松尾大社

松尾大社
松尾大社
何人(なんぴと)も立ち入らせまいとする樹木生い茂る松尾山(まつのおやま)を背に社殿が厳かに建ち並びます。

平安京の四条大路(しじょうおおじ)にあたる京都市の主要な東西の通りの一つである四条通の東端に位置する八坂神社に対して、西端に位置する松尾大社(まつのおたいしゃ)。創建以来1300年を超える歴史を有する京都最古の社(やしろ)の一つです。

洛西(らくさい)の総氏神(そううじがみ)として、また醸造祖神を奉斎する社として、信仰を集めています。

そして、松尾大社には、昭和を代表する作庭家、重森三玲(しげもりみれい)の絶作となった「松風苑」(しょうふうえん)があります。

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松尾祭〜神幸祭〜

「の」付き

松尾大社の最寄りの駅「松尾大社」、最寄りのバス停「松尾大社前」、それに松尾大社前の桂川に架かる松尾橋のネームプレート、等々「松尾」は今日では一般には「まつお」と呼ばれています。が、記事の冒頭に記載の通り、松尾大社の読みは「まつのおたいしゃ」と、「の」が付けられます。これには次のような事情があるのです。

平安時代中頃、清少納言(せいしょうなごん)はその著『枕草子』の「神は」の段で

神は、松尾。八幡(やはた)。・・・

と書いています。(八幡は山城国綴喜郡の岩清水八幡を指します。)

また、一条天皇の松尾行幸の折り、清少納言と同年代の源兼澄(みなもとのかねずみ)が同行して

ちはやふる松尾(を)山(やま)の陰(かげ)みればけふそちとせのはしめなりける

(松の尾山の姿を見れば、行幸のあった今日こそがこれから千年も続く帝の御世の始まりですよ)

(『後拾遺和歌集』巻二十神祇(じんぎ)六)

と詠っています。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての遁世者にして歌人・随筆家、兼好法師(けんこうほうし)が藤大納言(二条為世(にじょうためよ))に誘われて松尾付近へ花見に出かけたおりに詠んだ歌にも、

藤大納言どのの松尾(お)の花見におはせしに、さそはれたてまつりて、山ざとの花を

人めをば厭(いと)ひやすると
山ざとのあるじもとはで花をみるかな

(この山里の主(あるじ)は人の訪れを嫌がるかもしれないと思って、主(あるじ)を訪ねもしないで花を見ることよ)

(『兼好法師集』)

と記されています。

また江戸時代、名所旧跡を探訪する際の代表的な旅行案内書の一つとして出版された『都名所図会』(みやこめいしょずえ)の松尾大社の項では、「松尾社(やしろ)」「松尾七社」などに「まつを」と読みが振られています。

このように「松尾」は、昔から数多くの人によって「まつのお」として呼ばれてきており、また、それが土地の呼称でもあったのです。

時代の流れの中にあって「松尾」は今日では一般には「まつお」と呼ばれるようになってきたのですが、「松尾大社」では古より「まつのお」と呼びならわされてきたものが正式な呼称として受け継がれています。更に、事典、辞書の類も「まつのおたいしゃ」と読みがふられています。

蛇足ながら、松尾大社のホームページアドレスであるURLも「http://www.matsunoo.or.jp/」と、「no」を入れてあります。

なお、今日、広く知られ親しまれている「松尾大社」ですが、この社名となったのは昭和25年(1950)8月30日のことで、それまでは「松尾神社」と称されていました。

当記事では、時代に関係なく現在の社名である「松尾大社」として記載しています。

はじまり

さて、本殿、拝殿といった松尾大社の社殿が建てられる以前の事。

6世紀頃より、「秦」(はた)を氏(うじ)の名とする朝鮮半島からの渡来系氏族が、山背国葛野郡(やましろのくにかどののこおり/かどのぐん)(現京都市右京区太秦(うずまさ))を本拠地として勢力を張っていたことが知られています。

秦氏は土木工事では高度な技術を持っていたとされ、葛野川(現在の桂川)に灌漑工事として葛野大堰(かどのおおい)(渡月橋上流にその堰(せき)の名残りが見られます)を築くなど、桂川中流域、また鴨川下流域を支配下におき、それら地域の発展に大きく寄与したことも知られています。

後には、桓武(かんむ)天皇による長岡京遷都(784年)や平安京遷都(794年)の際には都の造営にも協力してその力を発揮しています。

その秦氏を中心として、この松尾地域一帯に居住していた当時の人々は、松尾大社(当時はまだ建造されていませんし、まだどこにも神社や社殿といったものが存在しなかった頃です)の背後にそびえる松尾山山頂付近の大杉谷に現存する盤座(いわくら)で神々をまつり、尊崇していたといいます。この盤座は巨大な岩石からなり、古くより日埼岑(ひさきのみね)などと呼ばれ崇められていました。当時の人々は、神々は山や森に天降(あまくだ)り、山中の巨岩などがそれら神霊のやどる聖地、と考えていたようで、その神々を祭祀した山や森は神聖な場所として「神奈備」(かんなび)と呼ばれていました。

このように、現在地に今日のような松尾大社の社殿が建てられる以前は、松尾大社の背後に位置する松尾山山中の頂き近くにある盤座で祭祀が営まれていたのです。

勧請

松尾大社は、飛鳥(あすか)時代末の大寶(宝)(たいほう)元年(701)、文武(もんむ)天皇の勅命を受けた秦氏の首長、秦忌寸都理(はたのいみきとり)らが現在の地に社殿を設け、背後にそびえる松尾山山中の磐座から神霊を同地へ勧請(かんじょう)(離れた場所にある土地から神の分霊を他の場所に移し祀ること)したのが始まりとされています。

朱雀(すざく)天皇(在位930〜946年)の頃に成立したものと見られる、平安時代中期における年中行事の起源や沿革、内容をまとめた現存最古の公事(くじ)書『本朝月令』(ほんちょうがつりょう/ほんちょうげつれい)(『群書類従 第六輯 律令部・公事部』所収)に次のような記載があります。

秦氏本系帳云。正一位勲一等松尾大~御社者。筑紫胷形坐中部大~。戊辰年三月三日。天--坐松埼日尾。又云日埼岑。大寶元年。川邊腹男秦忌寸都理。自日埼岑更奉-請松尾。又田口腹女。秦忌寸知麻留女。始立御阿禮平。知麻留女之子秦忌寸都駕布。自戊午年祝。子孫相承。祈-祭大~。自其以降。至于元慶三年。二百三十四年。

「秦氏本系帳に云(いわ)く。正一位(しょういちい)勲一等松尾(まつのお)の大神(おおかみ)の御社(みやしろ)は、筑紫(つくし)の胸形(むなかた)(現福岡県宗像大社(むなかたたいしゃ))に坐(ま)す中部(都?)大神(なかつのおおかみ)なり。戌辰年(つちのえたつのとし)(飛鳥時代中頃の天智(てんじ)天皇7年(668)か?)の三月三日(やよいのみか)、松尾山頂の松埼の日尾(ひお)(日埼岑(ひさきのみね)ともいう)に神が天下って坐した。大宝元年(701)、川邊腹男(かわべのはらお)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)によって、更に松尾山頂の日埼岑の盤座から松尾に請(う)け奉(まつ)った(神が移された)。そして田口腹女(たぐちのはらめ)、秦忌寸知麻留女(はたのいみきちまるめ)によって、始めて御阿礼(みあれ)が立てられた(神の出現となって迎えられた)。知麻留女の子、秦忌寸都駕布(はたのいみきつがふ)が、戌午年(つちのえうまのとし)(奈良時代初めの養老(ようろう)2年(718)か?)より祝(はふり)(神職の一つで、神社に奉仕する者)となった。以来、その子孫らが相承し、松尾の大神を祈り祭ってお仕えしてきた。其れより以降(このかた)、(平安時代初期の)元慶(がんぎょう)三年(879)に至ること二百三十四年(ふたももとせあまりみそとせあまりよとせ)なり。」

松尾大社の祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ※1)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)=中津島姫命(なかつしまひめのみこと)の2柱で、ここでは「中部大神」即ち中津島姫命が「松埼日尾(日埼岑)」に天降ったとして大山咋神についての記載は見えませんが、松尾の神が、松尾山頂の盤座から松尾の地に設けられた社殿に勧請され、以来祀られてきた様子を窺い知ることができます。

※1おおやまぐいのかみ
松尾大社並びに京都市が設置している駒札では「いのかみ」と表記されていますが、辞書、事典、書籍などでは「いのかみ」との表記も見られます。

松尾の猛霊

山背国を開拓した先住民、賀茂氏(かもうじ)と秦氏。古代豪族として知られるこの二氏は、各々社(やしろ)を建てました。

賀茂氏が愛宕郡(おたぎのこおり/おたぎぐん。山城国・京都府にかつて存在した郡。現在では京都市北区・左京区の大半に相当。)に奉じた賀茂社(賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)・賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社))と、秦氏が葛野郡に奉じた松尾社(松尾大社)です。後に、古代に隣接した愛宕郡と葛野郡の郡域の一部は平安京となり、各々が創建した社は平安京の守護神とされ、松尾大社の祭神大山咋神は「松尾の猛霊(もうれい)」と畏れられ、「賀茂の厳神(げんしん)・松尾の猛霊」と並び称されて尊崇されました。

平安時代初頭の承和(じょうわ)14年(847)のこと。

葛野郡の槻(つき)の木(欅(けやき)の古名)を切って太鼓を作ったところ、この木は我が常に遊ぶところであるとのお告げがあって、風雨が激しく吹きつのってたくさんの人が亡くなるといったことが起こったり、官吏が馬から落ちて傷ついたりするといったような奇怪なことが起こったといいます。そのはなはだ著しい神の霊験に驚いた当時の朝廷は、その太鼓を松尾大社に奉納して祈謝するとともに、正四位下(しょうしいのげ)勲二等であった松尾の神の神位を従三位(じゅさんみ)に改めました。

その後しばらくしてこの太鼓の皮が破れたので、松尾大社の神官らが太鼓の金輪を盗み、釘や馬鍬(まぐわ)(牛や馬にひかせて水田の土をかきならす農具)を作って売り払ったといいます。するとまた祟りがあったといいます。盗みを行なった神官たちは解任されます。

右大臣の源多(みなもとのまさる)(元慶6年(882)右大臣に昇進)が奉幣使として松尾大社に参った折り、太鼓に皮のないのを目にします。そこで皮を張り改めたところ、神楽の音は以前にも増して響くようになったと伝えられています。

このように、松尾の神の神威が厳しくしかも速やかであることから、この頃より、世間では松尾の神を猛霊(もうれい)と称するようになったといいます。

江戸時代中頃の宝永(ほうえい)2年(1705)、大島武好(おおしまたけよし)が山城の名所・旧跡、寺社などを、史料を引用して紹介したものとして発刊された『山城名勝志』(やましろめいしょうし)の『巻第十・葛野郡四・松尾社』には次のような記載があります。

吉記云或古記云平安之百王不易之都ナリ也東嚴神西猛霊嚴神之賀茂大神宮猛霊者松霊社是也依二神之鎮護万代之平安永々不迁宮云云

『吉記』(きっき)(※2)に「或る古記に云う。平安の京は、百王不易(ふえき)の都なり。東に巌神あり、西に猛霊を仰ぐ。巌神は賀茂の大神宮、猛霊は松の尾の霊社これなり。二神の鎮護によりて、万代(ばんだい)(永遠)の平安を期す。然(しか)らば則ち(そうだとすれば)永々(永久)に迁宮(遷宮)(せんぐう)(神社の神体をよそに移すこと)すべからず、と云々」と云う。

※2『吉記』
平安時代末から鎌倉時代初期にかけての公卿、藤原(吉田)経房(つねふさ)が仁安(にんあん)元年(1166)から建久(けんきゅう)4年(1193)にかけて書き綴ったとされる日記。現存するのは1173年から1188年までの期間。

朝廷では御所の官馬を奉って天皇の病気平癒を祈願するなど、次第に松尾の神の神位(しんい)を進めて、平安時代初期、清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)8年(866)には遂に最高位の正一位(しょういちい)を叙されています。

その後、貞観15年には再び神祟があって雨雹の怪があり、馬5匹を奉って神怒を祈謝するなどといったこともあったようです。

このように朝廷ではしばしば神馬などを奉納するほか、平安時代中期の寛弘(かんこう)元年(1004)には、一条天皇が行幸されるようになったのを皮切りに、以来、鎌倉時代にかけてたびたび行幸がなされるまでになっています。その折の1シーンは当記事最初の項でも触れている通りです。

写真集≪境内ほか≫写真集≪境内ほか≫(37枚の写真が表示されます。)
写真 
遠望
桂川に架かる松尾橋(まつおはし)(写真右)を渡りきった先の左側に小さく見える朱色の建造物。松尾大社の「平成大鳥居」です。そしてその背後にそびえるのは松尾山で、松尾大社はその麓に鎮座しています。
写真右手が、嵐山や渡月橋のある桂川の上流となります。
松尾橋東詰めの罧原堤(ふしはらつつみ)四条交差点より。
写真集2≪松風苑ほか≫写真集2≪松風苑ほか≫(35枚の写真が表示されます。)
写真 
庭園入口
写真に写っているのは回廊の北側の部分で、庭園へはこの下をくぐって入ります。
松尾大社には、昭和を代表する作庭家、重森三玲(しげもりみれい)の絶作にして昭和の名庭と評される「松風苑」があります。松風苑は平安時代を想起させる「曲水(きょくすい)の庭」、上古の時代を想起させる「上古(じょうこ)の庭」、鎌倉時代を想起させる「蓬莱(ほうらい)の庭」の三庭から成っていますが、この入口はその内の「曲水の庭」、「上古の庭」への入り口となっています。また、この二つの庭に挟まれるように、松尾大社所蔵の神像が展示されている「神像館」(旧宝物館)もあります。
さらに、霊泉として知られる「亀の井」へもここから入ります。
庭園を鑑賞するには拝観料が必要ですが、「亀の井」やその奥にある「霊亀(れいき)の滝」などへは自由に出入りできます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市西京区嵐山宮町3
祭神 大山咋神
市杵島姫命(中津島姫命)
創建年 大宝元年(701)(創祀は上古)
主な祭事 松尾祭(4月下旬から5月中旬)
文化財
重要文化財
本殿、木造神像男神坐像(2躯)、木造神像女神坐像(1躯)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 平成大鳥居
  2. 二ノ井川
  3. 朱の大鳥居
  4. 駕輿丁船
  5. お酒の資料館
  6. 客殿
  7. 蓬莱の庭出入口
  8. 蓬莱の庭
  9. 瑞翔殿
  10. 楼門
  11. 手水舎
  12. 撫で亀さん(神使の亀)
  13. 一ノ井川
  14. 山吹
  15. 拝殿
  16. 神輿庫
  17. 相生の松
  18. 回廊
  19. 北清門
  20. 南清門
  21. 神門(中門)
  22. 釣殿
  23. 本殿
  24. 神庫
  25. 椋(むく)の霊樹
  26. 南末社(祖霊社(それいしゃ)・金刀比羅社(ことひらしゃ)・一挙社(いっきょしゃ)・衣手社(ころもでしゃ))
  27. 社務所
  28. 参集殿
  29. 松風苑(曲水の庭・上古の庭)出入口
  30. 句碑
  31. 亀ノ井
  32. 北末社(三宮社(さんのみやしゃ)・四大神社(しのおおかみのやしろ))
  33. 滝御前社
  34. 霊亀ノ滝
  35. 御手洗川
  36. 拝観受付
  37. 曲水の庭
  38. 即興の庭
  39. 神像館
  40. 葵殿
  41. 上古の庭
  42. あじさい苑(※1)
  43. 盤座遙拝所(※1)
  44. 盤座登拝道入口
  45. 桂川(※1)
  46. 松尾橋(※1)
  47. 罧原堤(ふしはらつつみ)四条交差点(※1)
  48. 松尾橋西口
  49. 嵐山東公園出入口9
  50. 嵐山東公園の児童広場(※1)
  51. 遊歩道(※1)
  52. 嵐山東公園(※2)
  53. 渡月小橋(※2)
  54. 嵐山公園中之島地区(※2)
  55. 渡月橋(※2)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

嵐山、渡月橋、そして嵯峨野もほど近くに位置しています。

posted by はんなり・ジャーニー at 09:17 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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