誠心院

歌碑と軒端の梅
歌碑と軒端の梅
本堂前の和泉式部の歌碑。また、傍らには、和泉式部が生前愛木したという「軒端(のきば)の梅」に因んで、後世に植えられた紅梅・白梅の二本の梅の木があります。

京都市内を南北に走るメインストリートの一つである河原町通(かわらまちどおり)と寺町通(てらまちどおり)に挟まれるように並行し、北は三条通(さんじょうどおり)から南は四条通(しじょうどおり)まで、約700メートルほどの比較的短い通りの新京極通(しんきょうごくどおり)。通りは、土産物店や飲食店、複合映画館をはじめとした娯楽施設などの他、ファッション洋品店など若者向けの店舗が目立つ京都有数の繁華街の一つで、年間数百万人の往来を数えるという、人通りの絶えない賑やかな通りです。

そんな賑やかな新京極通に面して不調和といえるほどに一つの山門が目に入ります。ここは平安時代中期の優れた女流歌人として知られる和泉式部(いずみしきぶ)が初代住職を務めたという誠心院(じょうしんいん。今日では「せいしんいん」との呼び名に変わっています。)です。

和泉式部の生没年は不詳(978年?〜?)とされ、彼女の生存を伝える最後の記録は万寿(まんじゅ)4年(1027)9月で、当時推定年齢50歳とみられています。そしてそれ以後の消息は知られていませんが、誠心院は和泉式部が50歳頃以降に入ったとみられる寺院です。

山門をくぐった左手には真っ赤な幟がはためき、境内には通りの賑やかさとはうって変わって静けさが漂っています。

恋多き女性

和泉式部は19歳と思われる長徳(ちょうとく)2年(996)のころ、10歳余り年長の橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻となります。そしてその翌年(997)頃、二人の間には、母和泉式部の才を受け継いだのか、後に若くして歌人として名を知られる小式部内侍(こしきぶのないし)と呼ばれる娘が生まれます。

長保(ちょうほう)元年(999)、橘道貞は和泉式部の父の推挙により和泉守(いずみのかみ)に任じられることになります。

「和泉式部」という女房名は、夫が「和泉守」で、父が文章生(もんじょうのしょう)出身の「式部丞」(しきぶのじょう)ほどであったことからきています。そして娘の「小式部」は、母和泉式部と区別するために付けられた女房名です。

さて、長保3年(1001)、24歳ほどの和泉式部は、ほぼ同年齢の冷泉(れいぜい)天皇第三皇子為尊(ためたか)親王の求愛をうけ恋愛に陥ります。しかし為尊親王は、翌長保4年(1002)に26歳という若さで亡くなります。

これは、和泉式部の夫、橘道貞が和泉守在任中の2年目か3年目のころのことです。

そして為尊親王の一周忌も近い翌年の春のころ、今度は為尊親王より4歳年少の弟、敦道(あつみち)親王から求愛されます。和泉式部は敦道親王より3歳ほど年上。この敦道親王との恋愛の経緯を140余首の歌を中心にして歌物語風につづったものとして知られているのが『和泉式部日記』です。敦道親王は賀茂祭(かものまつり)見物に和泉式部と同車して出かけ、衆目を集めるというようなこともあったようです。しかし、敦道親王との関係では和泉式部は世間の非難を浴びることになります。そして敦道親王から求愛されて4年経った寛弘(かんこう)4年(1007)、敦道親王も27歳にして亡くなっています。

こうした相次ぐ恋愛事件によって和泉式部と橘道貞の夫婦関係は当然のことながら破綻することとなり、敦道親王との恋愛中に離婚したようです。また和泉式部は父からも勘当を受ける身の上となったのでした。

このようなことから、和泉式部は恋多き女性として知られていたようです。

そのような中、寛弘(かんこう)6年(1009)の賀茂祭のころ、藤原道長(ふじわらのみちなが)の召しにより、和泉式部は娘の小式部内侍とともに、藤原道長の長女で一条天皇の中宮(ちゅうぐう。天皇の妻の呼称の一つ。)・彰子(しょうし)に女房として出仕を始めます。

藤原道長は、『小右記』(しょうゆうき/おうき)に「一家立三后、未曾有なり」(一家に三后が立つ、前代未聞の事)と記されているように、長女の彰子をはじめとしてその娘を次々と后(きさき。天皇の正妻。)に立て、天皇の外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任して権勢を振るい、栄華を極めたことで知られる人です。更には即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」(この世は自分(道長)のためにあるようなものだ。望月(満月)のように何も足りないものはない。)を詠んだことでも知られています。

和泉式部の夫、橘道貞はこの藤原道長に重用された人でもありました。

中宮彰子の周辺には紫式部(むらさきしきぶ)、赤染衛門(あかぞめえもん)らがすでに仕えていて、宮廷サロンを築くことになります。

紫式部の「貞淑」、赤染衛門の「謙譲」、そして一条天皇の中宮定子(ていし)に私的な女房として仕えた清少納言(せいしょうなごん)の「機知」といった評価がみられますが、和泉式部はさしずめ「情愛」といったところでしょうか。

紫式部がその日記『紫式部日記』において、和泉式部を評して次のように記しています。

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きか(交)はしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文(ふみ)はしり書きたるに、そのかたの才(ざえ)ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌詠(よ)みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠みそへはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。

和泉式部という人は実に趣深い手紙のやりとりをしたものです。しかし和泉には倫理的に感心しない点(奔放ともいえる恋愛遍歴を指したものと思われます)があるにせよ、気楽に手紙をすらすらと書いた時などはその方面の才能がある人で、ちょっとした何気ない言葉にも光彩や耀きといったものが見えるようです。彼女が詠んだ和歌はとても趣があります。しかし、古歌についての知識や、和歌に関する理論といったことからすると、本格的な歌人といった感じではないようですが、口に任せて詠んだ歌などに、必ず趣のある一点が、目に留まるものとして詠み添えてあります。それほどの歌人でさえ、他人の詠んだ歌を、非難したり批評したりするのは、さあ、それほど和歌に精通しているとはいえないようです。口をついて自然に歌が詠み出されるタイプの人らしい、と思われます。こちらが引け目を感じるほどの優れた歌人とは思えません。

紫式部が直接和泉式部との会話の中から感じ取ったのか、あるいは他の人達が和泉式部のことについて話しているのを聞いたりしたことを踏まえてのことかは分かりませんが、一方で誉めながらも、何とも手厳しい評価です。

一方、先の藤原道長はというと、和泉式部の扇をある公達(きんだち)が手にしていたのを見るとそれを取って「浮かれ女(め)の扇」といたずら書きをしてからかったこともあったようですが、和泉式部は恋の哀歓を直截に詠んだ情熱的な女流歌人として高い評価を受けていることは広く知られているところです。

娘に先立たれ

寛弘7年(1010)頃、33歳ほどの式部は、主人である彰子の父・藤原道長の家司(けいし)をつとめ武勇をもって知られた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚します。藤原保昌は、式部より20歳ほど年上の人だったようです。

治安(じあん)3年(1023)に夫・藤原保昌が丹後守となると、夫の任国となった丹後に下りますが、ほどなく京の都に戻っています。藤原保昌との結婚生活は和泉式部にとってさほど満ち足りたものではなかったようです。

そんな中、万寿2年(1025)の11月、娘の小式部内侍が29歳ほどの若さで母より先に世を去ってしまいます。この時和泉式部、48歳ほど。

和泉式部は悲しみに沈みます。

ところで、和泉式部が仕えていた彰子は翌年の万寿3年(1026)1月に落飾し、上東門院(じょうとうもんいん)と号することになります。これは父・藤原道長が没する前年に当たります。

現在の京都御苑の東、即ち、寺町(てらまち)より東、鴨川西岸、荒神口(こうじんぐち)より北と推定される地に、藤原道長が建立した大寺である法成寺(ほうじょうじ)がありました。藤原道長亡き後の長元(ちょうげん)3年(1030)、上東門院彰子は法成寺東北の一郭に東北院(とうほくいん)を建てていますが、その傍らに東北寺誠心院(じょうしんいん)と号する寺を建立します(寺伝では万寿4年(1027)建立)。上東門院彰子は、父・藤原道長存命の折り、その建立を勧めていたようです。そしてこの東北寺誠心院を和泉式部に与えたのでした。本尊は上東門院彰子からの賜仏と伝わります。

これが誠心院の始まりとなります。

初代の住職は和泉式部で、その法名は誠心院専意法尼。「誠心院」という寺名は、和泉式部の法名に由来するといいます。

平安京条坊復元図と法成寺推定範囲
平安京条坊復元図と法成寺推定範囲
写真に見える東京極大路の西(左)側が藤原道長の自邸「土御門殿」(つちみかどどの)で、現在の京都御苑の東側の部分にありました。
一方、東京極大路の東(右)側が法成寺が建てられていたと見られる区域で、その規模は東西2町(218.18メートル)・南北3町(327.27メートル)で現在の河原町通の東側にまで及び、伽藍は豪壮を極めたといいます。
写真は現地案内板より。

鎌倉期には、現在の京都御苑を挟んだ西側の小川通一条上ル誓願寺(せいがんじ)(現在の上京区元誓願寺通小川西入ル)の南に移転しました。この頃に 泉涌寺(せんにゅうじ)の末に成ったようです。

その後、天正(てんしょう)年間(1573〜92)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った京都の都市改造に伴い、誓願寺(現在、誠心院の約80メートル北)とともに、現所在地に移転されることになります。

江戸時代中頃の天明(てんめい)6年(1786)の再板本『都名所図会』(みやこめいしょずえ)には次のような記載が見られます。

誠心院(じやうしんゐん)は西光寺の北に隣る。俗に和泉式部(寺)といふ。古(いにしえ)は小川一条の北にあり。御堂関白道長公の草創にして、和泉式部もこの寺に入りて尼となりて住みしなり。本尊は阿弥陀仏、脇壇には関白道長公の影を安置す。和泉式部の塔、軒端の梅あり。

写真集写真集(10枚の写真が表示されます。)
写真 
新京極通
時間の経過と共に人通りが次第に増え、賑やかな通りとなります。
≪関連情報≫
項目 内容
別称 和泉式部寺
所在地 京都市中京区新京極通六角下る中筋町487
山号 華嶽山(かがくざん)
宗派 真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派
本尊 阿弥陀如来
創建年 長元(ちょうげん)3年(1030)頃(寺伝では万寿4年(1027))
開基 藤原道長
開山 専意(和泉式部)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 鈴成り輪(すずなりくるま)
  3. 本堂(小御堂)
  4. 軒端の梅・歌碑
  5. 宝篋印塔(和泉式部の墓)※
  6. 二十五菩薩像※
  7. 山口家一族の墓所※
  8. 新京極通
  9. 寺町通
  10. 誓願寺
  11. 妙心寺・蛸薬師堂
航空写真は古いもので、新しくはマーカーで記した位置となっています。

図の操作について

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近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 18:31 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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