鵜飼〜宇治川〜

宇治川の鵜飼
宇治川の鵜飼
闇夜のなか辺りを煌々と灯す篝火の下で、6本の手縄(てなわ)の先の6羽の鵜を使って魚を捕らせる鵜匠。真剣勝負にも似てピーンと張り詰めた空気が漂います。

世界遺産平等院の前を流れる宇治川で行われる鵜飼(うかい)。

日本情緒豊かな宇治の夏の風物詩となって親しまれている宇治川の鵜飼は、平安時代に行われていた伝統の漁法で、当時は盛んに行われていたといいます。

悠久の時を越えて今に伝わるその光景には見る人の目が一斉に注がれます。

鵜飼のこと

「鵜飼」というと「鵜を使って魚をとる漁のこと」と単純に思い浮かぶのですが、これには「飼」の意味が含まれておらず、妙に気になって広辞苑を調べてみました。

「鵜飼:夏、かがり火をたいて鮎(あゆ)などを寄せ、飼い馴らした鵜を使ってとる漁。」

これでモヤモヤが解消しました。

また「夏」とあるように、俳諧の季語を、季に従って分類整理した季寄せでは、鵜飼は古来夏の部に入れられています。高浜虚子(たかはまきょし)の『新歳時記』では、鵜飼は5月から7月にわたる季語としています。

因みに、平成27年(2015)の宇治川の鵜飼は6月14日(日)〜9月23日(水・祝)の期間で行われています。

ところで「ウ」というと日本にはウミウ(海鵜)、カワウ(川鵜)、ヒメウ(姫鵜)、チシマウガラス(千島鵜鴉)の4種が生息や繁殖で見られるといいます。

この中で鵜飼いに使われるのは捕獲され飼育されたウミウです。これはウミウが体が大きく丈夫で、しかもそのくちばしは鋭く、先が鉤状(こうじょう:鉤(かぎ)のように曲がった形)に曲がって魚を捕らえるのに適しているといったことがその要因のようです。

鵜飼では、鵜舟(うぶね)の舳(へさき)に篝火(かがりび)を吊るし、船上から鵜匠が鵜を使います。鵜は一羽ずつ手縄(てなわ)と呼ばれる縄で繋がれ、鵜匠は左手で手縄を握り、右手で手縄をさばきながら鵜を使います。手縄は鵜の首元に巻かれますが、その締め具合が重要だといいます。つまり、締め方がきついと鵜は呼吸ができにくくなって水に潜らなくなるといいます。反対に緩すぎると捕った魚を次々と飲みこんでしまい、肝心の漁としての機能が失われてしまうといいます。至極当然と思えることが非常に重要なこととなり、締め方一つにしても熟練した高度なものが要求されるところなのでしょうね。

ところで、鵜飼の季節は鮎の季節でもあり、鵜飼も鮎も季語としてはともに夏をあらわしますが、鵜飼の対照は鮎ばかりではなく、フナやコイ、その他一般の雑魚(ざこ)も飲み込みます。しかし、鵜が苦手とする魚もいるようです。ウナギです。鵜も容易に飲み込めないということがその理由のようです。そこで諸説あるウナギの語源の一つとして挙げられるのが、「鵜も飲み込むのに難儀する」といったところから「鵜も難儀」→「鵜難儀」→「ウナギ」となった、というのもあるようなのですが・・・。

歴史は古く

鵜飼いの歴史は古く、記紀(『古事記』(712年成立)『日本書紀』(720年成立))にも見られるようですが、史実としての鵜飼についての記述は、それよりも古い中国の史書『隋書』(ずいしょ)の開皇(かいこう。隋で使われた年号。)20年(600)の条にあるといいます。この年には第一回目の遣隋使の派遣が行われていて、この時に俀國(日本)の風俗についていろいろ尋ねられたようです。その時の記録が先の『隋書』にみられるもので、その第81巻、列伝第46は「東夷傳」と呼ばれ、その「俀國傳」の中に、変わった漁法として当時の日本の鵜飼に関することが記されているといいます。それによると、鵜の首に小さな環をつけ、水の中に潜らせて魚を捕り、日に100匹も捕る、といったことが記されているのだそうです。この記事は、遣隋使の話をもとに残されたもので、これが世界最古の鵜飼についての記録とされています。

余談ながら、この『隋書』「東夷傳俀國傳」は、日本初の女帝・推古(すいこ)天皇の治世のもと聖徳太子が推古天皇15年(607)、小野妹子(おののいもこ)を第二回目の遣隋使として派遣した際持たせた国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや、云々)と書き出されていたことを伝えることで知られるものです。

さて、古代国家の官僚組織の中で、鵜飼は宮廷直属のものであったようです。管理に当たっていたのは宮内省(くないしょう)といいます。ただ、当時それがどこで行われていたかは定かではなく、その一つには四国の高知県および徳島県を流れる吉野川流域があげられるとの見方もあります。

時が移って平安京遷都以後。

宮廷が管理する鵜飼の本拠地が、京都の葛野(かどの)川(桂川の古名)、埴川(はにかわ)(鴨川の上流の一つである、現在の高野川(たかのがわ)の平安時代の呼称)、宇治川、そして大内裏(だいだいり)の東南に接して造られた神泉苑(しんせんえん)の池などに置かれていたといいます。

そして鵜飼による漁は、昼間よりも夜に多く見られたようです。それは何よりも、日の落ちた暗がりの中で、篝火を頼りに行われる鵜飼の方が詩情が勝るというところにあるようです。

鵜飼が平安女性の心を捉えたありさまの一端が、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)に見えます。それは『蜻蛉日記』を著わした藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が、平安時代中頃の天録(てんろく)2年(971)7月、京を出て奈良の長谷寺(はせでら)に参詣した折り、その行き帰りに宇治に立ち寄った際、川岸から鵜飼を見物した時のことです。

先ず、長谷寺に向かう時の宇治での夜の鵜飼の様子を見た時の様子が次のように記されています。

困(こう)じにたるに、風は払(はら)ふやうに吹きて、頭(かしら)さへ痛きまであれば、風隠(かざがく)れ作りて見出(みい)だしたるに、暗くなりぬれば、鵜舟(うぶね)ども、篝火(かがりび)さしともしつつ、一川(ひとかは)さし行きたり。をかしく見ゆること限りなし。

(道中の疲れがたまっているところに、風が辺りを吹き飛ばすほどに強く吹き、その上頭まで痛くなるという有り様なので、風よけを作って外を見ていました。その内に辺りはすっかり暗くなり、いくつもの鵜舟が篝火を灯しながら、川一面に棹をさして進んでいるのでした。その光景は心を動かすことこの上ないものです。)

次に、京へと戻る時の鵜飼の様子は明るいうちから夜にかけて次のように記されています。

さる用意したりければ、鵜飼(うか)ひ、数を尽くして一川(ひとかは)浮きて騒ぐ。「いざ近くて見む」とて、岸づらに物(もの)立て、榻(しぢ)など取り持(も)て行きて、下(お)りたれば、足の下(した)に鵜飼ひちがふ。魚どもなど、まだ見ざりつることなれば、いとをかしう見ゆ。来(き)困(こう)じたる心地(ここち)なれど、夜(よ)の更(ふ)くるも知らず見入りてあれば、これかれ、「今は帰らせ給(たま)ひなむ。これよりほかに今は事(こと)なきを」など言へば、「さは」とて上(のぼ)りぬ。さても飽(あ)かず見やれば、例の夜(よ)一夜(ひとよ)ともしわたる。いささかまどろめば、舟端(ふなばた)をごほごほとうちたたく音に、われをしも驚かすらむやうにぞ醒(さ)むる。

明けて見れば、夜(よる)の鮎(あゆ)いと多かり。それより、さべき所々(ところどころ)に遣(や)り分(あ)かつめるも、あらまほしきわざなり。

日、よいほどにたけしかば、暗くぞ京に来着きたる。

(道綱の母一行が来るというので、宇治では用意がなされ、鵜飼いの舟が、数えきれないほど川一面に浮かんで慌ただしい様相を呈しています。道綱の母が「さあ、近くに寄って見物しましょう」と、川の岸に目隠しの幕などを立てて、榻(しじ。鷺足(さぎあし)の付いた台。)(あるいは敷物)などを持って行き、下りて行くと、すぐ足下で鵜飼いをしているたくさんの舟が行ったり来たりしています。生きて動いている魚なども、まだ見たことがなかったので、とてもおもしろく見えます。長い道中で疲れ切った気分でしたが、夜が更けるのも忘れてひたすら見ていると、侍女たちが「今はもうお帰りなさいませ。これ以外にもう特別見物するものはございませんから」などと言うので、道綱の母は「それでは」と言って、宿泊先の屋敷に入って行きました。とはいえ、そこに入ってからも、やっぱり飽きることなくながめていると、例によって一晩中、篝火を灯して鵜飼いを続けています。いつしか、少しうとうととまどろんでいたところ、舟端をごとごとと叩く音が、まるで私を驚かせて起こすように聞こえて、目が醒めました。

夜が明けてから見ると、昨夜とれた鮎がたくさんあるではありませんか。ここから、京にいるしかるべき人々にそれぞれ分けて送るのも、この場に相応しいお土産となります。

日がかなり高くなってから宇治を出発したので、京に帰り着いた頃には暗くなっていました。)

このように『蜻蛉日記』では、宇治川を埋め尽くすほどの鵜舟が出て、それぞれに篝火を焚き、舟べりをたたいて、夜通し鮎を捕りつづける漁の様子が綴られています。当時は、鵜飼は宇治川の風物詩ともなって、盛んに行われていたことが伺えます。

しかし、平安貴族の衰微に伴い平安時代も後期へと時が進むに連れて、宇治川の鵜飼も次第に衰退していったようです。

現在の宇治川の鵜飼は、大正15年(1926)に地元の観光業者によって再興されたといいます。それが受け継がれて今日では宇治の夏の日本情緒豊かな風物詩となって親しまれています。

写真集写真集(31枚の写真が表示されます。)
写真 
塔の島
写真正面に見えるのは塔の島と呼ばれ、宇治川に浮かぶ中洲を構成する島の一つとなっています。この島は、その宇治川を挟んでここからもほど近い平等院の南東に位置しています。
そしてここに「宇治川の鵜飼」の主役である鵜の小屋があります。写真の中央に見えるのがそれです。羨ましいほど良い環境のところに住んでいます!?・・・。
島へ渡るルートはいくつかありますが、その一つ、写真右端に見える朱塗りの橋、喜撰橋(きせんばし)から渡ります。

【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 宇治川
  2. 宇治橋
  3. 紫式部像
  4. 平等院表参道
  5. 平等院
  6. 橘橋
  7. 橘島
  8. 宇治川先陣の碑
  9. 宇治川しだれ桜
  10. 中島橋
  11. 塔の島
  12. 浮島十三重塔
  13. 喜撰橋
  14. 朝霧橋
  15. 源氏物語宇治十帖モニュメント
  16. 宇治神社参道入り口
  17. 宇治神社
  18. 宇治上神社
  19. 源氏物語ミュージアム
  20. 京阪電車宇治駅
  21. 鵜飼乗船場
  22. 鵜小屋
  23. 鵜飼実演場

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図の左上にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【近隣観光マップ】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 21:44 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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