
十牛(じゅうぎゅう)の庭
書院より。
徳川家康(とくがわいえやす)の命で、当初京都・伏見に建てられた圓光寺(えんこうじ)。そこでは書物の出版も行われました。その時に使用されたという、今日では現存するわが国最古のものとされる木製の活字(木活字)が保存されています。
一方、書院の南側には、「十牛図」を題材にして江戸時代初期に造られた「十牛の庭」と呼ばれる池泉回遊式庭園があります。
十牛図は中国に端を発し、朝鮮を経て日本に渡来した仏教思想の一つで、十牛禅図ともいわれるように禅(日本では臨済宗)の指導書です。「悟り」を牛にたとえ、これを童子が求め捉える過程を牛を主題とした十枚の円い画面(円の中に描かれた絵。四角い画面もあります。)を使って絵解きの形式で表したものとなっています。この十牛図は、日本では、周文(しゅうぶん)、雪舟(せっしゅう)、狩野元信(かのうもとのぶ)、円山応挙(まるやまおうきょ)、与謝蕪村(よさぶそん)といった水墨画の名人や、明治期の富岡鉄斎(とみおかてっさい)らが作品として残していることでも知られています。
十牛の庭にはいろは紅葉(もみじ)の疎林が広がり、紅葉の隠れ名所ともなっています。
学問御好き・・・
徳川家康の侍医を務めた2代目板坂卜斎(いたざかぼくさい)が、家康の軍陣、旅行、鷹狩りなどに随行し、見聞したことを集録した書として『慶長年中記』(けいちょうねんちゅうき)というのがあります。この書は『板坂卜斎覚書』、『慶長年中卜斎記』などとも呼ばれているものです。
その中に、次のような一節があります。
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学問御好き、殊の外(ほか)文字御鍛練と心得、不案内にて詩歌の会の儀式ありと承り候(そうろう)。根本、詩作・歌・連歌などは御嫌ひにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜(りくとう)・三略・貞観政要。和本は、延喜式・東鑑(※)なり。其の外色々。大明にては、高祖、寛仁大度を御誉め、唐太宗・魏徴を御誉め、張良・韓信・太公望・文王・武王・周公、且(かつ)日本にては頼朝を、常々御咄(はなし)なされ候
※あず[づ]まかがみ。『吾妻鏡』とも記載。
これは、家康の学問愛好について記した内容として知られているものです。
学問好きだった家康は、準備なしに詩歌の会に臨むほどの文学的教養はあったようですが、もともと詩文や和歌・連歌は嫌いで、それよりも論語・中庸といった儒学や歴史・兵学に関する漢籍、和書では『東鑑』などを愛読し、歴史上のすぐれた政治家の人物について常々論評することを好んだ、といいます。
ちなみに家康が『東鑑(吾妻鏡)』を愛読書の一つとしていたのは、鎌倉幕府を創設し、自己の模範にしようとしていた源頼朝(みなもとのよりとも)の言行が記録されていることによるものと見られます。
学問の公開・普及
上記のように、家康は学問を愛好したことから身辺に好んで学者を置きます。ただそれは自己の教養、ないしは学問的知識を実際の政治に利用するためです。学問や思想についての「教育」により、社会の秩序を維持しようといった考えは無かったようです。そのため、教育に重点を置いた政策という意味での文教政策は、家康は持ち合わせていなかったようです。
しかし、家康は為政者としての教養を重んじたことと並んで、学問の公開・普及を図ったということはその功績として挙げられます。
慶長8年(1603)ごろ、林羅山(はやしらざん)は京都の市中で公開の講席を開き、『論語』などを講読します。すると代々これまで学問を家ごとの秘伝として、一般に公開することを禁じてきた公家たちの反感を招きます。その結果公家から、学問を公開することは伝統的な国法にふれる行為であるとして家康に訴えが起こります。しかし家康はこの訴えに対して笑ってとりあわなかったといいます。林羅山が儒学者として社会的に活動する道はここから開けることになります。
さらに家康は、『禁中並公家諸法度』や諸寺院に対する法度などを制定するにあたって、側近の学者たちに古代以来の制度を調査させます。そのために公家の家々に秘蔵されていた典籍などを提出するように命じます。これによってこれまで見ることのできなかった書籍の多くが世間に流布するようになったのです。
さて、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))の戦後処理を終わらせた家康は、翌慶長6年(1601)3月23日、大坂城・西の丸を出て伏見城に移り政務を執ります。そして同年、家康は伏見城の近くの伏見指月(しげつ)(現在の京都市伏見区桃山町泰長老(ももやまちょうたいちょうろう)あたり)に寺を建て、漢学を教授する学問所として開設します。この寺というのが圓光寺です。ここには僧侶ばかりではなく一般の人も入学を許されたこともあって賑わいをみせたといいます。俗に洛陽学校とも呼ばれていたようです。
圓光寺の開山兼校長として家康が招いたのは、下野(しもつけ)(栃木県)足利学校の第9代庠主(しょうしゅ)(校長)を経たのち南禅寺の住持も務めた臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧・閑室元佶(かんしつげんきつ)(号三要(さんよう))でした。
好学の家康はこの時木活字10万個を寄せたといい、これにより閑室元佶は和漢の典籍の出版にあたることになります。『孔子家語(こうしけご)』『三略(さんりゃく)』『六韜(りくとう)』など儒学や兵法の書籍を出版したのをはじめとして、そののち『貞観政要(じょうがんせいよう)』『吾妻鏡』『周易(しゅうえき)』などが出版されます。これらは伏見版あるいは圓光寺版と称されるものです。
今日の圓光寺には、その時に使用された伏見版木活字52,320個(重文)が日本最古の活字として残されています。
家康は、最晩年の元和(げんな)2年(1616)(家康は同年4月17日没)にも『群書治要(ぐんしょちよう)』50巻の刊行という大きな事業を林羅山と金地院崇伝(こんちいんすうでん)の二人に命じ、古書の出版事業の推進に寄与したことは知られているところです。
洛北、一乗寺へ
当初伏見に建てられた圓光寺は、創建から2年後の慶長8年(1603)に相国寺境内に移されます。元和6年(1620)2月末には上京(かみぎょう)大火と呼ばれる火災が発生、翌3月末まで続いたという火災は2000軒を消失したとされ、この火災は相国寺まで及んだといいます。これによって圓光寺は焼失するも再興されますが、寛文(かんぶん)7年(1667)、現在地に幕府から寺地を下賜されて堂舎を営み、移転することになります。
圓光寺が現在地に移転してきたほぼ同時期には、京都洛北の高野川(たかのがわ)沿いに詩仙堂(1641年創建)、曼殊院(1656年移転)、修学院離宮(1659年造営)、蓮華寺(1662年再興)などの創建・再建が相次いで行われています。
貞享(じょうきょう)元年(1684)には圓光寺は幕府直轄の独立寺院から南禅寺の末寺となっています。
荒廃を乗り越えて
明治初期には無住で荒廃していたようです。そのため、本山の南禅寺では廃毀の検討も行われていました。が、予てより臨済宗に尼僧道場がないことを嘆いていた尼禅師の南嶺尼(なんれいに)が尼僧道場としての使用願いを出します。これが許可されたことで、南嶺尼が明治39年(1906)に圓光寺の住持となったことを機に、以後約一世紀に亘って圓光寺は臨済宗唯一の尼僧修業道場としての道を歩むことになります。
現在は尼僧修行道場としての役割を終え、南禅寺派研修道場として座禅会などが実施されています。
写真集(44枚の写真が表示されます。)
秋も深まり、山門前の色づいた楓(写真右)の葉も随分と散ってきたようです。
山門前には道が南北に通っており(写真手前)、南方面(写真右)へ行くとすぐ近くに詩仙堂があります。一方、北方面(写真左)へ向かう道に沿ってしばらく行くと曼殊院へと辿り着きます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市左京区一乗寺小谷町13番地 |
| 山号 | 瑞巌山 |
| 宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
| 本尊 | 千手観世音菩薩坐像 |
| 創建年 | 慶長6年(1601) |
| 開基 | 徳川家康 |
| 開山 | 閑室元桔 |
| 文化財 |
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- ※
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- 山門
- 奔龍庭
- 瑞雲閣
- 中門
- 書院
- 蟠龍窟(坐禅堂)
- 十牛の庭
- 栖龍池
- 応挙竹林
- 鐘楼
- 東照宮
- 詩仙堂
- 八大神社
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