の文字である「視」をとって「岩倉具視」と決まったのでした。

具視は公家出身でありながらその発言や行動はいわゆるおっとりとした公家風ではなかったといいます。どちらかといえば尋常の子ではなく、異彩を放つ目立った存在だったようです。そして幼い頃から学んだ儒学の師から「成長して有用の人物になるにちがいない」と評価され、当時世嗣の子がいなかった岩倉具慶に周丸(具視)を養子として迎えてはどうか、とすすめたのでした。

具視が成人して後には、関白・内覧(※1)を辞してのちも太閤・内覧となり朝廷・公家社会の最高権力者の座にあった鷹司政通(たかつかさまさみち)が具視を評して「眼彩人を射て、弁舌流るるが如し、誠に異常の器なり」と人に語ったというエピソードも残っています。

(※1)内覧
天皇に差し出す文書と天皇が下す文書など一切を先に見て、常に天皇の側で政務の相談にあずかって補佐する役。

天保9年の10月に具視は従五位下(じゅごいげ)の位階を授けられ、12月に元服して昇殿を許されると参内して孝明(こうめい)天皇から天盃を賜ります。

なお、具視は雅号を初め華龍と号し、後には対岳(たいがく)の号を用いています。文久(ぶんきゅう)年間(1861〜64)には富研の名もあります。

こうして、翌天保10年(1839)1月から朝廷に出番することになります。最初は宿直勤務のようなところから始まることとなります。安政(あんせい)元年(1854)、具視30歳の時には孝明天皇の側近に侍る侍従(じじゅう)となっています。

ちなみに、具視が侍従に任じられた前々年の嘉永(かえい)5年(1852)に、具視の実妹・堀河紀子(もとこ)が孝明天皇の後宮(こうきゅう)に入り、天皇との間に2皇女をもうけています(ともに夭折)。

無断調印と戊午の密勅

安政(あんせい)5年(1858)、幕府は、4月に就任した大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)のもとで、第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の後継をめぐり、孝明天皇はじめ朝廷が徳川(一橋)慶喜(よしのぶ。後の江戸幕府最後の第15代将軍。)を想定して「時節柄、次期将軍は英明・人望・年長の人が望ましい」とした意に反して、当時12歳の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を第14代将軍とする発表(6月1日。同年10月25日に就任し、家茂(いえもち)と改名。)に続き、日米修好通商条約調印(6月19日)を天皇の許可である勅許(ちょっきょ)を孝明(こうめい)天皇から得ないまま断行します。

大老井伊直弼主裁の幕閣による条約の「無断調印」は、大老職・将軍継嗣を巡って激しく対立した一橋(ひとつばし)派にとって反井伊直弼運動の絶好の口実となります。そこで一橋本家の前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)をはじめその子徳川(一橋)慶喜らは、「無断調印」は幕府の違勅として大老井伊直弼に対して抗議を行ないますが、逆に隠居・謹慎・登城停止といった処罰を下されてしまいます。

水戸徳川家は、徳川斉昭の姉が先の関白鷹司政通の夫人であったことから朝廷との関係が深く、また後の明治40年になって徳川慶喜が語ったというエピソードに、慶喜が20歳の時、父斉昭が徳川光圀(みつくに)以来の家訓として、たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に対してそうあってはならないと慶喜に申し聞かせた、というものがあるように、水戸藩としては正に朝廷を軽んじてはならないというこの家訓に従ったものと想像できます。

徳川斉昭らに対して処罰が下されたことは大老井伊派の一橋派に対する宣戦となり、同じ「徳川」でありながら幕府と水戸藩との対立が決定的となります。

一方、「無断調印」のことを知った孝明天皇の様子について、安政3年(1856)に辞任した鷹司政通の後任に関白となった九条尚忠(くじょうひさただ)はその日記に「何とも御逆鱗の叡慮」と記し、孝明天皇の激怒が甚だしかった様子を伝えています。ここから朝幕間の対立も生まれます。

それは、「無断調印」から2カ月後の安政5年の8月8日、孝明天皇が、条約破棄と大老井伊直弼を糾弾すべく水戸藩に下した「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)となって現れます。関白九条尚忠は幕府側にたったことからこの勅諚(ちょくじょう。天皇の命令の意。)に反対して朝議を欠席、そのため内覧も行われず、しかも幕府の禁制に反して朝廷から直接「藩」に降勅がなされるという、異例ずくめの勅諚であったことから「密勅」と呼ばれています。また「戊午」は、下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえうま)であったことによります。

この水戸藩への密勅降下を機に幕府は関与者への弾圧を始めます。処罰は雄藩大名をはじめとする幕臣、諸藩士、更には朝廷の左大臣近衛忠煕(このえただひろ)ら公卿(くぎよう)にも及び、安政5年から翌年にかけての弾圧が行われます。安政の大獄です。

この安政の大獄が始まり出した頃(反幕派の逮捕が本格化する前)、やがて朝廷内にも幕府の手が及んでくることを危惧した具視は京都所司代酒井忠義(さかいただあき)に会う機会を得ます。そこで具視は孝明天皇の考えを詳細に説明し、朝廷と幕府が反目しあうことは国家にとって何も良いことはないと諭すように述べます。具視の述べることに全くもって同感した酒井忠義は、今後も公武一和(こうぶいちわ。公武合体。)のために具視に助力を懇請したといい、これを機に具視と酒井忠義の接触が始まったといいます。

さて、安政7年(1860)3月3日の白昼、大老井伊直弼が登城の折り、江戸城内郭門(うちぐるわもん)の一つ桜田門の外で水戸・薩摩両藩浪士に襲われ落命します(桜田門外の変)。

将軍に直属して国政を統轄する「常置」の職である老中(ろうじゅう)職に対し、井伊直弼が就任した大老職は、将軍の補佐役として時局に応じて「臨時」に設けられ、「老中の上」に置かれた最高職で、大老となった井伊直弼が強力政治に蛮勇をふるったこともあり、この大老井伊直弼の暗殺を受けて幕府としては大老井伊政治崩壊の後始末が喫緊の課題となります。

表舞台へ

そこで幕府はその修正に動き出します。

すなわち、大老井伊直弼の落命後一月と少しばかりが過ぎた万延(まんえん)元年(1860年。桜田門外の変などの災異のため安政7年3月18日に改元。)4月12日、幕府は公武一和を掲げ朝廷に対する融和政策として、第14代将軍徳川家茂の御台所(みだいどころ。江戸幕府将軍の正室の呼称。)として孝明天皇の異母妹である和宮(かずのみや)の将軍家降嫁(こうか)を朝廷に奏請します(当初の候補は和宮ではなく、孝明天皇の皇女・富貴宮(ふきのみや)でしたが、安政6年(1859)8月に富貴宮が薨去したことにより和宮が候補に挙げられることになります)。降嫁とは皇女・王女が臣下に嫁ぐことを指します。

かくして朝幕間での和宮降嫁についての正式な交渉が始まります。この交渉には、朝廷側からは関白九条尚忠が、幕府側からは京都所司代酒井忠義が窓口となって当たります。

この正式な奏請は、大老井伊直弼が世を去った後に行われていますが、「皇女を将軍家に迎える」ということは、安政の大獄と呼ばれた弾圧が進められる一方で、大老井伊直弼がまだ存命の安政5年の秋頃から、和宮降嫁が実現すれば公武合体となり通商条約の引き戻し(破約攘夷)も可能であろうとして、内々に進められていたもので、大老井伊直弼亡き後に正式に動き出したのでした。

これに対して孝明天皇は、和宮はすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)との婚約があり、いまだ幼少にして「蛮夷来集」する関東は怖いと言っていることなどを理由に和宮の降嫁について拒否的態度を示します。加えて幕府からたびたび「公武合体」の言葉が聞かれるものの真意が良く分からず、孝明天皇は果たして信じていいものやら疑惑の念を抱いていました。

しかし幕府側も朝廷からの断りをすんなりと受け入れることはなく、以後、朝廷と幕府との間で政治的駆け引きを含んだ交渉が繰り返されますが、容易に妥協の道が見つからないという状況が続きます。紛々として結論が出ないという中、思案に窮した孝明天皇は具視を「召して諮問」します。これは具視の政局進出への重要なきっかけとなります。

当時、侍従であるとともに近習(きんじゅ)となっていたことから常に孝明天皇の近くにあって奉仕しているとはいえ朝廷政治の政務からは遠いところにいた具視が、和宮降嫁という重要案件についてどうして孝明天皇からの直接の諮問に与ったのかは定かではないようです。が、2年程前の安政5年3月5日に幕府から提出された日米修好通商条約調印の承認を請う奉答書に対して、関白九条尚忠が作成した勅答案文が「幕府でよしなに取り計らってくれ」といったような朝廷の主体性をないがしろにして幕府に白紙委任するような内容で、かつ関白の独断的なやり方に具視が中心となって抗議行動を起こした公家八十八人の列参(れつさん。許可なく直接参内して意見を述べる行動。)運動(安政5年3月12日)のことや、具視の数多い政治意見書の中でも初期のもので、朝廷中心の公武調和論と外交重視に関する意見などが述べられた『神州万歳堅策』(しんしゅうばんざいけんさく)が孝明天皇の側近として重きをなしていた少将内侍(しょうしょうのないし)今城重子(いまきしげこ)を通して天皇に内奏(安政5年3月14日)されていたことなどから、具視の名は孝明天皇に知られていました。更に、和宮降嫁の問題は朝廷内では関白九条尚忠が当たるなどしてごく内々に協議されていた案件でしたが、具視は孝明天皇の諮問に対しても奉答できるように和宮降嫁に関する情報は得ていたようです。

このような背景から、具視が、少将内侍今城重子、あるいは、孝明天皇の寵愛を受けていた具視の実妹・堀河紀子あたりに孝明天皇へのなかだちを頼んだのではないか、といったような見方もあります。

さて、この和宮降嫁の問題を朝権回復の足がかりにしようと考えていた具視は、孝明天皇の諮問に対して、幕府がアメリカと結んだ日米修好通商条約を始めとしてイギリス・フランス・ロシア・オランダの5ヵ国それぞれと安政5年の6月から9月にかけて勅許を得ずに次々と結んだいわゆる安政五カ国条約に対して、これら通商条約の引き戻し(破約攘夷)を条件に公武合体策として和宮降嫁の承認を進言します。

結果として孝明天皇は具視の進言をほぼ採用したものと見られ、幕府が「破約攘夷」の条件を受け入れれば和宮を説得して降嫁を勅許するとして、孝明天皇の意向は当初の拒否的態度から「条件付き同意」へと変わります。「破約」のみではなく「攘夷」とあるのは、天皇が蛮夷拒絶の立場をとっていることによるものです。

これに対する幕府からの最終回答は「7,8年ないしは10年内には必ず攘夷を実行する」として、幕府としては心にもない期限付きの攘夷誓約をします。以後幕府はこの自らの誓約に苦しむことになります。

兎にも角にも、これをもって孝明天皇は和宮降嫁を認めるところとなり、縁組を固く辞退していた和宮本人も最終的にやむなく降嫁を承諾することとなります。

こうして具視は、孝明天皇が直接諮問したことがきっかけで和宮降嫁についての朝廷側の中心人物となり、これを機に表舞台に立って精力的に活躍することとなっていきます。

一方、和宮降嫁の件について、幕府側からは安政5年より京都所司代に就任した酒井忠義が窓口となっています。

先に安政の大獄の始まりの頃以来京都所司代酒井忠義と面識のあった具視は酒井忠義と政略上密接な連絡をとることとなり、引いては幕府の動向について大なり小なり何らかの情報を得ることができるルートを確保していたことになります。具視が和宮降嫁の際に積極的に行動できたのは、京都所司代酒井忠義に通じたパイプがあったからともいえます。

しかしそれ故に、外部の者からすると具視の行動は幕府方への通謀と見られ、和宮降嫁をよしとしなかった尊王攘夷派から具視は後に弾劾を受けることになるのです。

一挙転落

和宮降嫁問題が決着した後、具視は孝明天皇の侍従兼近習として朝廷内での発言力を増していましたが、一方で長州藩の首唱する尊皇攘夷運動の高まりの中、具視が和宮降嫁に朝廷側の中心人物として動いたことから、朝廷と幕府の協力体制である「公武合体」の推進者とみなされ、命を狙われるようになります。

すなわち、具視は孝明天皇の意思を受けて行動したにもかかわらず、京都所司代酒井忠義と親を通じて和宮の降嫁を推進したことが、外部から見る者にとっては誤解されるもととなってしまい、ひいては佐幕の姦悪(かんあく)とまでみられることになり、尊皇攘夷派の攻撃対象となったのでした。

尊皇であるはずの尊皇攘夷派の行動に一番戸惑ったのは孝明天皇のようです。この件について孝明天皇の書簡にも「冤罪之段」(『孝明天皇紀』)と明記されているように、孝明天皇は、その意思に従って動いた具視には何の罪もなく、冤罪であることは分かっていましたが、具視を取り巻く状況は次第に悪化の一途をたどります。そして遂には命の危険までさらされるようになります。そのため孝明天皇はむしろ具視を免官とした方が良かろうという考えに至ることになります。

こうして、文久2年(1862)8月20日、蟄居処分を受けた上に辞官落飾を申し出るように命じられます。落飾は髪を剃り仏門に入ることで、つまりは俗界からの追放ということになります。こうして具視は身に迫る危険を避けるべく朝廷を去ることとなったのでした。翌月の9月、15日に具視は剃髪し、26日には朝廷より洛中からの追放令まで出されることになります。

天保9年(1838)に元服して昇殿を許されて24年、やっと登りつめてこれからは政治の表舞台で活躍しようかという矢先に谷底への転落という苦渋を味わうこととなったのでした。具視38歳。

この頃から、京都ではいわゆる「天誅」(てんちゅう)の嵐が吹きまくることとなります。公武合体派は後退し、それに反比例するかのように尊王攘夷派の進出が際立つに連れて京都の町の空気は一層険しいものとなっていくのでした。

具視は自分の命を狙おうとする尊王攘夷派、とりわけその強硬論者から逃れるために気の休まる暇もなく転々と居所を変え身を隠します。その中には洛西の西芳寺(さいほうじ)(苔寺(こけでら))もありました。そして辞官落飾を申し出て約2カ月後の10月8日、洛北の辺鄙な場所であったことから岩倉村に赴いて潜居の場所とすることになるのです。

蛇足ながら、具視の姓「岩倉」と「岩倉村」が同じ「岩倉」なのは偶然の一致で、当地は平安時代の文献には「石蔵」として現れているようですが、鎌倉時代以降より「岩倉」の表記で呼ばれています。

ここに、慶応3年(1867)11月8日に洛中帰住を許されるまでの5年間に亘る岩倉村での幽棲、しかしやがて迎えることとなる新しい時代に向けての具視の地下生活が始まることとなるのです。

ちなみに今日に伝わる「岩倉具視幽棲旧宅」は、具視が文久2年に岩倉村に幽棲してからの2つ目のもので、2年後の元治元年(1864)に大工の居宅を購入して移り住んだものです。手狭でもありまたそれなりの格式を保つためにも、大工の居宅であったものに母屋と繋屋を増築して住居としたものといいます。

ところが、やっと岩倉村に落ち着けたかと思いきや、尊王攘夷派の激徒浪士が幽居付近に現れるようにもなったといいます。そこで村民は具視の身を按じて身辺に注意するように密かに協力の手を差し伸べます。ある時は具視の邸の玄関にあらわれるといったこともありました。そのため具視は隣村の花園村の農夫の家にかくまってもらうようにもなり、難を避けるために岩倉村と花園村との間を往来したといいます。

具視が岩倉村にあった最中の慶応2年12月、孝明天皇が世を去っています。孝明天皇を失った具視は、悲歎のあまり一時は樵(きこり)になろうとまで考えたこともあったようです。が、思いとどまって、江戸幕府に代る王政復古の新政を目指す体制構想を構築すべく、重要な時期を岩倉村で過ごすことになります。

ところで、具視が岩倉村に幽棲してのち時が経つにつれて次第にさまざまな人が訪れてくるようになります。中でも5年目の慶応3年4月になると珍しい人物が具視のもとに訪ねてきます。中岡慎太郎(なかおかしんたろう)です。中岡慎太郎は当初「岩倉具視は佐幕の大姦ではないか」と相手にしていなかったようですが、同じ土佐藩出身の志士大橋慎(おおはししん。名ははじめ橋本鉄猪(てつい)。通称は慎三。)に同行して岩倉村を訪れ具視を紹介されます。実際に具視に会ってみると中岡慎太郎は具視の器識の大なるに感服したといいい、翌月の5月にも具視を訪ねています。またその翌月の6月25日には、今度は中岡慎太郎が坂本龍馬(さかもとりょうま)を伴って具視を訪ねてきています。このときの具視の日記には「内々出会種々内話の事」と記されています。

洛中帰住

文久2年9月に洛中を追放されてから丸5年経った慶応3年11月8日、ついに具視は洛中帰住を許されます。その一月後の12月9日、朝臣に復し参与となって復帰した具視は、孝明天皇の崩御を受け皇位を継承した天皇(明治天皇)臨御の下、大久保利通(としみち)、西郷隆盛(たかもり)、木戸孝允(たかよし)らとともに京都御所の御学問所(おがくもんじょ)において摂政・関白・江戸幕府など旧制度を廃止し、天皇を中心に総裁・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職を設置して政治を行う、などとして新政権の樹立と天皇親政を宣言した「王政復古の大号令」を発します。さらに、同日9日の夜、さっそく新設の三職を、御学問所とは渡り廊下を隔てて隣同士にある小御所(こごしょ)へ召集し、天皇(明治天皇)臨席のもと徳川家の処分をめぐって激論が展開されたことで知られる「小御所会議」が開かれます。

このこと一つにも見られるように、具視は岩倉村で育んだ新体制構想を実らせて、まさに時代の梶取りの大きな一翼を担ったのでした。

さて、「明治」と時代が変わってからも、具視は京都に来た時はこの岩倉の地を訪れたといいます。そして、かつて幽棲中の自分を尊攘派激徒ら刺客から守ってくれた岩倉村住民に対して感謝の意を込めて飲食をふるまったといいます。

具視は明治16年(1883)に世を去ります。具視が岩倉村で過ごした時の2番目の土地・建物の一切が大正3年(1914)に岩倉村に寄贈されます。

その後保存会の管理を経て、今日国指定史跡「岩倉具視幽棲旧宅」として京都市の管理するところとなって受け継がれています。

写真集写真集(37枚の写真が表示されます。)
写真 
道標
「左岩倉公幽棲地」の文字が刻まれた道標がたっています。ここを左に折れて、最初の角をもう一度左に折れると幽棲旧宅に着きます。
写真右端には実相院の四脚門が見えます。

【敷地図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 表門
  2. 通用門
  3. 対岳文庫
  4. 附属屋
  5. 繋屋
  6. 主屋
  7. 中門
  8. 南庭
  9. 遺髪碑
  10. 岩倉公園(※1)
  11. 京都バス停車場(※1)
  12. 実相院(※1)
  13. 大雲寺(※1)
※1.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【敷地図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 18:36 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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