将軍塚青龍殿

将軍塚と青龍殿
将軍塚と青龍殿
手前の円形の塚が直径約20メートル、周囲約64メートル、高さ約2メートルの将軍塚です。中央には石柱が立てられています。
一方、右側に見えるのが新たに建てられた青龍殿です。入り口は右に見える参道沿いにあり、木造で幅約26メートル、奥行き約20メートル、高さ約14.5メートルといいます。更に青龍殿の左手に、大舞台が僅かに白っぽく見えています。この大舞台からはまさに京都市街地と市街地を取り巻く周囲の山々が一望できます。夏は暑く、冬は寒いといわれる京都盆地の地形を東・北・西に亘ってはっきりと望むことができる観光スポットといえます。
青龍殿の背後に見えるのは東山(ひがしやま)如意ヶ嶽(にょいがたけ)の西方1キロメートル程に位置する支峰で、五山送り火で知られる大文字山です。そして更に大文字山の左手背後に見える、頂が窪んだ山は比叡山です。
西展望台より。

平安京遷都にあたり、桓武(かんむ)天皇が王城鎮護のために大きな将軍の人形を造らせて埋めた塚、将軍塚(しょうぐんづか)。国家に大事ある時には必ず鳴動したとの伝説が伝わります。

ここは京都市山科区(やましなく)の東山(ひがしやま)山頂にある青蓮院(しょうれんいん)の飛び地境内で、大日如来を祀る大日堂(だいにちどう)があることから「将軍塚大日堂」として知られています。

そして、この飛び地境内に新たに大舞台を備えたお堂が建てられました。青龍殿(せいりゅうでん)です。2014年10月4日に落慶式が開かれ、10月8日から一般公開されています。

大舞台からの京都市街の展望は秀逸で、また庭園も大幅に改造され、「将軍塚青龍殿」として新たな出発です。

和気清麻呂〜長岡京遷都〜

平城京では大和国(やまとのくに)(奈良県)に都が設置されてからおよそ70年の間に、僧侶・寺院の勢力が強まり、政治への関与までもが激しくなっていたために、もはや正常な政治が行われるのには難しい状況となっていました。

そのような仏教偏重の政治を刷新することに意欲的だった光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)でしたが、既に老衰だったこともあり、皇太子の山部親王(やまべのしんのう)に譲位します。天応(てんおう)元年(781)4月、山部親王は即位して桓武天皇となります。この年は辛酉(かのととり、しんゆう)の「年」にあたっていて、陰陽道に言う革命の年でもありました。桓武天皇は光仁天皇の意を引き継ぎ、寺院勢力を排除して人心を一新し、新たに政治体制を建て直そうとします。

この時、桓武天皇の側近の一人として一躍抜擢されたのが大変まじめで模範的な役人としての評価を得ていた和気清麻呂(わけのきよまろ)です。桓武天皇の母、高野新笠(たかののにいがさ)に、2人だけの姉弟(きょうだい)であった清麻呂の姉広虫(ひろむし)が仕えていたこと、また、先の神護景雲(じんごけいうん)3年(769)、当時伊勢の皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮(ないくう))と並び皇室の絶大な崇敬の的であった宇佐八幡宮(在・現大分県宇佐市)より女帝・称徳(しょうとく)天皇(孝謙(こうけん)天皇が重祚(ちょうそ))に対して「道鏡(どうきょう)を皇位に就けよ」との託宣を受け、道鏡が天皇位を得ようとしたとして紛糾が起こった宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)(道鏡事件とも)などを通して、桓武天皇は清麻呂のことを知っていました。この事件で清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と名を改められて大隅国(おおすみのくに。現在の鹿児島県。)に流されていましたが、称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位すると召喚されて本姓本位に復され、その後桓武天皇の即位によって急速に登用されるようになったのでした。

宇佐八幡宮神託事件で見せた、左右大臣の上位に位置する太政大臣(だいじょうだいじん)よりさらに強力な地位、即ち天皇と同じに遇せられる法皇という地位にあった道鏡という権力者に楯突いてまでも、恐らくは死刑になることも覚悟の上で己の職務に忠実に取り組んだ清麻呂の役人としての姿勢が、桓武天皇に高く評価されたのかもしれません。

さて、平城京からの訣別を桓武天皇が願っていることを察した清麻呂は「遷都」をほのめかします。これを聞いた桓武天皇は時期を得たりとばかりに遷都を決意し、深く信頼を置いていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)にそのことを相談します。こうして桓武天皇が藤原種継から遷都の先として提唱されたのが、平城京より遠く離れてほぼ北に位置する山背国(やましろのくに)(京都府南部)乙訓郡(おとくにのこおり)長岡の地でした。

遷都図
遷都図

延暦(えんりゃく)3年(784)6月、長岡への遷都ならびに藤原種継、藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)らを造長岡宮使に任命する詔が発せられ、工事は、藤原種継の地縁血縁から摂津・山背(やましろ)の秦氏(はたうじ)の協力も得て、ただちに実行されることになります。秦氏は、土木工事では高度な技術を持っていたことによります。

この長岡遷都の決定は清麻呂も納得のいくものであったようですが、ただ「水利」に関することが気にかかっていたようです。例えば、長岡京内には河川が少なく、そのため下水はどうやって流すのか、というようなことです。これがしっかりしていないと、これまでも度々悩まされてきている疫病を流行らせてしまうことになってしまうからです。事実遷都後には、長雨が続いたとき長岡京にほど近いところにある巨椋池(おぐらいけ)(昭和8年(1933)〜昭和16年(1941)の干拓によって消滅)の洪水の心配、他国と通じる利便性のある道がないことなど種々の問題点が浮かび上がってきます。

が、長岡京遷都決定においては藤原種継の意見が強かったということもあり、清麻呂にとっては十分な検討ができないまま決まってしまったことは否めないようです。

和気清麻呂〜平安京遷都〜

長岡京遷都の工事が順調に進んでいた中で、延暦4年(785)9月23日の夜、松明を手に工事の進捗を見て回っていた藤原種継が遷都反対派に矢を射られて落命します。

その首謀者として、貴族・歌人で三十六歌仙の一人としても知られる大伴家持(おおとものやかもち)の名を筆頭に数十人の名が挙げられる中、ついには、桓武天皇の皇太弟(こうたいてい)(桓武天皇の同母弟で、次期天皇継承者)であった早良(さわら)親王の名前まで出て来たのです。加えて、清麻呂の長男広世(ひろよ)も関わっていたようです。捕らわれの身となった早良親王は冤罪だとして無実を訴えるため絶食していたことから、淡路国(あわじのくに)(兵庫県淡路島・沼島)に配流の途中、恨みを抱いたまま死去し、結局真相は判らずに終ってしまいます。(早良親王は藤原種継暗殺の謀議に積極的に加わりはしなかったとはいうものの、大伴氏らが謀議を凝らすのを黙認していたと見られています。)

尚、大伴家持は藤原種継暗殺の1ヶ月ほど前の延暦4年8月28日に没しており、追罰として埋葬を許されず、官籍からも除名されています。一方、清麻呂の長男広世は禁錮に処せられたことで済んでいます(これまでの清麻呂の功績に免じて減免されたのが大きいようです)。

そしてこの後桓武天皇の身辺に、夫人旅子(たびこ)、母高野新笠らが亡くなるといった親族の不幸、そして飢饉や疫病の発生などといった不吉な事が起こり出します。いわゆる「早良親王の怨霊の祟り」といわれるものです。桓武天皇は怨霊の祟りというものを前々から畏れていて、今回の不吉な出来事によりいよいよ身の危険を感じるようになります。

一方、なかなか進まない長岡京造都工事に加え、工事に動員される民の労力負担の限界も見え、加えて戦況が好転しない中で規模が膨らむばかりの蝦夷征討、その結果財政上の負担が大きくのしかかるという状況が続くことになります。

また、延暦11年(792)の6月と8月には、長岡の地では初めてという2度にわたる洪水も起こります。要因は建物の建造に資するための周辺の山での木の切り過ぎです。このため清麻呂は乙訓の村々に植林を命じています。

長岡京に遷都して9年後、造都工事も完了していない延暦12年(793)1月初め、清麻呂は長岡京の北東10キロメートルばかりのところに位置する山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどののこおりうたむら)の地への遷都を桓武天皇に密かに奏上します(これより先の延暦10年の時点において既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたとの見方もあります)。

これを受けた桓武天皇は、その月の15日には藤原小黒麻呂、紀古佐美(きのこさみ)、大僧都賢憬(けんけい)(賢m(けんきょう))らに命じて地勢を調査させます。そして、北に玄武(げんぶ)、南に朱雀(すざく)、東に青龍(せいりゅう)、西に白虎(びゃっこ)が配される「四神相応之地」(しじんそうおうのち)であることの報告を受けた桓武天皇は、翌2月、同地の賀茂神社に遷都の旨を告げます。早い決断です。桓武天皇は、怨霊の祟りに満ちていると感じていた長岡京から一刻も早く逃れたかったのかもしれません・・・。

将軍塚の由来

さらに桓武天皇は翌3月には見晴らしのきく東山山上へと行幸され、自ら現在の京都市山科区にある将軍塚から見渡し、四神相応の景を確かめ、都に相応しい地であることを納得したと言われています。

平安時代末期に成立した歴史書『日本紀略』(にほんきりゃく)の延暦13年(794)10月28日条には桓武天皇の言葉として

葛野大宮地者。山川。四方國百姓參出來事便之弖

(葛野の地は山や川が麗しく、四方の国の人々が集まって来るのには便利が良いところだ。)

が残されています。

同延暦12年、桓武天皇は藤原小黒麻呂を初代・造宮大夫(だいぶ。造宮使の長官。)に任じ早々に平安京遷都計画を推進させます。長岡京造都の時と同じくこの時も、秦氏が協力しています。

その後しばらくして、摂津大夫(せっつのだいぶ※1)兼民部大輔(みんぶのたいふ※2)などの任にあった清麻呂が造営長官を兼務する体制をとって藤原小黒麻呂の後を引き継いでいます(藤原小黒麻呂は翌年の延暦13年に病を得て、7月1日に世を去っています。清麻呂が引き継いだ時には既に藤原小黒麻呂の身体の具合は良くなかったのかもしれません)。

(※1)摂津大夫
畿内の要衝、難波(なにわ)を含む摂津国(せっつのくに)(延暦12年3月9日、摂津職(せっつしき)から摂津国に改組)を治める長官。
(※2)民部大輔
諸国の戸口・戸籍・山川・道路・租税・賦役などに関することを司った民部省の上次官。

延暦13年10月22日、遷都が行われます。この22日は辛酉(かのととり)の「日」にあたり、辛酉の「年」には大きな社会変革が起るという辛酉革命(しんゆうかくめい)の考えにあやかって選ばれたといいます。

そして桓武天皇は新しい都のできる国名を山背国から「山城国」(やましろのくに)と改め、新都を「平安京」と命名しました。「千年の都」の始まりです。

『日本紀略』延暦13年11月8日条

此國山河襟帯。自然作城。因斯形勝。可新號。宜山背国山城國。又子來之民。謳歌之輩。異口同辭。號曰平安京

(此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し(山河が周りを取り囲み)、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を制(さだ)める。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにする。また新京が出来たことを喜んで集まった人々(子来(しらい)の民)や、喜びの歌を歌う人々(輩(ともがら))が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする。)

延暦15年(796)7月には清麻呂を造宮大夫(長官)とする新体制を固めたことにより、新都の建設にいっそうの拍車がかかることになります。

清麻呂が造都において最もこだわったのは「水」だったといいます。長岡京遷都の時にも気になっていたものです。清麻呂は、これから造る平安京を万古不易の都とするために取り組むべき必要不可欠の要素と考えていたのです。そのためには、平安京を挟む一番東の鴨川と一番西の葛野川(桂川)をはじめ、この二つの川に挟まれて都の中をほぼ南北に流れる10本の川を管理することでした。それにより、例えば、下水対策を施すことで疫病の流行を抑える、というようなことを考えていたと思われます。

さて、桓武天皇は将軍の像を造らせ、東山の山上に塚を設けて埋めるよう命じたと伝えられています。これが、この地を「将軍塚」と呼ぶ由来です。

『平家物語』(へいけものがたり)の数多い異本の一つである軍記物語『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)(鎌倉時代後期以降に成立)には、将軍塚が造られたいきさつが次のように記されています。なお引用文は、江戸時代の水戸藩主で水戸黄門(みとこうもん)の別名称でも広く知られる徳川光圀(とくがわみつくに)が『大日本史』編纂に向けて史料を吟味する過程で生まれた一つである『参考源平盛衰記』によるものです。

遷都附將軍塚竝司天臺事

・・・

桓武天皇御宇延暦三年十月。山城國ニ遷サレテ。長岡宮ニ十年オハシマシケルカ。此京挾シトテ。同十二年正月。大納言藤原小黒丸參議左大辨紀古佐美大僧都賢m等ヲ遣シテ。當國ノ中葛野郡宇太村ヲ見セラル。

三人共ニ奏シテ申。此地ハ左龍右白虎前朱雀後玄武。一モ闕ス。四神想應ノ靈地ナリト。是ニ依テ愛宕郡ニオハシマス賀茂大明神ニ告申サレ。同十三年長岡京ヨリ此平安城ヘ遷給テ以來。都ヲ他所ヘ遷サレス。帝王三十二代星霜四百餘歳ナリ。昔ヨリ多ノ都アリケレ共。此京程ニ地景目出タク。王業久カルヘキ所ナシトテ遷サレタリ。末代マテモ此京ヲ他所ヘ遷サレヌ事ヤ有ヘキトテ。大臣公卿賢者才人諸道ノ博士等ヲ召集ラレテ僉議アリ。長久ナルヘキ樣トテ。土ニテ八尺ノ人形ヲ造リ。鐵ノ甲冑ヲ著セ。弓矢持セテ帝自土ノ人形ニ向祝申サセ給ケルハ。必此京ノ守護神トナリ給ヘ。若未來ニ此都ヲ他所ヘ移ス事アラハ。竪ク王城ヲ守リ其人ヲ罰セヨト宣命ヲ含ラレテ後。東山ノ峯ニ深一丈餘ノ穴ヲ堀テ。西向ニ立テ埋マレケリ。

將軍塚トテ今ニアリ。去ハ天下ニ事出來兵革興ントテハ。兼テ告知シムル習アリ。嵯峨天皇御宇大同五年ニ。他國へ遷サレントシ給シカハ。公卿僉議有テ諫奉リシ上。貴賤騒歎シカハ。サテコソ止給ケレ。・・・

遷都、附けたり将軍塚並びに司天台の事
・・・
桓武天皇の御代(みよ)、延暦3年(784)10月に山城国(やましろのくに)に都を遷されて、長岡宮に10年おいでになったが、この京は狭いということで、同12年(793)正月に、桓武天皇は大納言藤原小黒丸(ふじわらのおぐろまる)(藤原小黒麻呂(おぐろまろ))、参議左大弁紀古佐美(きのこさみ)、大僧都賢m(けんきょう)(一般には賢憬(けんけい)と称される)らを遣わして、当国の葛野郡宇太村を検分させた。
その結果、3人が揃って次のように奏した。
「この地は南に向いて、左(東)が青龍、右(西)が白虎、前(南)が朱雀、後(北)が玄武と、一つも欠けていない四神相応の霊地です。」
これを受けた桓武天皇は葛野郡に隣接する愛宕郡(おたぎのこおり)におわす賀茂大明神に告げ申され、延暦13年に長岡京よりこの平安城へ都を遷された。それ以来、都は他所へ遷されることなく、帝王32代、星霜400余歳に亘っている。昔より多くの都があったけれども、この京ほどに地景がめでたく、かつ幸運にもこれまでに王業(王として国を治めること)が行われなかった地ということもあり(そいう意味で新鮮さも手伝って)都を遷されたのであった。末代までもこの京が他所へ遷されることのないようにということで、大臣・公卿・賢者・才人は諸道の博士らを召し集められて僉議(せんぎ)した。桓武天皇は、平安の都が長久であるようにと、土で高さ8尺(約2.4メートル)の人形を造らせ、鉄の甲冑を着せ、弓矢(文献によっては「鉄の弓矢」)を持たせて、帝(みかど)自らが土の人形に向かって、次のような宣命(せんみょう)(和文の詔勅)を含められた。
「必ずこの京の守護神となり給(たま)え。もし未来にこの都を他所へ移すようなことが起こったならば、堅く王城を守り、その人を罰せよ。」
その後、東山の峯に深さ1丈(約3メートル)余りの穴を掘り、土人形を西向きに立てて埋められた。
これは将軍塚といって今に残っている。それゆえ天下に大きな事件が発生して、争いがおころうとすると、あらかじめ告げ知らせる習わしがあった。嵯峨(さが)天皇の御代、大同(だいどう)5年(810)に都を他国へ遷されようとなさったので、公卿による僉議が行われた。結果としては、嵯峨天皇を諌(いさ)め奉った。更には貴賎も騒ぎ嘆いたことから、嵯峨天皇は遷都をお止めになった。・・・)

こうして造られた「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したと伝えられます。『源平盛衰記』には次のような記事が載せられています(『参考源平盛衰記』より引用)。

將軍塚鳴動事

七月七日申刻ニ。南風俄ニ吹テ。碧天忽ニ曇リ。道ヲ行者夜歩ニ似タリケレハ。人皆クヤミヲナス處ニ。將軍塚鳴動スル事一時カ内ニ三度ナリ。五畿七道悉ク肝ヲツフシ。耳ヲ驚ス。後ニ聞エケルハ。初度ノ鳴動ハ。洛中九萬餘家ニ皆聞ヘ。第二度ノ鳴動ハ。大和。山城。近江。丹波。和泉。河内。摂津。難波浦マテ聞エケリ。第三度ノ鳴動ハ。六十六箇國ニ漏ルコトナク聞エケリ。昔ヨリ度々鳴動アリシカトモ。一時ニ三度是ソ始ナリケル。東ハ奥州ノ末。西ハ九箇國ノハテ迄モ聞エケルコソ不思議ナレ。・・・

将軍塚鳴動の事
平安時代末の治承(じしょう)3年(1179)7月7日申の刻(さるのこく)(午後4時頃)、南風が急に吹いてきて、それまでの青空がたちまち曇った。道行く人にとってはまるで夜にでも歩いているようなものだったので、外へ出ていた人たちが皆後悔していたところへ、将軍塚が2時間の間に3度鳴動した。五畿(※1)七道(※2)の人々は皆一様に肝をつぶし、耳を驚かせた。後で人々から聞いたところによると、最初の鳴動は洛中の9万余家の人たちが皆聞き、2度目は大和、山城、近江(滋賀県)、丹波(京都府、兵庫県)、和泉、河内、摂津、難波(なにわ)(大阪地方の古名)の浦まで聞こえたという。3度目の鳴動は66か国(即ち日本全国)にもれなく聞こえた。昔からたびたび将軍塚の鳴動はあったというが、2時間の間に鳴動が3度あったというのは、初めてのことである。
東は奥州の末から、西は九州の果てまでも、この鳴動が聞こえたというのはなんとも不思議なことである。・・・

(※1)五畿(ごき)
近畿地方五つの国。山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府、兵庫県)。
(※2)七道(しちどう)
東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道。

ちなみに、4ケ月後の治承3年11月には、平清盛が軍勢を率いて福原を発って上洛。京都を制圧し、後白河院を幽閉してクーデターを敢行した治承三年の政変が起こっています。

また、南北朝時代を舞台に約50年に亘る動乱の歴史を描いた軍記物語『太平記』にも将軍塚が激しく鳴動したことが記されており、その時のことが次のように伝えられています。

「将軍塚が激しく鳴動したのは貞和(じょうわ)5年(1349)2月26日(南北朝時代)のことである。不運がその翌日に起こった。
27日の正午、近くには清水寺がある清水坂で火事が発生した。ところが風もないのにその炎が清水寺へ飛び火した。すると瞬く間に、清水寺の楼門、本堂、舞台、阿弥陀堂など一棟残らず焼け落ちてしまった。その後も奇妙とも言える現象が発生したため、この分では天下は必ず穏かであるまいと人々が話し合った。」

それからおよそ半年後、足利尊氏(たかうじ)と弟の直義(ただよし)による二頭政治が行われていた室町幕府(南北朝期)草創期の貞和5年8月、室町幕府の権臣(けんしん)高師直(こうのもろなお)と足利直義の対立が原因で、南朝との関係もからんで全国的規模の争いとなる観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(1349年〜1352年)へと発展する事態が起きます。

青龍殿

北に丘陵(船岡山・北山(きたやま))、南にくぼ地(巨椋池)、東に流水(鴨川、また東山(ひがしやま)や吉田山(よしだやま))、西に大道(山陰道、また双ケ丘(ならびがおか)や西山(にしやま))が備わり、四神の存在に相応しい最良の地勢であったことから四神相応の地とされ、「都」としての立地条件に適しているとして造営された平安京。

四神とは、北方の守護神玄武、南方の守護神朱雀、東方の守護神青龍、西方の守護神白虎を指します。

青龍殿は東山に位置することから東方の守護神「青龍」を冠した名が付けられています。

青龍殿は、京都府警の柔剣道場として使われていた建物(「平安道場」)を譲り受けて移築した外陣(げじん)と、護摩壇を備えた新築の内陣、そしてわが国仏教絵画史の最高傑作に数えられる国宝「不動明王二童子像」(青不動、平安時代中期)の収蔵庫(新築鉄筋コンクリート造り)から成っています。

「平安道場」は、京都市上京区(北野天満宮前)にあったもので、大正天皇の即位を祝って大正3年(1914)に建てられたものです。戦前は旧大日本武徳会が、戦後は京都府警がそれぞれ武道場として使ってきましたが、老朽化に伴い、皇室とゆかりのある青蓮院門跡に無償譲渡されたといいます。

青龍殿の北側の山の斜面には、長さ約40メートルの木造大舞台(外部護摩壇)が設けられています。この大舞台は1046平方メートルの広さを誇り、清水寺の舞台の4.6倍、テニスコート4.7個分の広さといいます。

標高216メートルにたつ見晴らしの良い大舞台からは京都市街を一望でき、京都の新しい名所として期待されるところです。

写真集写真集(39枚の写真が表示されます。)
写真 
福徳門
静けさに包まれた山の頂きにひっそりとたたずんでいます。
写真右手に入っていくと駐車場があります。

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 福徳門
  2. 大日堂
  3. 青龍殿(2015年6月時点で、上記のマップは最新の表示にはなっていません。)
  4. 大舞台(2015年6月時点で、上記のマップは最新の表示にはなっていません。)
  5. 将軍塚
  6. 西展望台
  7. 庭園
  8. 知恩院大鐘楼(※1)
  9. 出入り口(※1)
  10. 青蓮院(※2)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 18:07 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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