安楽寺

茅葺の山門
茅葺の山門
上の写真は2015年12月5日に撮影したもので、この日は、当年最後の一般公開の日となりました。例年であれば山門前は紅葉一色となった上に、石段に散り積もった楓の葉とが漂わせる安楽寺独特の秋の風情を目の当たりにすることのできるところですが、当年は暖冬の影響で紅葉が遅れているようです。
山門は明治25年(1892)の建立。

法然(ほうねん)がその弟子、住蓮と安楽の名から付けたという住蓮山安楽寺(じゅうれんざんあんらくじ)。

ここには二人の僧と二人の姫にまつわる物語が伝えられています。

夏の鹿ケ谷カボチャ供養をはじめ、春には桜、つつじ、さつき、秋には紅葉など四季折々の花に合わせて一般公開されています。

二人の僧〜住蓮と安楽〜

鎌倉時代の初期、今日の住蓮山安楽寺から1キロメートルばかり東方の東山(ひがしやま)山中に、法然の若き弟子住蓮と安楽が念仏道場を開き、ここに草庵を設けて念仏修行に励んでいました。この草庵は鹿ケ谷(ししがたに)草庵と呼ばれ、住蓮と安楽の布教活動の拠点となっていました。ここが後の住蓮山安楽寺のはじまりとなるところです。

「鹿ケ谷」は、京都の中心部から見て東に見える、北は比叡山(ひえいざん)から南は伏見稲荷大社の東に位置する稲荷山(いなりやま)まで連なる山々の総称たる「東山」の一峰である如意ヶ嶽(にょいがたけ/にょいがだけ)の西の麓一帯に広がる地域です。ちなみに、五山送り火で知られる「大文字送り火」が行われる大文字山は如意ヶ嶽の支峰で、その山頂は如意ヶ嶽山頂の西方1.3キロメートルほどの所に位置しています。

平安時代初期の天台宗の高僧・円珍(えんちん)がこの東山山中で道に迷っていたところ、鹿に助けられたとされることから「鹿ケ谷」の名が付けられたといいます。

鹿ケ谷
鹿ケ谷
上記航空写真(Googleマップより抜粋)中の赤い線は、その左端を現在の安楽寺として東へ真っすぐに1キロメートル相当の線を引いたもので、鹿ケ谷草庵はその右端に位置する辺りにあったといい、今日でも樹木が生い茂る地帯となっています。
大文字の送り火は、室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の発意によって京都五山の一つ、相国寺(しょうこくじ)の横川景三(おうせんけいさん。室町時代中期〜後期)が指揮を執ったとの説もありますが、江戸時代初期に始まったものと考えられています。このことから、鹿ケ谷草庵が営まれた当時は、写真に見られるように大文字山の斜面に「大」の字を浮かび上がらせるための切り拓かれたところはなく、辺り一帯は文字通り木々に覆われた森であったことが窺えます。

さて、住蓮、安楽は二人とも生年は不詳ですが、元は、上皇の身辺の警固にあたったり御幸(ごこう)の供奉(ぐぶ)や警衛などに当たったれっきとした北面(ほくめん)の武士で、住蓮は清原次郎左衛門信國(きよはらのじろうざえもんのぶくに)といい、安楽は阿部の判官盛久(あべのはんがんもりひさ)と名乗ったといいます。二人は無二の友人でもあったようで、ある時二人して東山(ひがしやま)の吉水(よしみず)(現在の円山公園のうち)へ参詣した折、法然の説法に触れたのが縁で、信國(住蓮)が「出家して法然上人(しょうにん)の弟子になろう」と盛久(安楽)に言うと、盛久(安楽)もこれを受け入れ、こうして法然の前で剃髪し出家したといいます。そして法然から、信國は住蓮坊、盛久は安楽坊という法号をもらったのでした。

その後、この鹿ケ谷に念仏道場を開いて草庵を設け、念仏修行に励む日々を送っていたのです。

二人の姫〜松虫と鈴虫〜

建久(けんきゅう)9年(1198)、後鳥羽(ごとば)天皇は土御門(つちみかど)天皇に譲位すると内裏(だいり)から退去して、退位した天皇(上皇・法皇)の御所となっていた仙洞(せんとう)御所に移り、そののち23年間に亘って院政を敷きます。ちなみにその翌年の建久10年(1199)には、鎌倉に幕府を開き初代征夷大将軍を務めた源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなっています。

この仙洞御所にて後鳥羽上皇に仕えていた女官の中に松虫(まつむし)と鈴虫(すずむし)という若い姫がいました。二人は姉妹だったともみられ、共に容姿端麗にして豊富な教養も兼ね備えていたことから、とりわけ後鳥羽上皇の寵愛を受けていたのです。

ただ、後鳥羽上皇は長きにわたって院政を敷き、加えて源頼朝亡き後も鎌倉幕府に対して強硬路線を採ったことでも知られるように、権力に対する執着そしてその気質は烈しかったようです。そのため、後鳥羽上皇に仕える人たちは気苦労が絶えなかったようで、松虫と鈴虫もその例外ではなかったでしょう。

また、松虫と鈴虫は御所に上がると、後鳥羽上皇にもかわいがられ美しい着物を身にまとい和歌などに興じるなどして最初のうちこそ楽しい日々を過ごしていましたが、後鳥羽上皇の寵愛を受ければ受けるほど、そして日が経てば経つほどに他の女官たちからは妬まれ、意地悪を受けるようにさえなり、しかもそれはだんだんひどくなっていったのです。松虫と鈴虫は、后妃(こうひ)や女官たちが住む宮中の奥御殿である後宮(こうきゅう)での華やかな生活とは裏腹にまさに嫉視と邪知の泥沼の中でもがく日々を送っていたのです。

そのような中の建永(けんえい)元年(1206)夏のある日、松虫と鈴虫は一日の暇(いとま)の許可を得て御所を出ます。その足は東山方面へと向かい、祇園(ぎおん)や清水寺(きよみずでら)などを巡り、日ごろの後宮での虚飾に満ちた日々から解放され、楽しいひと時を過ごしていました。

そんな中、松虫と鈴虫は多くの人たちが同じ方向へと列を成すようにして歩いていく光景を目にします。松虫と鈴虫は、一体みんな揃ってどこへ行くのだろうと興味が沸き、道行く人に尋ねてみると「住蓮、安楽という二人の若い僧が営む鹿ケ谷の草庵で、吉水の法然上人を請待して別時念仏(べつじねんぶつ※1)の法要が営まれる。」ということでした。「法然」の名は松虫と鈴虫も宮中で耳にしたことがあり、自分たちも一度参詣してみようと、一緒に後を付いて行くことにします。

※1別時念仏
日々行う尋常念仏や死に臨んで行う臨終念仏に対し、特別の道場を設けて、特定の期間を限って行う念仏。

鹿ケ谷の草庵に着いてみると、そこでは住蓮、安楽が六時礼賛(ろくじらいさん※2)を勤めていました。住蓮は美声の持ち主で、唱導を能くし、安楽は音楽的才能に恵まれて住蓮とともに六時礼讃に曲節をつけ、専修((せんじゅ))念仏の普及に大きな役割を果たしているだけあって、それを聞いていた松虫、鈴虫はすっかり魅了されてしまいます。それが終わると法然が現れて法話が始まりました。法然の法話を聞いた松虫、鈴虫は歓喜の涙にむせびます。人生の転機ともなる充実したひと時を過ごした松虫、鈴虫の二人は、帰りの刻限も迫り、仙洞御所へと帰って行ったのでした。

※2六時礼賛
1日を6つに分け、誦経(読経)、念仏、礼拝を行うもので、その6つ(六時)とは、15時〜19時にあたる日没(にちもつ)、19時〜23時にあたる初夜(しょや)、23時〜3時にあたる中夜(ちゅうや)又は半夜(はんや)、3時〜7時にあたる後夜(ごや)、7時〜11時にあたる晨朝(じんじょう・しんちょう)、11時〜15時にあたる日中(にっちゅう)を指します。

その日以来、松虫、鈴虫の頭から住蓮、安楽の六時礼賛、法然の法話が頭から離れず、いつしか松虫、鈴虫はこのまま虚飾に充ちた仙洞御所での生活を続けるよりは、御所を飛び出して住蓮、安楽の弟子となって念仏修行に励みたいとの強い願望を抱くようになったのです。ただ、松虫、鈴虫は後鳥羽上皇の寵愛深い身の上であり、また、御所の警戒は厳重で、容易に外へ出ることなどできず、行動に移せないまま、日が過ぎていきました。

こうして半年近く経った12月も暮れに近いときのことです。

後鳥羽上皇が紀州熊野へと参詣に赴くこととなります。御所から紀伊半島南部にある熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)(本宮)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)(新宮)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)(那智)の熊野三山(くまのさんざん)を参詣するには距離も相当あることからそれなりの日数が必要となります。しかも大勢のお供も付き従って行きます。そのために御所内は手薄となって静まり返ることになります。こうして松虫、鈴虫の二人にとって御所を抜け出すまたとない機会が訪れたのです。

後鳥羽上皇一行が出立すると、二人は日が暮れてから行動に出ます。夜陰に乗じて仙洞御所を抜け出します。人目につかないように提灯の明かりも持たずにひたすら住蓮、安楽のいる鹿ケ谷草庵を目指して暗がりの洛中を抜け、慣れない東山の山道を進み、鹿ケ谷へと分け入って行ったのでした。

松虫、鈴虫は無事鹿ケ谷草庵にたどり着き、住蓮、安楽に会って、訪問した理由を切々と述べます。

「私共は仙洞御所にて帝(みかど)に仕えるものでございます。

去る当庵室において住蓮様、安楽様の六時礼賛を聞き、また師法然上人の法話に感銘を受け、憂世(うきよ)を離れ仏弟子(ぶつでし)となり念仏修行に励みたいと思い、今宵(こよい)帝の留守を幸いに、密かに御所を忍び出て、夜道をこうしてやって参りました。どうか私たちの出家の儀、お聞き届けくださいますようにお願い申し上げます。」

これを聞いた住蓮、安楽はびっくりし、どうか今一度考え直して思いとどまるようにと諭します。が、松虫、鈴虫の決意は固く、住蓮、安楽の言葉を聞き入れようとはしません。

それでも続く住蓮、安楽の説得に松虫が涙をこぼしながら歌を詠みます。

哀れ憂(う)きこの世の中にすた(廃)り身と
知りつつ捨(す)つる人ぞつれなき

(ああ、なんと悲しいことか、この世に何の未練もなくなった者の出家の望みを断られようとは、なんとつれない(思いやりのない)ことでしょう)

住蓮と安楽は松虫、鈴虫の決心のほどを知り、帝の怒りに触れ例えどのような咎めが下されることになろうとも、二人の姫の願いを受け入れることにしたのでした。

安楽寺のパンフレットには、松虫が住蓮から、鈴虫が安楽から、それぞれ剃髪を受ける図が掲載されています。この時、妙亭(みょうてい)と法名を授かった松虫は19歳、、釋尼妙智(しゃくにみょうち)と法名を授かった鈴虫は17歳だったといいます。後鳥羽上皇の留守中に御所を忍び出て出家を遂げた松虫、鈴虫はこのまま住蓮、安楽のもとにいるわけにもいかず、またこの後は念仏修行に励むべく、紀州(現和歌山県)粉河(こかわ)の山奥へと身を隠すことにしたのでした。

法難

一方、仙洞御所では後鳥羽上皇お気に入りの松虫、鈴虫が密かに御所を抜け出し、その行方が分からないとして上を下への大騒ぎとなったことは想像するに難くありません。そうこうするうちに、後鳥羽上皇は熊野参詣も終わり、年も明けた建永2年(1207)正月16日に御所へと帰ってきます。

寵姫の松虫、鈴虫の行方が分からなくなっているとの報告を受けた後鳥羽上皇は日本国中を回ってでも探し出すようにとの厳しい命令を下します。そうこうするうちに次第に事のいきさつが見えて、松虫、鈴虫が出家して尼僧となったことを知った後鳥羽上皇は深く嘆き悲しみます。

折しも、「念仏だけで救われるという専修念仏」を快く思わなかった一団がいました。南都北嶺の仏教勢力です。

専修念仏を推進する法然率いる新宗教の運動(念仏宗)の繁栄をねたんでいた南都北嶺の仏教勢力は、南都においては東大寺(とうだいじ)、西大寺(さいだいじ)、法隆寺(ほうりゅうじ)、薬師寺(やくしじ)、大安寺(だいあんじ)、元興寺(がんごうじ)、興福寺(こうふくじ)の七大寺が廻状を出してその中でも強大な力を誇った興福寺に集まり、一方、北嶺(比叡山延暦寺)においては三千坊の僧たちが大講堂に集会し、それぞれ念仏宗をつぶすための相談が行われたといいます。

その結果として、延暦寺の僧徒は元久(げんきゅう)元年(1204)、専修念仏の停止(ちょうじ)を迫って蜂起し、天台座主(てんだいざす)真性(しんしょう)に対し、専修念仏の停止を要求していました(「延暦寺奏状」)。

一方、興福寺の一団は翌元久2年(1205)、専修念仏の停止を求めて朝廷に上奏していたのです(「興福寺奏状」)。

こうした状況の中、松虫と鈴虫が出家して尼僧となったという事件が起きるに至って法然率いる教団に対して抱いた後鳥羽上皇の「怒り」は、この事件に関連して更に、松虫・鈴虫が住蓮・安楽と密通したという「噂」が流れたことから、「激しい怒り」へと変わることになります。後鳥羽上皇は南都北嶺の仏教勢力からの専修念仏の停止の訴えを聞き入れたのでした。

処罰はそれだけで終わらず、法然率いる教団に対するさらなる弾圧へと向かうことになります。

住蓮、安楽は捕らえられると、取り調べの結果、死罪となります。そして、同建永2年2月9日、住蓮は近江国馬淵(まぶち)(現在の滋賀県近江八幡市)で、、安楽は東本願寺(ひがしほんがんじ)近くの京都六条河原で、共に斬首されたのです。

更にこれに止まらず同年2月28日、法然は土佐国(とさのくに。現高知県。)へ流罪(後に円証(前関白九条兼実(くじょうかねざね))の庇護により讃岐国(さぬきのくに。現香川県。)に改まっています。)とし、親鸞(しんらん)は越後国(えちごのくに。現新潟県。)に流罪とする宣下が下されたのでした。この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪されて、法然は「藤井元彦男」(ふじいのもとひこおのこ)の罪名(俗名)を、親鸞は「藤井善信」(ふじいのよしざね)の罪名(俗名)を与えられます。この他にも法然の中心的な門弟たちに対して処罰が言い渡されています。法然数えの75歳、親鸞35歳。

いわゆる「建永の法難(承元(じょうげん※3)の法難)」です。

※3承元
建永2年(1207)10月25日に「承元」と改元されています。

この法難に関して、歴史書『愚管抄』(ぐかんしょう)には

終(つひ)ニ安樂・住蓮頸(くび)キラレニケリ。法然上人ナガシテ京ノ中ニアルマジニテヲハレニケリ。

と書き記されています(岩波書店『日本古典文学大系86』より)。

一方、「異(こと)なることを歎(なげ)く小さな書」として親鸞の没後成立した仏書で、親鸞没後に信徒たちの間に広まっていた異端説を批判して、親鸞本来の信仰のあり方を説こうとした『歎異抄』(たんにしょう)には、法然とその門弟らへの朝廷の処断の記録が「流罪記録」と仮に題目が付されて、次のようにやや詳しく書き記されています(小学館『新編日本古典文学全集44』より)。

(流罪記録)
後鳥羽院之御宇、法然聖人、他力本願念仏宗ヲ興行ス。于時、興福寺僧侶、敵奏之上、御弟子中、狼藉子細アルヨシ、無実風聞ニヨリテ、罪科ニ処セラルゝ人数事。
一、法然聖人、幷御弟子七人、流罪。又、御弟子四人、死罪ニオコナハルゝナリ。
聖人ハ、土佐国番多トイフ所ヘ流罪。罪名藤井元彦男云々。生年七十六歳ナリ。
親鸞ハ越後国。罪名、藤井善信云々。生年、三十五歳ナリ。
浄聞房備後国。澄西禅光房伯耆国
好覚房伊豆国。行空法本房佐渡国
幸西成覚房・善恵房二人、同遠流ニサタマル。シカルニ、無動寺之前代大僧正コレヲ申アツカルト云々
遠流之人々、已上八人ナリト云々
被行死罪人々。
一番西意善綽房。
二番性願房。
三番住蓮房。
四番安楽房。
二位法印尊長之沙汰也。
親鸞、改僧儀、賜俗名。仍、非僧非俗。然間、以禿字為姓、被経奏聞了。彼御申状、于今、外記庁納云々
流罪以後、愚禿親鸞令書給也。

【現代語訳】
(流罪記録)
後鳥羽上皇の御代に、法然聖人が、弥陀(みだ)の他力に頼り、その本願を信ずることで往生できるという念仏宗(法然の唱える宗門の当時の呼称)を盛んに広く行った。その時に、奈良の興福寺の僧たちが、法然聖人たちを、仏法の敵として、上申書をもって朝廷に奏状した上に、法然聖人の御弟子の中に、無法な行動(後鳥羽上皇の熊野御幸の留守中に御所の女房が出家する事件を起こしたことなど)により罪科と認められる理由があるという、無実の噂によって、法による処罰が行われた人数に入った人々は、以下のとおりである。
一、法然聖人、及び御弟子七人は流罪。また、御弟子四人は死罪に処せられたのである。
聖人は、土佐国(とさのくに)の幡多(はた)(現高知県の西南部の郡名)という所へ流罪となる。罪人としての名は、藤井元彦男(ふじいのもとひこおのこ)(僧・尼が犯罪をなした場合は還俗させるという法令に基づく処置で、「藤井」は便宜的な姓。「元彦」は法然の法諱(ほうき)源空の「源」にちなんだ命名か。「男」は、侍・郎党・下部(しもべ)・下男など、身分の低い者につける呼称。)という。その年齢は七十六歳(誤りで、正しくは七十五歳)である。
親鸞は、越後国(えちごのくに)(現新潟県)へ流罪。罪人としての名は、藤井善信(ふじいのよしざね)という。年齢は三十五歳である。
浄聞房(じょうもんぼう)は、備後国(びんごのくに)(現広島県の東半分の地域)へ流罪。澄西禅光房(ちょうせいぜんこうぼう)は、伯耆国(ほうきのくに)(現鳥取県の西半分の地域)へ流罪。
好覚房(こうかくぼう)は、伊豆国(いずのくに)(現静岡県の伊豆半島の地域)へ流罪。行空法本房(ぎょうくうほうほんぼう)は、佐渡国(さどのくに)(現新潟県佐渡市(佐渡島))へ流罪。
このほか、幸西成覚房(こうさいじょうかくぼう)・善恵房(ぜんねぼう)の二人は、同じように遠国へ流罪と決まった。ところが、無動寺(むどうじ)(比叡山延暦寺東塔無動寺谷にある塔頭(たっちゅう))にいたことのある、前代の大僧正の慈円(じえん)(『愚管抄』の著者)が、官に上申して、二人の身柄を引き受けたという。
遠国への流罪に処せられた人々は、以上の八人であるという。
死罪に処せられた人々は、以下のとおりである。
一番は、西意善綽房(さいいぜんしゃくぼう)。
二番は、性願房(しょうがんぼう)。
三番は、住蓮房(じゅうれんぼう)。
四番は、安楽房(あんらくぼう)。
この死罪は、二位の法印と呼ばれた尊長(そんちょう)の指令によるものである。
親鸞は、流罪にあたり、僧としての姿を改め、俗人としての名を頂いた。これによって、僧でもない、俗人でもない身となった。そんなわけで、「禿(とく)」という文字をもって姓としようとし、官に上奏する手続きを経過して、認可された。その御上申状(「藤井善信」を「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と改めるための上申書)が、今も外記庁(げきちょう)に納められているという。
流罪になってから後は、姓を改めて、「愚禿親鸞」とお書きになったのである。

さて、紀州の粉河へと身を隠していた松虫と鈴虫。

二人は住蓮と安楽が捕らえられたことを知り、京へと戻りますが時すでに遅く処刑された後で、これを知った松虫と鈴虫は自害した、とも伝えられていますが、実のところは、瀬戸内海に浮かぶ生口島(いくちじま)の光明坊(こうみょうぼう)(現広島県尾道市)へと渡ったといいます。松虫と鈴虫が光明坊へと向かうにあたってこの二人が住蓮と安楽が死罪となったことを聞き及んでいたかどうかは分かりませんが、松虫と鈴虫は光明坊で念仏三昧の日々を過ごしたのでした。そして、松虫は35歳で、鈴虫は45歳で世を去ったと伝えられています。

法然、帰京

建永2年2月に処罰が下されて10ヶ月ほど讃岐へ配流の身になっていた法然に対し赦免の宣旨が下されました。が、まだ入洛は許されませんでした。そこで法然は翌承元(じょうげん)2年(1208)(※3)から3年10ヶ月ほどの間、摂津(大阪府北中部から兵庫県南東部に広がる地域)の勝尾寺(かつおじ)(大阪府箕面市)に滞在します。

建暦(けんりゃく)元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り、京へ戻ってきました。しかし法然はすでに高齢の身。加えて長年の旅の疲れがでたのか、2ヶ月後の建暦2年(1212)1月25日、世を去ります。享年80歳(満78歳没)。

この入洛してからの2ヶ月のうちに、法然は住蓮と安楽の菩提を弔うために「住蓮山安楽寺」と号する一宇の御堂を、すっかり荒れ果ててしまっていたかつての鹿ケ谷草庵の地に建立することを弟子に託したものと思われます。

現在の安楽寺は、室町時代末期の天文(てんぶん)年間(1532〜1555)の末に本堂が現在地に再建されて移ってきたものだといいます。そしてここに、住蓮と安楽の墓や松虫と鈴虫の供養等が立っています。

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安楽寺〜古都・スポット風景〜
写真集写真集(18枚の写真が表示されます。)
写真 
山門前
「浄土礼讃根元地」と刻まれた石柱が立っています。
住蓮・安楽は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(おおはらぎょざん)(天台宗)の礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成したといいます。
≪関連情報≫
項目 内容
通称 松虫鈴虫寺(まつむしすずむしでら)
所在地 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21
山号 住蓮山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 建永元年(1206)頃
開基 住蓮上人・安楽上人
開山 住蓮上人・安楽上人

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 住蓮・安楽の墓
  3. 松虫・鈴虫両姫の供養塔
  4. 佛足石
  5. 地蔵堂
  6. 本堂
  7. 書院
  8. 霊鑑寺
  9. 哲学の道(※1)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 16:32 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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